谷甲州講演会
以下は1998年10月17日午後1時30分より寺井町立図書館にて行われた「作家を囲む会」の講演内容を御本人の許可の元にテープより文章にしたものです。
- 司会
- 本日はお忙しい中「作家を囲む会」にお越しいただきまして誠にありがとうございます。ただいまより始めさせていただきます。
本日ご講演いただく、谷甲州先生のプロフィールをご紹介させていただきます。
先生は、兵庫県のご出身で、大阪工業大学を卒業後、建設会社に勤務され、その後青年海外協力隊に参加しネパール、フィリピンにてそれぞれ3年間生活され、7000メートル級のヒマラヤ登山をされた経験をお持ちです。
現在は小松市在住で、SF作家・冒険小説家としてご活躍されています。
尚、平成8年には集英社から出版された『白き峰の男』の中に収録された、「沢の音」等3編で第15回新田次郎文学賞を受賞されました。
その他、著書に『ジャンキージャンクション』等多数ございます。
本日は「山岳・SFに対する思い」と題し、先生の方から1時間ほどご講義をいただきその後30分ほど質疑応答の時間を設けたいと思っております。
それでは先生お願いいたします。
(拍手)
- 谷甲州
-
数年程前に別の場所で1度だけ、いつもどのように小説を書いているかという話をしたことがあるんですが、そのときは予定していた内容の半分もいかないうちに1時間半たってしまったので、今日は1時間となると、考えながらやらないとはみ出しそうになると思います。
これまでの出た本の数は、単行本から文庫本になったとかの再刊はまったく別にしてオリジナルだけで51冊あります。ということは、年間に3冊とか4冊とか最低でも書いているわけで、普通にやっていたら、こんなもの(小説?)は大体ネタ詰まりをおこしたりするものです。そうならないためにプロの小説家は、どういうことを考えて話を組み立てていくのか、そのあたりをお話しましょう。
話の枕ということで、私が小説家になる前にどういう仕事やっていたかというのを順番にお話しすると、現在の小説の形なんかもわかるような仕組みになっています。が、経歴をずっと話しているとそれだけで1時間2時間経ってしまいます。
先程ご紹介がありましたので、そのあたりは、はしょりながらいきたいと思います。
大ざっぱな所だけ言いますと、1973年に大阪工業大学の土木工学科を卒業しました。ようするに元々は土建屋をやっていたわけです。会社に入ったのがその年の春で、その後4年半ほど現場監督やっていました。
別に文学部とか出てたわけでもなく、小説の書き方というのは自分で本を読んで、見よう見まねでやっていたわけで、元は技術屋だったわけなんです。
4年半ほど土建屋やった後に、ご紹介にありましたようにネパールの方へ行きました。ネパールで何をやっていたかと言いますと、青年海外協力隊でネパール政府の職員といっしょになって、測量の技術指導やっていたわけです。カトマンズが丸2年間。ネパールでもインドの国境の方へ移動して、そこで1年ちょっと、合計3年間です。会社をやめて行っていたし、ネパールの仕事が終わったらあとは自由でしたので、じゃあ山でも登ろうかと思ったんです。ネパールやインドの山など、7000メートルくらいの山まで登りました。その後はインド国内やパキスタンを歩いたりした後、所持金がつきたので日本へ帰ってきました。日本へ帰ってきたのは81年の暮れぐらいでしたか。仕事が終わってから日本で1年近くうろうろ遊んでアルバイトとかやっていましたが、その後にフィリピンに行ったわけです。フィリピンはまるまる3年間。むこうは山はありますが、日本と違って登山道路とか登山施設、山小屋とか整備がされておらず、登山対象になる山がないので、スキューバダイビングをやっていました。マニラに住んでいたんですが、マニラから2、3時間行くとスキューバダイビングができる珊瑚礁が多いのです。
それで86年には日本へ帰ってきて、その後は小説ばかり書いてきました。そういう仕事がどういう風に小説と関係してくるのかというと、いろいろな小説を書いていますけど、その51冊の中でちょうど半分くらいは宇宙で人が行動するような話で、広い意味で言ったらSFになるわけです。
SFというか宇宙小説です。その他にも山岳小説なども書いています。
山岳小説は全体の10分の1くらいです。5冊くらい。そんなに数は多くないです。
その他には冒険小説を書いたり、シミュレーション戦記等いろんなものを書いています。
山の経験だけを生かせば山岳小説だけ書けばいいんですけど……書くことができるわけです。他に書いている人がいないから、それだけでもやっていける訳ですが、それでは面白くないのでいろいろなものを書いています。
経験をそのまま小説に書くというようなやり方は、あんまり好きじゃありません。想像力でいろいろなものを書きたいという思いがいつもあります。
1977年、フィリピンへ行く4、5年前に、商業誌に小説を発表していたのですが、フィリピンにいた時にそういう話をすると在留邦人の人からも「フィリピンは面白い話はいっぱいあって、小説の材料には事欠かんやろう」とよく言われました。が、実はそうでもありません。例えばフィリピンの在留邦人が、何か事件に巻き込まれるというような話を書けば面白いかもしれない。でもそういう話はほとんど書いてないです。まったくないということはないですけれどね。
ネパールの経験をそのまま書こうとすれば、ネパールで仕事をしている青年海外協力隊員が、現地のネパール人と様々なトラブルがあって、それに悩んで、まさに青春小説を書けるということもあるんでしょうけれど、それだとどうもあんまりつまらない。もっと嘘八百を書きたいという欲求があります。
話が前後しますが、一番最初に書いた長編小説というのが『惑星CB―8越冬隊』という話です。これは80年頃に書いて81年に本になりました。
どういう話かと言いますと、SFです。
はるか遠くの惑星で、惑星を改造するというプロジェクトをやっている人達がいて、プロジェクトのその惑星の中には何十人という人間しか住んでいないんです。そのプロジェクトをやるための越冬中に地上に事故がおこりまして、全員死ぬのではないかという状況を克服して生きのびるという、サバイバル小説みたいな所があります。
これが初めての小説なんですがこの中に自分の経験が全て入っていました。
というのは、プロジェクトやっている登場人物の主人公は、土木技術者みたいなもので、雪嵐の中で平原を越えていくというようなシーンが出て来ます。その場合に何をやっているかというと、測量技術者ですから測量のやり方で、雪原を越えていくというような描写を書いたわけです。
