上村尽瞑のモデルのことなど
〜石光真清の手記を読む〜

田中[暗号兵]正人

 谷甲州氏(本稿では「氏」と呼ばせていただく)の執筆作の中で、デヴュウ以来書き続けられ、いわばライフワークともいえる圧倒的質・量の『航空宇宙軍史』シリーズを別にするなら、一九九〇年のスタート以来現在まで、足掛け七年以上にわたって書き続けられている『覇者の戦塵』シリーズは、氏の手掛けた作品の中でも、継続期間や冊数が最も長大なものとなっている(もっとも、これに続く長期シリーズ『軌道傭兵』が今後、本作を追い抜く可能性は極めて大である)。「技術者の目で見た戦史」を志向し、ブームを背景に多種多様な作品が市場にあふれ返っている架空戦記ものの渦中で、他と一線を画するスタンスをこれまで頑固なまでに守ってきている本作のもっとも大きな特質の一つは、やはり氏の鋭い「歴史感覚」ということになるのではないかと思う。史実の改変は架空戦記の宿命、というよりジャンルとしての架空戦記が拠って立つ前提ではあるが、安直なつじつまあわせに流れることなく、「あり得たもう一つの歴史」を構築しようとする手法は、実は架空「戦記」の王道ともいえるやり方である、ともいえる。
 だがしかし、「あり得たもう一つの歴史」の構築は、それが良くできていればいるほど、ある一つの矛盾がつきまとう。史実と虚構の境目の問題である。もちろん、小説としてじゅうぶん面白いのであるから、史実がどうであろうと作品世界を楽しめれば、それはそれで充分なことではある。しかし作者がそれほどよくできた虚構の構築に成功しているのに、読者が作者の「仕掛け」に気付かない、というのも何とも勿体ない話である。その矛盾に対する作者なりの配慮が、上村尽瞑という登場人物であろう。
 本稿に目を通される方はすでに『覇者の戦塵』は少なくとも何冊か読まれていると思うので、くだくだしい説明はここでは省くが、上村尽瞑は作中では、「物語を動かすのではないが物語の展開には欠かせないキーパーソン」として造形されている。彼が語るのはずばり「作中の歴史と、読者の知る歴史とのずれ」そのものである。尽瞑は読者と作中世界とをつなぐブリッジといっていい。『覇者の戦塵』世界の登場人物のうちただ一人、尽瞑だけが「こちら」の歴史を知っているのである。その意味で極めて特殊な性格づけをされたキャラクターとなっている。
 ところで、表題に挙げた「上村尽瞑のモデル」であるが、本稿の目的は実は尽瞑のモデルを詮索することではない。筆者はある事情から、文献を調べている過程で、尽瞑のモデルとなったとおぼしき人物を見つけることができたのだが、その調査レポートをここで書くつもりもない。また、その人物の実像の考証をするつもりも、ない。筆者がここで書こうとするのは、その人物の登場するある文献の紹介である。そしてその文献は、『覇者の戦塵』というよりは、むしろ『凍樹の森』の世界により近接するものとなっている(この事については最後にふれる)。当然のことながら、以下の文章も日露戦争前後の満州についてのこととなる。先年筆者は『凍樹の森』について、三八式歩兵銃を題材に小文を草したが、これはその続きともいえるものである。