プロジェクト自体も土木工事をやっていたわけで、雪原の中を越えていく行き方というのは、冬山登山の経験などをそのまま放り込んで書いたわけです。
土木が出てきて、山が出てきて、後は技術関係のところですね。技術関係というか、機械的なトラブル、例えば雪上車が吹雪の中で故障した場合に、どうやって修理をするかということも、土建屋をやっていたときにブルドーザーの故障を現場で修理していたとかという経験で書いたわけなんです。
経験を直接小説にしようと思ったら、例えば現場工事をやっていたときに、日本国内の土木工事で、ブルドーザーの修理をしていたような話を書ければ良いんですけれど、そんな話は誰も読みませんね。
ですから、それを完全にSFという形で書く事によって、自分の体験を書いたんですが、まったく別の話にしてしまったというようなところがあるわけです。
それが一番最初の長編小説でしたが、その後ずっと書いていたのが『航空宇宙軍史』という連作の宇宙小説です。
航空宇宙軍というのは地球のまわりを根拠地とする、宇宙軍、軍隊です。
木星・土星あたりを地球から行った人達が開発して住んでいるわけなんですけれども、その人達と戦争になる。そういう中で、宇宙の中で戦闘が起こるとどういうことになるかということを、細かく細かく書きました。
これは長編と短編の連作で、10冊近く本が出てるんですが、その中でも自分の原点みたいなものがでるわけなんです。
例えば輸送中の宇宙船を襲撃する、通商破壊ですね。そういうような戦闘があるとすると、その場合にひとつの惑星から別の惑星へ物を運ぶような輸送船団はどういう軌道をとるかという点を、軌道の計算をするところから始めていたんです。
それ以前に、22世紀頃の宇宙船というのはどういう形をしているのだろうか、どういう推進エンジン使っているか、居住性などはどうなっているなど、そういうところまで考えて、宇宙船を設計するところから始めました。
これも土木工事をやっていた時に積算などをしていた感覚でやっていました。
軌道の計算なども測量仕事をやっていた時の横断面図と同じような感覚で図面を作って、タイムスケジュールというか、形を整えながら話を作っていったわけです。
この航空宇宙軍史には特定の主人公がいなくて、一つの歴史軸のまわりに、いろんな人達が出てきて物語が展開する、22世紀の歴史小説という形で書いていったわけなんです。
その中には技術の体系があります。
一つの技術ができるまでには他の技術もなければなりません。だからその新しい技術ができた場合に、別の技術がどんな風に発達していくのかとか、技術を使いこなす技術者達はどういうような生活するんだろうかとかまで考えながら書いていったわけなんです。
それでもやはり経験は出てくるわけで、例えば宇宙空間で構造物工事してる人達がでて来ます。いわゆるEVAです。最近スペースシャトルでもよくやっていますけど、宇宙空間で工事をする場合、細かい所は宇宙服着て人間がやるしかないので、宇宙遊泳をしながらステーションなんかを組み立てていくと、その中で事故が起こったというような話も書くわけです。
宇宙服がトラブルを起こして、空気が入ってこなくなった場合はどうするかというと、作業員というのはいつも2人1組になって工事をしているのではないかと設定します。そして1人が宇宙服にトラブルを起こしたら、一緒に仕事しているもう1人の人がバックアップに回って、背負っている酸素タンクからもう1人の宇宙服へチューブを送って、そこで呼吸をさせてやるというようなストーリーも書いたりしました。
これは、スキューバダイビングをやっていた時に教えられる技術です。
ダイビングの時は、海の底に30メートルぐらいまで潜るんですが、必ず2人1組で潜るという事になっているんです。
というのは、いまはもう機材はそんなに故障しませんけれども、昔はよくあったらしいんです。機材が海の底で故障すると、胸の中に吸い込んだ空気だけでは水面にあがるまでにもたないのと、一気にあがって来ると潜水病にかかるので、そういう場合には一緒に潜っている人が、空気の供給をしてあげて、更に協力しあいながら安全地帯の水面まで浮上する。そういう技術があるんですが、宇宙空間の中でも同じではないかと思いまして、そういう書き方をしています。
山岳小説というのも5、6冊書いてますが、これも経験だけで書いたわけではありません。
ヒマラヤは7000メートルまで登りましたけれども、7000メートルと8000メートルでは同じヒマラヤでも感覚が全然違うらしいんです。私は8000メートルまで行ってないからわかりませんけれども。
更に同じヒマラヤでも8500メートルを越えると、それはまた8000メートルラインとは全然違う世界だというような話なんです。
だから、山岳小説では8500メートルまで行った話も書きましたが、そうしますとほとんど想像力で書くしかありません。俗な話ですと7000メートルくらいは健康な人なら誰でも登れるとよく言うんです。8000メートルになると国体に出るくらいの選手であれば登れると、もちろんこれは酸素なしで登る場合です。
酸素とかシェルパとか一杯つければ、今は8800メートルくらいまでは登れますが、無酸素なら8000メートルまで登ろうとしたら国体級の体力がないとダメです。
8500メートル越えると、これはもうオリンピックぐらいの、よほど強い者でないと登れないとそういう事まで言われていました。が、最近は登り方の技術がいろいろ変わりまして、8800メートルくらいでも割と素人の人でも登れるようになりました。ですが、死ぬときは死にます。
それで山岳小説も書いてたわけですが、日本国内の山でも経験だけでは書けない所があります。さっき紹介していただきました新田次郎賞を受賞した作品の一つ『沢の音』といいますが、これは登場人物達が日本の夏の山に沢づたいに登っていたら、途中集中豪雨にあって、川の水がどんどんどんどん膨れ上がり、非常にあぶない目にあうという話です。その中に鉄砲水をくらって沢の地形が完全に変わるくらいの被害を受けて危うく死にかけたという話を書いたんです。かなり後になりましてから、作家としては先輩の西木正明さんという、私より1年前に『夢幻の山旅』という小説でやはり新田次郎賞を受賞された方ですが、その方と雑誌の対談の企画でいろいろと山の話をしていました。その中で西木さんが「あんた鉄砲水まともにくらった事があるだろう」とおっしゃるわけです。
これは本を読みながら、絶対にお前は痛い目におうてるに違いないと思ってそういうこと言われたわけですが、実は私、鉄砲水と遭遇するというのは全然経験していなくて、山に登った人の体験手記とか入門書とかそんなのを読みながら勝手に書いた、つまり想像力だけで書いたわけなんです。
そしたら西木さんがびっくりして「お前、相当なうそつきやな」とおっしゃるんです。小説家にとって嘘つきというのは非常な誉め言葉であるんですが、「お前はすごい嘘つきである」と、そういう事言われたわけなんです。
話が抽象的になってきました。
- 高所体験ってのがあるんですが、高い場所に登った経験はSFにも別の形で出てくることがあります。
宇宙船というのは、いろいろな種類のものを小説の中に出したんですけれども、個人営業の宇宙船を飛ばしている人というのも小説の中で書いたことがあります。個人営業というから、今の感覚で言うと、ダンプカーなんかを個人で持っていて、山砂運んだりするわけです。自前のダンプカーを持っているわけだから、ドライバーは非常に機械を大事にします。車もトラックも、車の中も綺麗に磨いてるし、いろいろ改造もして、一生懸命稼いで、ローンで車の代金払いながら、ダンプ仕事をやっている人がいます。そういうような人も22世紀になれば、中古の宇宙船を買って、それで営業しているような人もいるんじゃないかというような事を考えて、そういう人を主人公にしてストーリー書いたこともあるんです。
この人の乗っている宇宙船というのが、船内気圧が0・2気圧ぐらいしかない。
宇宙船というのは、地球上と同じ気圧にする必要はないんです。初期の頃のアポロ宇宙船なんか、ほとんど純粋酸素で宇宙船の中を満たしてたわけなんですが、普通の空気というのは、窒素が80%酸素が20%ぐらい。それで1気圧でその他に炭酸ガスとかありますけども、その窒素だけ余分なんですね。
部屋中の空気を例えば酸素で満たしてやれば、効率的な事ができるんだけれども、その場合1気圧じゃ酸素酔いを起こしてしまうから0・2気圧の酸素でも全然かまわないわけなんです。つまり、空気1気圧が必要なわけではなくて酸素の分だけで0・2気圧あればいい。初期の頃のアポロ宇宙船は確か0・2気圧ぐらいの酸素で船内を満たしてたと思うんです。何でそんなに窒素を抜くのかというと、その方が構造材が安上がりにすむ訳なんです。宇宙空間というのはまるっきりの真空ですから、0気圧ですね。そこに1気圧の空気を詰め込んだ宇宙船を持っていくと、内側が1気圧で外側が真空だから、へたしたら破裂します。だから宇宙船は頑丈に作って有る訳なんですけど。
1気圧でも、結構壁の面積が大きくなると圧力が高くなりますから。初期の頃のソ連の宇宙船なんかはかなり頑丈に作って、それに近いことをやってたらしいんですけど。
でもそれをやると構造材でかなり重さをくうから、アメリカの場合は純粋な酸素だけで満たしてた。その分構造材が軽く済むんです。
サターン5型のロケットの、あんなでかい物でも、かなり力が不足してる部分があるんです。てっぺんのアポロの宇宙船の部分をほんの半分でも軽くしてやれば、ロケットにかかる負担は全然違ってきます。だから少しでも軽くしようとして、苦労してる訳なんです。軽くするために、アポロ宇宙船っていうのは0・2気圧ぐらいの酸素で満たしていました。そうすればロケットエンジンにも余裕が出てきて、それで月まで行ける訳なんです。ただし0・2気圧の酸素というのは非常に危ないです。中で火事を起こすとあっという間に燃え尽きてしまいます。
実際にアポロ宇宙船は初期の頃火災事故を起こした事があるんですね。乗ってた宇宙飛行士3人は丸焼けになりました。これは発射台で訓練やってた頃の話ですけど。
その後、純粋な酸素は危ないということで、今は混合空気を使っていると思うんですけど、0・4気圧ぐらいの空気で酸素は0・2気圧ぐらい……正確には覚えていないんですけど、スペースシャトルなんかはそういうことやってるはずです。0・4気圧だと思います。だから、宇宙船の内側の気圧を低く押さえてやれば、コストが安くなるんです。
で、さっきの話に戻っていくんですが、個人営業で宇宙船を自分で持って営業しているおじさんが出てくるわけです。登場人物の中で、その人が何やったかというと、0・1気圧あたりの空気で、酸素で宇宙船の中を満たして、それ以上は使わない。まぁ、自分一人しか乗っていない訳だから、誰も文句言う奴はいない。そういうわけなんで0・1気圧ぐらいの酸素で、ぎりぎりまで重量を軽くしてしまうんですね。
そんなところで人間が生きられるかどうかというと、実は生きられるんです。
ネパールの4000メートル辺りにも既に村があります。4500メートル辺りまで人が住んでます。南米辺りへ行くと5000メートルくらいまで村があります。
4500メートルとか5000メートルといったらどのくらいの気圧かと言いますと、大体地上の60パーセントくらいですか。そういうところでも、人間は住んでいるわけなんです。だから慣れれば、訓練さえすれば、そういうところでも暮らせる。血液中の酸素運搬能力が高くなるということなんですけどね。
その個人で宇宙船を使っているおじさんはできるだけ自分の宇宙船を軽くして、そうすると燃料代が浮きますから、安上がりに仕事を請け負う、仕事をまわすことができるわけです。
競争社会ですから、目一杯軽くして、酸素分圧まで落として構造材の分までケチって営業ラインに乗せるというかわいそうな人が出て来るんです。それでも宇宙の中へいっぺん出ますと帰ってくるまで1年とか2年とかかかる場合も珍しくないわけで、そうすると目一杯重量を切りつめていくわけだから、食糧や生活空間も減らして、軽自動車くらいのスペースの中で1年ぐらい生活したりするわけなんです。
それでもちろん無重力だからそのままじゃ筋力が落ちるので、毎日身体つっぱらかしてトレーニングしてると、そういういかにも未来には違いないけども、すごくせせこましい未来を書いたりしたわけなんです。結局そういうのも、経験からそういう方向へ持ってくる訳なんですね。
あまり他の人がやらないような経験というのは86年で終わってるんです。フィリピン行ったり、ネパール行ったり、ダイビングしたり、ダイビングは最近また始めましたけど……その代わり何をするかといったらノンフィクションなんかをバカバカ読み出したりしています。最近は歴史小説のほうなんかにも仕事が移ってきたりするんですけど、歴史の本を読んでいるとだんだんそっちの方を書きたくなってくるんです。