 前置きが長くなったが、その「文献」というものをここで紹介したい。現在、中公文庫に四分冊で収められている『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰がために』が、それである。
 作者の石光真清は熊本の人、幼年学校を経て一八八八(明治二一)年に陸軍士官学校を卒業した。陸士同期には、温厚な君子人として知られ、皇太子時代から長く昭和天皇の武官長(東宮武官長のち侍従武官長)を勤めた奈良武次大将がいた(奈良は、中将時代ついに師団長、植民地駐屯軍司令官などのラインの親補職を経ることなく大将となった希有の人物であった。それだけ昭和天皇の信頼の厚い武人であったという)。また、石光が幼年学校以来兄事した、日露戦争で「軍神」として有名になった橘周太(戦死時少佐、戦死後中佐進級)は陸士の二期先輩である。石光は日清戦争には近衛歩兵第二聯隊付の中尉として従軍したが、戦後大尉に進級の後、故あって予備役へ編入となり、満州に渡って諜報活動に従事することになった。
 一八九九(明治三二)年八月の終わり、ウラジオストックに上陸した石光は、ハバロフスクに阿部道瞑という、本願寺派の住職がいることを知る。タネを先に明かしてしまうと、この阿部道瞑が、上村尽瞑のモデルの一人と考えられるのである。この二人の間には類似点がいくつが指摘できるからである。阿部道瞑は元来大分県宇佐郡豊川拝田の願成寺の住職であったという。
 一つだけ例を挙げる。上村尽瞑は『覇者の戦塵』第一巻『北満州油田占領』において、中国東北の大慶油田の存在を予言する(正確にいうと、油田探査に着手している日本の技術者たちに対して、大慶油田の「本当の」発見が戦後であることを告げるのであるが…)。
 これに対して阿部道瞑は、東北における世界最大級の炭田、撫順鉱山の発見者の一人であるという。撫順炭坑といえば、日露戦争後南満州鉄道株式会社(満鉄)の管理下に置かれ、日本のエネルギー供給の一大拠点となった大鉱山であった。その石炭は、日本の「満蒙特殊権益」の一つに数えられていたほどである。阿部道瞑が撫順鉱山を発見したのは日露戦争開戦の前、まだロシアが東清鉄道の延長線を所有していた頃の話である。奉天以南の東清鉄道の延長線が、戦後条約によってロシアから日本に引き渡され、南満州鉄道となるのであるが、当時東清鉄道でロシアが運用していた機関車は薪を使用していたため、阿部の申し入れた石炭採掘の話はロシア側に容れられなかったという。このあと、阿部は軍の諜報任務に従事することになった。
 一九〇四(明治三七)年二月の日露開戦と同時に、石光は変名で写真館主として潜入していたロシア極東地区から退去を命じられ、日本へ帰国することとなる。帰国の後、彼は再召集され現職に復帰、予備役陸軍大尉の身分で第二軍司令部副官の職につくことになる。軍司令官は奥保鞏大将(のち元帥)、軍医部長に軍医監(少将相当官)森林太郎(鴎外)がいた。そして第二軍の通訳の中に阿部がいたのである。
 石光が第二軍の司令部副官として在任した期間は短く、遼陽会戦後の〇四年一〇月には、少佐に進級ののち遼東守備軍(軍と名がついているが、指揮下に師団を持つ野戦軍ではなく、占領地警備と兵站線確保の任務にあたる後方部隊)へ移り、さらに翌月には第二軍にもどって今度は管理部長に転じるのであるが、司令部副官時代、管理部長時代からいくつか、印象的なエピソードを拾ってみよう。
 第二軍は遼東半島の南部、塩大澳から上陸の後、いったん南へ向かって南山攻略作戦を開始した。南山のさらに南、半島の南端にある旅順要塞と、北方のロシア軍主力との連絡を遮断するためであった。苦戦であった。火力に劣る日本軍(重火器の不足のほかに、当時要塞兵器に使うしかなかった鈍重な機関銃を、無理矢理歩兵に随伴させようとした兵器の運用上のミスもあった)は砲火でロシア軍陣地を制圧することはできず、肉弾突撃によってようやく要地の占領に成功した。
 休む間もなく第二軍は北上を開始した。旅順要塞を孤立させ、後顧の憂いを断った日本軍は、朝鮮半島から鴨緑江を越えて満州へ侵入した別の一軍(第一軍)と遼陽で合流し、ここでロシア軍と決戦を行う計画であった。だがその前に、兵站線確保のため、遼東半島における鉄道の要衝である蓋平攻略が大本営から命令された。これも苦戦であった。日本軍はようやくのことで蓋平占領の目的は達したが、撤退するロシア軍の追撃はできなかった。海軍による大連湾の機雷掃海が完了していないため、港からの物資揚陸が思うに任せず、補給に不安があったからである。大本営、そして奥軍司令官は補給の難を認めつつ、それでも追撃することを望んだ。しかし、軍兵站官(日本陸軍では補給部隊は師団ごとにあった――欧米の場合は師団ではなく軍団ごとにあった――が、補給計画の統括は軍ごとの兵站司令部が行っていた。軍兵站監は軍兵站司令部の長である。補給計画の総元締は東京にある兵站総監部であり、兵站総監は参謀次長の兼職であった)の大谷喜久蔵少将(のち大将、男爵・シベリア出兵時のウラジオ派遣軍の初代司令官)は反対した。以下、石光の著書から引用すると