話が抽象的になりすぎましたけれども、もうちょっと話を続けていきたいと思います。
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新しい仕事をやるとき、とっかかりはどういうところからやっているかというと、最初の頃は1人でやってたから好き勝手できましたけれども、最近はたいてい編集者の人と打ち合わせしながら話を作っていくわけなんです。良い編集者に当たればすごく良い物ができます。あまり力のない編集さんに当たりますと何かわけのわからんものができたりします。あまり大きな声で言ったら怒られるけど、その方がかえって良い物ができたりすることがままあったりします。
初めて書いた山岳小説というのは『遙かなり神々の座』といって、山岳冒険小説でした。
これを書いたきっかけは、82年ぐらいでしたか。出版社の編集さんと酒を飲みながらいろんなこと言ってたんですけど、その中でチベットのダライラマの親衛隊が実はネパールまで亡命してきているというのがありまして、ネパール領内を聖域にしてそこからチベットへ出撃してるような話をしてたんです。ところが中国の方からネパールに圧力かけて、ヒマラヤの奥で戦争が起こった事があるんです。ネパールで実際にあった話なんですけれど、そういう話を知ってたから「こういう話実はありますねん」と編集さんに言ったら、「それは面白い、それ小説にせぇ」と、言うので作ったのが『遙かなり神々の座』というんです。
実際にあったことを、そのままノンフィクションにしても面白くも何ともないので、登場人物をいろいろ工夫したり、女の人を出してみたり、因縁話を入れてみたり、山の中で鉄砲撃ち合いするような話入れてみたり、そんなこんなで話盛り上げたりしました。
ネパールの山の中で起こっている話というのはジャーナリストが取材して、報道したということはあまりないです。
どこで、誰が、何をやっているかというのもよくわからんというか、こっちに伝わってくる話も、住んでる在留邦人からのうわさ話にしても、話がいろいろ尾鰭がついてて、どれが本当かようわからん。だから、嘘を書ける余地がいっぱいあるというわけです。
上品に言えば、わからないところは想像力で補うとか言いますけど、要するに嘘を書けるということなんです。
そういうのをやりまして、書いたのはいいんですけど、書いたのが82年で、本になったのが89年でした。7年間かかりました。
あんまり大きな声で言えない話なんですが、編集さんと話をしてそういう話作って渡したんですけれども、なかなか本にならない。その頃私はもうフィリピンにいて、日本の状況はよくわからなかったんです。で、86年に帰ってきて、まだ本にならないので、聞いてみたら「うちの社長、中国好きなんだよ」と編集さん言うわけです。実はそのストーリーの中に出てくるのは、チベット独立運動の闘志です。だから登場人物から見れば、当然中国は敵になるわけです。
中国がチベットを占領してる状態で、現在も中国はダライラマとかを敵視してますから。で、そこの出版社社長が、中国を好きな人なんです。また間の悪いことに、そのころ『敦煌』という映画を中国政府全面協力で作っているんです。こういう状態の時で、「中国を悪者にした小説はちょっとまずいなぁ」というようなこと言ってたらしいんです。
だいぶ後になって早川書房から本になって、わりと評判が良かったんです。そうしたら「あれ何でうちで出させてくれへんかったんですか」ってしらじらしいことを言われました。その頃まるっきりの新人でしたので、新人が本を出すというのはなかなか難しいもので、特にそこの出版社は、絶対売れる本でないと出してくれないというところがありました。
また『サージャント・グルカ』という話もネパールの関係で本にした事があります。
こっちの時は、担当の編集長というのが会社勤めやりながら8000メートルのヒマラヤにまで遠征にいってしまうという、完全なヒマラヤの人で、なかなか面白かったんです。
その人ともう1人担当の編集者と、2時間か3時間ぐらいネパールやヒマラヤの話で盛り上がりまして、最後の方になってから「そういやぁお前ネパールにおったんやったなぁ、グルカ兵の話を書かんか」と、そういう話が勢いで出てきたんですね。
じゃあ、やってみようと。
グルカ兵というのはどういう人かというと、ネパールは山国で輸出産業が何も無いわけです。産業といっても、観光客が落とすお金の他は、山の中の屈強な男を輸出するしかないんです。現代の傭兵、それがグルカ兵なんです。
イギリスに雇われて香港に駐留してましたし、フォークランドなんかにも行ってたんですけど、白兵戦では地上最強というか、そういう精強な兵隊なんです。
実際にネパール人と毎日顔あわせてた立場からしますと、精強というより、単純なだけでないかいなと思うようなところがあるんですけどね。
イギリスの傭兵ですから、第二次大戦の時にインパールとかビルマ戦線でも日本軍相手に戦争をやっています。どういうことやりよるかというと、日本軍が陣地構えて機関銃をパリパリ撃っているところへ、ナイフ1本持って、なぐり込んでいくという無茶苦茶なことをするわけなんです。
日本軍のように、万歳突撃とか死ぬつもりで飛び込んで来るのではなくて、そういう悲壮感ぜんぜんなしに、お前らそこをどけという感じで、ナイフ1本持って日本軍の陣地になぐり込んでくるんです。頭に血が上ると何をやりだすかわかないというような感じなところが有るんです。ところがそうかと思うと、えらい間抜けな所がありまして、戦後インドやビルマでは、元日本兵なんかを収容所に入れましたけれども、収容所の監視の兵隊がグルカ兵に当たったりするわけなんです。その日本兵の手記を読んでいると、グルカ兵は一番だましやすい。あまりにも間抜けすぎて…間抜けというか、愛すべきところもあるんですけれども、拘置の最中にグルカ兵の持っているコップか何かを、たまたまそれが欲しかったんで「貸してくれよ」と言って借りていったら、半日くらいたっても、彼はまだそこに立っていた。返してくれるまでずーっとそこで待っていたというような話も入っているんです。
その不可思議なところがあるグルカ兵を、小説に書いてみたいと思いました。ですがこれも資料というのがほとんどないんです。イギリスとインドから発行されたグルカ兵の本があるんですけど、全部英語の本ですから内容がようわからんかったんです。日本のノンフィクションの中でも、インパール作戦だとか、ビルマ戦だとか、あとは捕虜収容所に入っていた人の手記の中にグルカ兵の話が、ぽろぽろと書いてあったりするので、参考にしながら書いていたんです。
これは雑誌に7、80枚の連作でした。1回につき7、80枚の話をひとつ書く、2ヶ月ほどたったら、また別の話を書きました。連作という、まったく新しい手法というか、やり方だったんです。
最初の話の主人公が日本人でした。日本人が山の中で、元グルカ兵のおじさんに会った。すごくかっこよかった。よかったなと。最初のひとつが終わる。次の話が、その元グルカ兵のおじいさんの方に視点が回って、おかしな日本人がきたな。何を見ても感動するけど、こいつおかしいんじゃないかと。そういう皮肉というか、1話ごとに視点を変えて日本人が外国人からどういう風に見られているんだとか、本人が外国人を理解しているような気分になっても、実はそれは本当の理解には遠いんじゃないか。そういうような話にするつもりで全部で5つか6つぐらいの中編を連ねて連作にしたんです。
この連作が終わったところで、雑誌の出版社の中でお家騒動がありました。それで、私と関係のある人が全員会社を辞めてしまいまして、作品が宙に浮いたなと思っていたんです。でも一応原稿は最後までいったんで、これを本にしましょうと言われまして、自分としては書き直したい所もあるので、全面的に書き直しました。
その後も二転三転ありまして、この話は本当に本になるのかと思いました。結局最後には本になりましたけれど、どうもこういう風に、もめた後で出た本の方が愛着があるというか面白い物になったような気がするんです。そういうのが、実は四つか五つぐらいあります。
『遙かなり神々の座』の時も実際に本になるまで出版社をたらい回しにされたんです。
不思議なことに、三つか四つの出版社の人に「それならちょっと見せろ」とかなんとか言われて渡すんですが、その原稿をもった編集者がみんな移動でどっかとばされてしもたりするんです。こういうことってよくあることなんですよ。
最後に、もうほとんどあきらめて、当時はパソコンなんて使ってなかったですから、原稿用紙を引き出しの中に放り込んでおいたんですが、たまたま早川書房の人が打ち合わせで仕事場にきて、引き出しからぞろぞろと引っぱり出してきたら「ちょっと預らせろ」という。すぐに電話かかってきて、面白いから本にしようということになったわけです。
で、非常に評判が良かった。それまで日本で、ほとんど山岳冒険小説というのがなかったもんで、それ以来評判になったんです。
評判になったというのがどういうことかと言いますと、別の出版社の編集さんが連絡してくるわけなんです。そのうちの一つがさっきの『サージャント・グルカ』というグルカ兵の話だったんですけれども、また別の、今度は「岳人」という山岳雑誌で、ここの編集さんから電話がありました。
これが、媒体としては小説雑誌じゃないんです。山岳雑誌だから、例えば10月の白山は紅葉の時期だからこんなもんですとか、山小屋はいくらぐらいの料金で泊まれるとか、山岳写真の撮り方とか、趣味の山岳雑誌なんです。
そこに、毎月、山の小説を連載してみないかという話になったんですが、その頃山岳小説の仕事ばかりがきてたんで、たまに違うことも書きたいと、本当はSFを書きたかったんです。本来SFの人ですから。
何をどうしようかといろいろ考えて、結局、山岳SFを書けばいいだろういうことになって『天を越える旅人』という作品を連載したわけです。
チベットの修行僧が、ヒマラヤを歩きながら宇宙までいってしまうという、これも無茶苦茶な話なんです。仏教的な世界観で、チベット仏教というのは、仏教の原型に一番近いそうなんですけど、その仏教の言葉で現在の宇宙・天文学を地図にできんかというのがそもそもの発想なんです。
さかのぼって言いますと、発想の中に二つの全く異質の物を組み合わせるというのは、この間亡くなられましたけれども星新一さんというショートショートの神様がおられるんですが、ずいぶん昔にショートショートの書き方というような事で、本の中で書いていたことがあるんです。
やり方はいろいろあるけれども、まったく異質のものを組み合わせるというやり方がまずある。例えばタイムマシンがあるとする。タイムマシンの中から未来人が出てきたら当たり前すぎて、誰も面白くない。でも、もしタイムマシンの中から鬼が出てきたらどうだろう。虎の皮のふんどしはいた鬼が鉄棒もってタイムマシンの中から現れたら、読者はびっくりしてその先を知りたがる。そらそうなんですけどね。それをストーリーにしようと思ったらそりゃやっぱり相当な力技が必要です。だから全く異質な物の組み合わせで読者の意表をつくというやり方は一つの方法としてあるわけなんです。
タイムマシンと鬼というのは、いわゆる小道具の組み合わせなんですけど、形式を組み合わせるというのもあるんじゃないかというのも以前から考えたりするわけなんです。たとえば、SFと推理小説を組み合わせたらどうなるんだろうかとか。これひょっとしたら誰もやってない。誰もやってなかったわけじゃないんですけどね。実はあとで調べてみたら、あったことはあったんですが、当時あんまり知らなかったんで、じゃあやってみようと。
無重力状態の宇宙船の中で、足踏み外して転げ落ちて死んだ人の死体があったら、こりゃ驚くだろうなと。そういう発想で書いてみたりしてたんですが、例えば時刻表トリックみたいなもので、地球の周回軌道の中に死体が浮かんでいた。軌道をたどってみたら3時間前に殺されているハズだが、実は3時間前にはアリバイがありましたとか、そういうような筋書きも考えられるわけで、全く異質な物の組み合わせというのはなんでもありなんですけどね。
恋愛小説とハード小説を組み合わせたって良いわけだし、山岳小説とハードSF小説を組み合わせたって良いではないかと。山岳雑誌から仕事が来たときの発想というか、それで『天を越える旅人』という、雑誌連載の時には違うタイトルでしたけれど、2年半連載しました。
よく最後まで我慢して、打ち切りにならなかったと思いました。どう考えても山岳雑誌に書くような小説ではなかったです。無理矢理やりましたけど。
これは、山岳雑誌の版元から本が出て、その後、早川書房から文庫になりました。
その他にもいろいろありまして『遙かなり神々の座』の時にきた話の中で、担当者と話していて日本には本格の、何というか戦争冒険小説というのはあんまりないなという話になったんです。例えばイギリスなんかでは「鷲は舞い降りた」のJ・ヒギンズや、A・マクリーンだとか、一つのジャンルになっているような小説があるんですけども、そういうのを日本でできないものだろうかと。ですが太平洋戦争で冒険小説やったら、上手に運ばないとかなり話が悲惨になりそうだし、じゃあもっと前で第一次大戦ではどうかというと、それもダメ。もっともっとさかのぼって、日露戦争辺りにもっていこかというような話になってできたのが『凍樹の森』という話です。