 双方しばらくの間は激しく論争したが、奥軍司令官がまず沈黙した。司令官が沈黙したので大谷兵站監も沈黙した。そして両者沈黙のまま別れたのである。
 その夜半、わたした叩き起されて奥司令官の部屋に入った。司令官はただ一人、暗いランプをともした机に寄って、ウイスキーのびんを傾けていた。相対して腰かけろとのことだったので、私は遠慮なく、小コップを手にした。戸外は相変らず激しい雨音であった。
「石光君、わしが師団長だったら大谷などに断じて負けんぞ」
 そう言ってコップをあおった。
「軍司令官というものは、つらい。つらいものじゃ。皆の意見を聞いて、従わなければならんでのう」
 私は「お察しいたします」と言うほかなかった。

とある。しかし奥は兵站監の意見に従ったのである。補給に不安を抱えたまま、作戦命令に従って無理な攻撃をかけるべきであったかどうか。歴史はその解答をはっきりと出している。

 第二軍軍医部長に森鴎外がいた、ということは先程書いた。鴎外の伝記でも、この日露戦争の従軍は落とすことのできない大きな事件であり、多数の研究がある。が、軍人・森林太郎としては、この出征は名誉でもあり不満でもあった。
 名誉であったというのは、野戦軍の軍医部長という命課(軍の人事)である。戦時と平時とで員数の差が比較的少なく、平時から高度に専門性の高い職についている海軍と違い、陸軍では平時と戦時とでは命課が異なる。野戦隊の団隊長の場合、多く平時命課がそのまま戦時命課となるが、戦時に欠員を補充する部隊、また戦時特設の部隊の場合は、当然ながら平時とは異なった命課がなされる。この場合の戦時命課は、動員下令に際してはじめて明らかにされるもので、平時は秘密とされている。鴎外の出征直前の平時命課は第一師団軍医部長であった。動員下令と同時にその職のまま出征することもありえるはずであったが、戦時命課として布達(命課を伝達されること)されたのは、師団軍医部長より一段上のポストである軍軍医部長であった。鴎外は第一師団軍医部長となる前は小倉の第一二師団軍医部長であった(この小倉転任が「左遷」であるとされ、鴎外は一時辞職を考えた。現在の国文研究でもこの鴎外の考えを肯定しているものが多いが、当時の高級軍医の序列からみて、公平にいえば小倉転任は左遷でもなんでもない。むしろ鴎外はそれまで同期の中で抜きんでた昇任を続けて来ていたのである)。当時、軍医監クラスの在職者は数が限られており、どうしても動かせない東京の陸軍省勤務のものを除けば、軍軍医部長にあてられるのは師団軍医部長在職者またはその経験者で予備にあるものしかなかった。鴎外とともに第一軍の軍医部長となったのは、第四師団(大阪)から命課された谷口謙であった。のちに編成された第三軍の軍医部長となったのは休職中だった落合泰蔵、第四軍軍医部長は藤田嗣章であった。藤田は画家として有名な藤田嗣治の実父である。藤田の長男(嗣治の実兄)嗣雄も陸軍に入り、勅任官待遇(将官相当)の法務官となった(嗣雄の在職中は陸軍法務官は文官だった。法務官が武官の法務将校となったのは一九四二(昭和一七)年のことである)。嗣雄の妻は満州軍総参謀長・児玉源太郎大将の娘だった。