『凍樹の森』というのは、明治の末期の沿海州、シベリアなんかが出て来ます。
この話の冒頭で日本の山中での熊狩りのシーンが出て来るんです。けれども、私は冬の山は歩いたことはあるけれども、熊狩りなんてやったことはないし、ハンティングとか猟とかはまったく知らないので、ノンフィクションや、資料の本を読んで調べるしかなくて、それで、本屋やいろいろ、だいぶ周りました。一つの本屋へ行っただけでは探しているは本なかなか見つからないもので、何年かかけて、マタギとか、狩猟民なんかの資料本集めました。そのうちに面白い本が見つかりまして、マタギっていうのは北の方の伝統的な猟師なんですけれども、その風俗をみてるとマタギっていうのは何でも猟にするんですが、やはり熊が主です。その熊の中にも伝説の熊というのがいろいろあって、日本の本州の場合は月の輪熊ですが、月の輪のない真っ黒けの熊がいるらしい。異形の熊というか、それが全身黒いからミナグロ。他に、毛が黒くなくて赤毛というか、茶色がかったような熊を赤熊というのもいたらしいですし、かと思うと、何か怪我した跡なんでしょう足のほうにこぶがあって、雪の上に足跡が残っているんだけれども、足跡の形がちがうからすぐにわかる熊とか、まったくミナグロと逆で、全身の毛が真っ白のミナシロという熊も昔はいたらしいです。
そういう話を読んでいると、このミナシロというのは使えるんじゃないかというので、冒頭の部分に、ミナシロという熊を狩るシーンを出したんです。このミナシロという熊の名前を見つけるためだけに何年も本を読んでいたりするわけです。
人間のできる体験というのは知れていますが、ノンフィクション読めば1人の人間ができる以上の体験がいろいろできるわけです。でも、アタリを見つけるためにはスカも一杯ひかなければいけないわけで、最近は、小説読むよりも、ノンフィクション読む時間の方が長くて、それでいろんなもの読んでいる訳なんです。
その中の一つがさっきのミナシロなんですが、それ以外にもいろんなノンフィクションとか読んでいるわけなんです。そういうものが又、次の小説につながっていったりするわけなんです。
話がどうもまとまらんで、あっち飛び、こっち飛びばっかりしてました。凝縮しすぎて何か訳のわからん話になりましたが、足りない分は、質問を受け付けるということなので質問していただきまして、いろいろ付け加えたいと思います。
- 司会
- 先生、大変興味深い話、ありがとうございました。
お時間参りましたので、それでは皆様、せっかくの機会ですので、先生にご質問等、何かお思いになることがありましたら、ご自由にお願いいたします。
小説家というものは、例えば、この人の小説はだいたいこんな形の小説であるというようなものがあるのですか。
まあ、パターンというか。
小説を売ることを考えた場合には、ちゃんとパターンを決めてその通りのものにした方が実は良いと言われるんですけどね。
編集者も言いますが、その方が読者としても楽だと。その人の小説を読めば、大体このような形で話が展開して行くから安心して読めるからというんです。
私は、今までのパターンと違うことをやりたがるというか、1人でいろんな事をやりたがります。その方が楽しいですから。
パターンもいろいろありまして、完全にパターンが決まってしまいますと、1冊の本で前から3分の1ぐらいしたら、女の人が出てきて、後ろの3分の1ぐらいになったらその人と別れるといった、そこまでパターンが決まっている人もいるらしいですが、それも読む方は楽と言えば楽ですね。
たまに洒落でそういうのをやるのも良いかもしれません。連作の短編で最初の10枚で必ず女の人が出てきて次の10枚で別れるというような絶対そういうパターンで読者がつくような連作を書いていったら、それはそれで面白いでしょうけど、それはしんどいと思います。こういうところで答えになってますでしょうか。
私は、小松の事ならかなり知っていると思っていたんですが、谷先生って全然知らなかったんです。先生は講演なさったり新聞に連載されたりしておられないのではないかと思うんですが。
講演というのは、本業と違うわけですからあまりやりすぎると、だんだん本業のペースが崩れてしまうというのがあります。講演というのは、いつも同じ話をするというわけにはいかないですから、いろいろと考えたりしていますと、億劫になってきます。会場に来ている人の顔を見て「あれ、この人前にも来ていたな」と思うと「同じ話するわけにはいかないな」等々、考えると何が本業かわからなくなるので、そうなると本末転倒というか、やはり本業は小説を書くことなので、できることならそっちに専念したいんです。その方が楽ですから。
谷先生の本は図書館に入っとるんか。
司会
入ってます
それを言うと、図書館で借りていただくより、本屋で買っていただく方がありがたいんですけど。
(爆笑)
私、最初はじめて、小松に引っ越ししてきてから、講演頼まれたときは逃げ出そうか思いまして、1時間や1時間半もちゃんと話せるのかと思いましたが、やってみると結構なんとかなるものです。しかしあまりやりすぎると、結構つらいです。
石川県は親の土地なので子供の頃、来たことはありました。
当時は大阪に住んでいました。僕としては、大阪が故郷という感じです。
大阪にいたのは22歳までで、その後、東京に行ったり千葉に行ったり、ネパールに行ったりマニラに行ったりで、大阪にいた時期よりその他の地にいた方が長いですが、小松に来たときは「えらいところに来たな」と思ってしまいました。
来たとたんに公民館の役員が回ってきまして、いろいろ世話役をやりながら「俺はいったい何をやっているんだ」と思いました。
小松の前は東京に住んでましたんで、東京は地域の役というのは持たずに済むんです。まあ、やりだすと、世話役というのも面白いわけです。
去年までは御輿の担当してましたが、だからといって御輿の担当をしている小説家という主人公にした話を書くつもりは全然ないです。
何かの役には立つかも知れません。何かの弾みで22世紀の月の都市で、御輿をやって、その町内会の会長が悩むようなSFというのは、ひょっとしたら10年ぐらいたつと書けるかもしれません。
ずっと石川県の人になるつもりでしょうか。
これ以上引っ越すつもりはないです。
若杉町に自分の家を作りましたので。
岳人という雑誌にも書いておられたわけやね。
『天を越える旅人』というのは本になったときのタイトルですが、連載中は『失われた過去への旅』といいます。
よくあんな傍若無人な……乱暴狼藉な雑誌のカラーひっくりかえすような事をやったものだと今になって思っています。
先生は体験をそのまま書くよりも、フィクションに変えたいとおっしゃいましたけど、慣れない者は体験を前に出します。先生は、小説を書かれるときに体験の心を何処におかれるんですか。
私もやったことはないんですが……結局は自分を外から見るということでしょう。小説の書き方をどこかで習ったというわけではないんですが、やりたいと思ってやっているうちに、やり方というのは覚えていくものです。
天による才能でしょうか。
どうでしょうか。今も昔も、ほんの7、8年前に書いた、それこそ最初の本なんか読んでいたら文章がへたくそでとても読めないんです。自分の文章ながらなんでこんなにへたくそなんだと、よく原稿料をもらったと思うくらいです。
51冊で400字詰め原稿用紙で2万枚ぐらい……それぐらい書けばだいたいやり方は覚える物でして、プロになった当座はそれが仕事だった。若いときやり方がわからなくてそれぐらいの入門書を読みまくった覚えもあります。 やり方は沢山読んで沢山書くしかないと思います。
短編の上手な人の作品を沢山読むと、上手になると読んだ記憶もあります。
あとエッセイと小説は本質的に同じであるというのも聞いた事があります。
登場人物が出てきて、伏線を張って、体系を説明して、で話を二転三転させて、最後にオチを綺麗に決めると、同業者が言っていたのを聞いたことがあります。
だから自分を書けばエッセイだし、自分を第三者で書けば小説だと。
正直に自分の事を言うのが恥ずかしいから嘘ばかり着いていたんです。
小説というのはないことをあったことのように書くからですか。
あったことをあったことのように書いても良いんですけど。
何年か前に北国新聞の日曜版に、書いておられたのは本にならないんでしょうか。
その予定はないですねぇ。
あれは1回につき、原稿用紙二枚半。それを1年間。途中選挙なんかで中断もしていますから合計47、8回、全部で100枚ちょっとしかないわけで、本にするには足りないと言うか、正直な話石川県でしか売れないような話ばかりでしたからそれではちょっとつらいかもしれないです。
全国規模で売れるような話とは思えないので。
出すとすれば北国新聞社ですけれども、んなことやるかな……。今のところ具体的な話はないです。
興味でお聞きしますけど谷甲州さんって筆名ですか。
これはもちろん。本名は別にあります。名前で既に嘘をついているわけです。
(笑い)
地元だから言ってもかまわないでしょうけど、本名は谷本秀喜です。
石川県なら覚えやすい名前じゃないかと思います。
県知事と何ら関係はないんです。名前の方は松井秀喜と同じ秀喜です。
これはわかりやすいと言えばわかりやすい名前です。
富山県で一度交通違反の切符を切られたときに、松井と同じ名前やなと富山県の警官にいわれまして、富山県の警官に言われても嬉しくないなぁと。
(爆笑)
甲州の方は。
甲州も深い意味は無いんで、ただ単に侍のようでかっこいいなぁとつけた名前です。別に信州でも良かったんですけどね。
資料に先生の書斎の写真が有るんですけど、いかにも作家の書斎らしく資料がつんでありますけどこれは先生の頭の中では整理されているんでしょうか。
資料も何も、机の上に物を放り出している内に、わけわからん状態になっただけなんです。どこにあったんか探すのが苦労します。
時々土砂崩れのように崩壊して、下の方から昔読みかけた本が出てくることもあります。
机の上の隅の方にコーヒーカップを置く場所だけ開けてあります。
書かれるときは、どけて。
いや、最近はパソコンで。
今は写真とは場所が変わってます。パソコン使いながら遊んだりもしています。
パソコン通信はニフティですか。
ニフティですが、表の会議室にはあまり顔出さないです。
やっているうちに、グループみたいなのが出来まして、同業者が愚痴をこぼしたりするのを聞いたり、励ましたり、励ましている内に知り合いの漫画家と合作をやろうかという話しになったり、水樹和佳
子さんというんですが。今10月だから、この1月号からSFマガジンで連載をします。
少女漫画家にハードSF書いてもらうというような試みを来年の1月号のSFマガジンからやる予定なんです。
作家になると、小松のような場所にいると大成しないんじゃないでしょうか。
既に東京で大成してから、引っ越して来たんです。
(爆笑)
東京にいたら、仕事が増えてかなわないので。
今でも年に1回か2回ぐらいは東京に行きますけど、たいていの用事は電話があれば間に合いますから。
評論などをされる方は東京の方がいいという話ですが、小説家の場合は日本全国どこでもいいかもしれませんが、まだ仕事の固まっていないデビュー直後1、2年の人は東京にいた方がいいということはあるかもしれません。ある程度年季を積んでしまったら、どこにいても同じです。だから日本にいない人も結構います。
パソコンで通信できるからですか。
友達の1人に、ニフティというパソコン通信で本のフォーラムを主催している人がいますが、その人はパリに住んでます。パリから毎日アクセスしていますが、石川県でやっているのとほとんど値段が変わらないんです。パリからアクセスしている方が安い場合もあります。それで時々データベースを調べて貰ったりするんですけど、石川県に住んでいる者が、パリ在住の者に、東京のデータベースをひっくり返してもらったりしているわけです。
フィリピンというのは、警察でも嘘をついたり、物を売ったり、日本人としてはびっくりするような事がありますけれど、そういうのはお書きになりますか
。
フィリピンを舞台にした小説は、1冊か2冊書いた事があります。
『マニラ・サンクション』これは連作短編の一つですが、これは今ちょっと手に入りにくいかも知れません。『低く飛ぶ鳩』は文庫本です。
発展途上国はどこでも似たようなものですけど、公務員の給料が非常に安かったり、あるいは遅配でほとんど払われていなかったりすると、下級の警官が何をするかというと賄賂で生活するしかないわけです。
フィリピンの場合は拳銃の横流しなんかですね。
山登りは沢山なさいましたか。
ええ。
ヒマラヤとか。