 ただ、遼東守備軍の軍医部長だけは例外であった。遼東守備軍軍医部長として命課されたのは、鴎外の終生の親友であった加古鶴所であった(彼は仮名で鴎外の『舞姫』にも登場する人物である。専門は耳鼻科で、済生会の創設者でもあった)。加古はすでにこの時、一等軍医正(大佐相当官)の階級で予備役にあった。そこを召集されたのである。加古はまた、和歌を通じて山県元帥と旧知の関係であり、山県と鴎外を結び付けた人物でもあった。
 不満であったというのは、にもかかわらず抜擢のポストが軍軍医部長にとどまったということであった。鴎外が軍軍医部長を命課された三月の時点で、すでに在満州陸軍部隊を統括指揮する上級司令部編成の構想があり、これが四月には満州軍総司令部として実現するのだが、この総司令部の軍医部長ポストに誰が座るかが、当時の高級軍医たちの、人事上の関心事であったらしい。鴎外も当然、このポストを狙っていたようであるが、第二軍から総司令部への転任はかなわず、満州軍兵站総軍医部長となったのは、鴎外の先任の小池正直軍医監(総軍医部長任命直後に軍医総監に進級)であった。大本営野戦軍医長官からの横すべり人事であった。鴎外はこの人事に心中不満であったらしい。しかし客観的には鴎外の総軍医部長への抜擢は「無茶」であった。にもかかわらず鴎外が不満だったのは、自己の力量に不足はないとたのんでいたからでもあり、それまですでに人より抜きんでた栄達のスピードを誇っても、なおより以上の昇進を願っていたからであろう。鴎外もやはり陸軍軍人であり、相当官とはいえ官僚でもある将校であった。
 奉天会戦後の一九〇五(明治三八)年四月、奉天城内で戦死者慰霊の法要が行われることになった。この祭文の起草を、石光が命じられたのであるが、彼にとっては容易な仕事ではなかった。戦死したものへの感情があまりに強すぎるからであった。困った石光はどうしたか。次に引用すると

 いよいよ翌日は慰霊祭という日になっても祭文は出来なかった。懊悩失望の果てに、私はふと思いついて、恥をしのんで第二軍軍医部長、森林太郎(鴎外)博士を訪ねて苦衷を訴え、祭文の執筆を依頼した。
 鴎外博士は私の話を聞いて、笑いながら「そのように親しい間柄では無理ですよ。祭文などというものは、冷ややかな傍観者でなければ、書けるものではありません。よろしい。私が間に合わせてあげます」と言った。

 鴎外はその日のうちに約束通り書き上げたという。
 祭文に関してはこのような態度をとった鴎外ではあったが、戦争中なにごとに対してもこうであったわけではない。
 鴎外が戦後出版した歌集の一つに『うた日記』という作品がある。戦争中に書きとめておいたと思われる長歌、短歌を集めたもの(その中には戦後、別の雑誌に発表したものの再録も含まれている)であるが、この中に、戦死した身内を悼む歌もあった。
 鴎外の妹・きみ子は、解剖学者である小金井良精の妻であった(小金井良精は作家・星新一の祖父にあたる)。良精の弟・壽慧造は陸士出身(士官候補生四期)の正規現役将校であった。同期にはのち共に大将となる磯村年(敗戦直前に墜死し中将となった磯村武亮の父・磯村尚徳の祖父)、田中国重などがいた。当時、小金井は大尉で北海道旭川の歩兵第二七聯隊(第七師団)の中隊長として旅順攻囲戦に加わっていた。旅順開城の一か月前、〇四年一二月の二〇三高地の戦いで、小金井大尉は戦死した。鴎外は「小金井壽慧造を弔う」と題した長歌で、鴎外は次のように詠んだ。

 あともひて   君が立たしし
 ふる里の    越のくにびと
 はたちあまり 七たりゆきて
 廿餘り     むたり返らず
 ただひとり   ておひて返り
 わが長は   あともひゆきし
 はたちあまり むたりと共に
 かへり来ぬ  数にいりぬと
 ねなきつつ  告げけんさまを
 まのあたり  我も見るごと
 おもほゆるかも

 小金井大尉の指揮下で戦死した歩二七聯隊の兵士の遺族は、この鴎外の歌にどのような感慨を持ったであろうか。

 取り留めのないまま枚数を重ねて来たが、最後に『覇者の戦塵』からは少し外れるが、氏の既刊の『凍樹の森』と石光の手記との接点のいくつかを紹介してこの稿を閉じよう。甲州氏が、人間のどの部分に着目し描こうとするのか、それを知る手がかりがここに示されているように思うからである。
 この作品に加瀬という、元日本軍兵士であり、ロシア軍の捕虜になったあと祖国へ帰ることをのぞまず、日本への送還の途中脱走、以後名前と戸籍を捨て満州で一人生きている男が登場する(二三四―二三五頁)。この人物のモデルも、石光の手記に登場する。
 石光はその人物と長春の街で偶然出会ったのであった。

  彼は既に戦死していて、私の戦死者名簿にも名を連ねていたし、遺族に弔文を送ったことも思い出したのである。
 「石光大尉どの…」
  と力のない声をもらして形ばかりの礼をした。彼と別れた頃は私は大尉であった。そのまま会うこともなく戦死の報を受けたのである。
 「どうしたんだ。生きとったのか」
 「はい…私は、死んだことになっておりますか」
  彼は囁くように尋ねた。事情があるなと感じたので、私は彼を飯店に誘って食事をとりながら話を聞いたが、多くを語らなかった。重傷を負って気絶したまま露軍の赤十字隊に救われ、気がついたときにはベッドのうえで丁寧に介抱されていたのだそうである。捕虜になることは軍人として最大の恥辱であると教えられたが、重傷の身をベッドに横たえて自決の機会を失うと、その後は容易に死ねるものではない。戦後、仮名のまま日本側に引き渡されると同時に脱走して蒙古に入り、雑貨商となって今日に至ったのだと言った。 「少しも恥辱じゃないよ、堂々と凱旋したらいいじゃないか。僕が証明してもよい」
  と激励したが、彼は頭をふって「駄目です」と小声で言って沈黙した。彼の留守宅には位牌が祀られ、遺影が飾られていることであろう。白木の箱に入った遺骨も還って来て村葬が行われ、新しい墓標が立っているに違いない。
 「私は一度死んだ身体です。生まれ替ったつもりで暮らします。日本の戸籍も消えていますし、墓も出来ているでしょう。もう私は日本人ではありません。夫でもありませんし、父でもありません」
  私はこれ以上彼を苦しめたくなかったので雑談をして別れた。捕虜となり、その上脱走したとなると、正式に帰国することはまず絶望であろう。

 またこんな例もある。
 『凍樹の森』の主人公・武藤は日露戦争が終わり、予備役将校としての軍務を終えて召集解除となったあと、参謀本部の「田中」中佐の斡旋で、満鉄の嘱託という名目で満州へ再び渡る。彼の満州行には、明石元二郎大佐の「私的な」謀略活動の含みもあった。
 一方、召集解除になった石光は、参謀本部にいた田中義一大佐(のち大将、首相。男爵)から、関東都督府附の身分で満州行きを求められる。もっとも、行き先の都督府で石光を待っていたのは、東京ではとても想像できなかった過酷な運命であったが…

 『凍樹の森』の基調には、石光の手記に流れるものと同質のものがあると筆者は思うのである。




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