その前に日本で冬の山を登ってみたり、岩登りしたりしていたんですけど、盛大にやっていたのは20代半ばぐらいまでです。最近は冬山とかは行く気がないです。
ご存知かもしれませんけど、私の同業者で太田忠志という人が、つい最近小松を舞台にした小説を書いていたんです。タイトルは『天国の破片』。破片と書いてかけらと読みます。
こういうのもあるんだなと思ったのは、小松が舞台なんですけど小松というのはちらっとしか書いてないんです。別の町で元は警官だったが、現在はアルバイトやりながら生活している人物が事件に巻き込まれるという話なんです。読んでいると、なるほど小松の冬というのはハートボイルドになるんだなと納得しました。
冬の曇り空で、日陰には雪が残っている雰囲気が、小松の町ってこんなにハードボイルドだったのかと感心したんですが、そういうやり方をする人もいます。
私の場合は、行ったことのない町を書きたがるんですが、その人の場合は、実際に行った場所でないと舞台に出来ないとか、そういうこだわり方をする人もいます。
その人の書く小説で、名古屋の人なので名古屋が舞台だったりするのがほとんどです。
さっきの『マニラサンクション』というのは、マニラの他にバンコクとかソウルとかジャカルタとか、5つぐらいの都市の街へ行く話なんですけど、マニラ以外の街はほとんど知りません。行ったことがないです。行ったことがない場所を舞台にして書きたがるというか、火星や月の上の話を書くのに、わざわざそこまで行って取材するわけにもいきませんので、想像力だけで書くくせがついてしまっている訳です。
今後の執筆予定は。
先延ばしで、いつできるのかわかりませんが、昭和の初めの頃に日本からヒマラヤへ遠征に行った人がいるんです。立教大学がヒマラヤのナンダコットへ、戦前日本が出した唯一のヒマラヤ遠征隊なんですが、その辺りの資料を調べてみたらなかなか面白いので小説にするつもりで、1〜2年ぐらい前から仕事の合間にやっているんです。当時の文化水準はネパールやインドとそう変わらないわけで、現在だと遠征にはポーターがつきものですが、交通が発達していないのでベースキャンプまで何十人、何百人とポーターに荷を担がせて物資輸送するんです。が、1日の日当が、現在で言うと400円、500円で1人雇えるんですが、戦前の頃というと物価水準にかわりがないので、ポーターを雇うとなると膨大な支出になるわけです。どこから金をひきだすかということで苦労していたりします。
しかも立教大学の山岳部というのは、もともとハイキングみたいなことをやっていたところで、初めて冬山らしい冬山に登ったのが3月頃に立山に登って、それから2、3年で日本の冬山登山のトップレベルへ達してしまったんです。
何故そんなことが出来たのかと調べてみたら、当時それまではガイド登山が主流だったんです。プロの案内人というのがいて、戦前は土地の案内人を連れて登るのが普通だったんです。そういうところから技術を吸収していったみたいです。
今は冬山の登山の仕方というか登山技術もすごく型にはまってパターンが出来てしまって、その通りにやるように決まっていますが、当時は見よう見まねでできたので、それでヒマラヤまで行ってしまったんです。そこら辺が結構面白いんです。
他には、太平洋戦争の時に特務艦宗谷というのがあって、後に南極観測船になってますが、これが戦前にソ連に輸出するために造った輸送船だったんです。
それをソ連がキャンセルして、宙に浮いて、戦争中は特務艦、海軍の徴用船をやっていたわけです。その特務艦宗谷の話をやってみたいと思って調べていることがあります。
あとは、形が決まっていないんですが、昭和2、3年の揚子江流域の話をやってみたいと思っています。ちょうどその頃の中国というと、蒋介石の北伐で長沙から漢口にかけて占領していた時期で、その時代を背景にした冒険小説を書いてみたいと思ってます。当時の資料とかノンフィクションとか読んでみますと、日本は全部侵略者みたいな書き方されてますけど、当時そこに住んでいる人の話なんかを見てみるとそうでもないみたいです。
戦後の青年海外協力隊と似たようなことをやっている人もいっぱいいたわけです。そういうような人にスポット当ててみて、小説として書いてみたいなと思っています。
別の話だと、明治の頃のチベットを舞台に、やってみたいなというものあります。
その頃のチベットというのは、ほとんど空白地帯で、独立状態だったんですけれども、ロシア、イギリス、中国が手を出す中に、日本人もいたのではないか。日本人が乗り込んでいって何かやったら話が面白いんじゃないかと資料を調べてみたら、そういう日本人がちゃんといたんです。矢島保次郎という軍曹までいった人ですが日露戦争の後に、チベットに乗り込んでチベットの軍隊の指揮官になった人がいるんです。軍事教練をやっているわけです。
明治の頃の日本人というのは、かなり無茶な人が多かったようです。
その人を主人公にするつもりはないんですが、そんな状況で、明治時期のチベットというのはストーリーとしては面白いのではないかと思っています。その資料の調べ方というはいろいろあるんです。
さっきの立教大学のヒマラヤ遠征なんて、資料を取り出したら、山の関係の人というのは結構いろいろな手記を書いていまして、昭和の初めぐらいにあっても割と資料が残っています。大学の山岳部になると年報というものがありまして、必ず年に1回会報のようなものを出しています。
その時の記録などを見ると、遠征の準備のための作業をどうやっていたかという事も具体的に知ることが出来ます。
それで調べてみたら、昭和11年のヒマラヤ遠征で隊長をされていた方が、まだご健在で、90歳で、この間取材に行って来ました。90歳で週に2回ゴルフに行っておられました。
あまり手を広げすぎて、なかなか実現しませんけれど。
- 司会
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まだまだお聞きしたいことがあるかと思いますけれども、そろそろお時間の方もよろしいようなので、質疑応答の方これで終わらせていただきます。多数のご意見ご質問ありがとうございました。
谷先生、本を出版するに当たっての裏話など、大変興味深い講演ありがとうございました。谷先生のよりいっそうのご活躍をお祈り申しあげ、これにて「作家を囲む会」を閉会としたいと思います。
先生、ありがとうございました。
(拍手)
テープ起こし:中谷[茶汲み少年]育子
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