「段列がついているわれわれはまだましだが、歩兵部隊は飲料水の補給さえままならないそうだ。腹が減っては戦ができんというが、歩兵は渇きと戦いながら何日も頑張っているという。参謀が前線の尻をたたいてまわるぐらいなら、側車に飲料水でも積んでくればいいんだ」
(『覇者の戦塵一九三九 殲滅ノモンハン機動戦〈上〉九〇頁〉
「弱点といえるかどうかわからんが……ちょっと気になる情報がある。ハルハ川の西岸に撤退したソ蒙軍は、かなりの水不足に悩まされているらしい。ホルステン川との合流点以南に展開する部隊と違って、簡単には水くみもできんからな。 おまえも知っての通り、ハルハ川の西岸は台地状になっている。砲列をしくには便利な場所だが、長期の陣地戦には不向きなんだろう。給水部隊の展開が遅れて、西岸に退いた部隊はかなり難儀しているようだ。
あるいは今回の紛争は、単なる水あらそいなのかもしれんな……。そもそもの発端も、馬に水をのませるために越境した外蒙騎兵との交戦だったというから」
(同〈下〉』六三頁)
戦場で兵士が苦労するのはまず水である。そして、ノモンハン事件の戦場は外蒙(外モンゴル)の砂漠の真ん中であった。史実のノモンハン事件でも、『覇者の戦塵』作中のように日本軍が給水に苦しんだのは事実であった。第二三師団は一九三九年七月一日から本格的な地上部隊による攻撃を開始したが、その四日後の七月四日、須見信一郎大佐の指揮する歩兵第二六聯隊(本属は第七師団だが、六月二〇日より二三師団へ配属)の第一大隊、ハルハ川左岸で敵中に孤立することになったこの部隊は、次のような状態にあった(ちなみに須見大佐は、二三師団ノモンハン戦参加部隊の聯隊長級指揮官のなかでただひとり、激戦を戦いぬき生還したが、師団長との作戦中の確執もあり、生き残ったこと自体を最大の理由として、予備役に編入されてしまった。彼に対しては、作戦後、自決を強いることもできなかったからである)。
「ある軍曹は彼の砲車の中をのぞいて、彼がそこにしまっておいた獣脂の長いろうそくが溶け去って芯だけが残っているのを見つけた。日光にさらされた鉄かぶとに触れると火傷をするほどであった。第一大隊には乾パン以外の食料はなく、それを飲みくだす水もなかった。腰まで裸になり渇きに狂いそうになった兵士たちは血をすすり、将校でさえも水を求めてうめいているのが聞かれた。兵士の中にはメンソレータム軟膏を口のなかに塗った者もいた。兵士たちの渇きがどれほどひどかったかは、五、六名の兵士が冷却水欲しさに機関銃に向かって奇妙な突撃を行ったことからも察せられる。この攻撃で生き残った兵士たちはすべての飯盒に吐き気のするような臭いの液体を満たしたが、スピンドル油が半分も混ざっていてとても飲めたものではなかった。」(アルヴィン・D・クックス、岩崎俊夫訳『ノモンハン』朝日文庫版一九九四、第一分冊・三四〇頁)
冷却水うんぬんというのは、当時ソ連軍の装備していたマキシム機関銃(正確には英国産のマキシム機関銃を国産化したPM一九一〇)が、砲身を水で冷却する水冷式の重機関銃だったからである。日本軍が装備していた重機関銃は、すべて砲身を外気で冷却する空冷式であった。
史実でのソ蒙軍(ソ連・モンゴル連合軍)の給水の実情についての、信頼できる一級資料は残念ながら未見だが(邦訳もある、ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン研究所の編纂した、第二次大戦の公刊戦史には九頁にわたりノモンハン事件の叙述があるが、補給については何も述べられていない)日本軍のノモンハン事件の際の水の補給については、有名な関東軍防疫部、すなわちのちに秘匿名称満州七三一部隊として著名になった、関東軍の細菌戦部隊が出動したという事実がある。この件に関し、同部隊は事件後、第六軍司令官荻洲立兵中将から感状を受けている。『覇者の戦塵』では、戦闘の推移が史実と異なっており、また作中叙述の視点の違いもあって、給水部隊つまり防疫部に関する言及はない。ただ、史実における防疫給水部の活動については、水の補給のほか、かなり古くから細菌戦への関与の疑惑がささやかれているので、この稿ではその点についてごく簡単に、知るところを書いておこう。
細菌戦部隊としての関東軍防疫給水部については、ベストセラーになった森村誠一氏の『悪魔の飽食』以降だけに限っても、かなりの数の文献が公刊されている。もっとも、この部隊の細菌戦研究の事実は、戦後かなりはやい時期から既に噂としては知られていたのみならず、文献資料も刊行されていたので、森村氏の著書が戦後はじめて知られざる「秘史」を発掘した、というわけではない。
石井部隊の手掛けた細菌戦の事実が暴露されたのは、ソ連軍に抑留されたこの部隊の一部のメンバーが、日本の敗戦後、ハバロフスクで戦犯裁判にかけられ(一九四九年一二月)、裁判そのものは非公開だったものの、裁判記録は英文に翻訳され、閉廷から程なく刊行された。(モスクワで出版されたのは一九五〇年)つまり石井部隊の行動についてはある程度「西側」のジャーナリズムにも知らされており、裁判記録は日本にも紹介されていて、訳者・発行者未詳のまま翻訳も出版されている(秦郁彦氏の回想によると、翻訳は一九五二年頃には日本国内で見ることができたという。なお一九八〇年には不二出版、海燕書房から相次いで復刻版が出版されている)。問題は多いものの、このハバロフスク裁判の記録は、現在においても、日本の細菌戦に関する一級の基礎史料であることは間違いない。
関東軍防疫給水部、通称石井部隊といい、また七三一部隊(ななさんいち・ぶたい)ともいう。これらの呼び方についてここで簡単に解説しておこう。
防疫給水部とは、平時の建制には存在せず、戦時動員によって臨時に設けられるものである。衛生部隊ではあるが、例えば野戦病院とは違って師団の戦時編制には含まれず、軍以上の大部隊に所属する。任務は字のごとくである。ただし関東軍のそれは極めて特殊な経緯で設けられたものであった。それについては後述する。
石井部隊とは、指揮官の姓を取った通称である。正規の建制の名称(第××師団、歩騎砲工輜重第××聯隊、など)以外に軍隊を通称する呼び方はいくつかあるが、聯隊以下の軍隊の場合、指揮官の名前を関することがよくあった。この部隊の指揮官が、石井四郎軍医中将(敗戦時)だったことからついた名前である。陸軍の用語としての「部隊」についてはすぐあとでふれる。
七三一部隊の「七三一」とは、一九四〇年から使われるようになった秘匿名称である。陸軍軍隊のうち、軍以上を「集団」、師団および旅団を「兵団」、聯隊および大隊を「部隊」というが、この年より集団および兵団に対しては、漢字一文字または二文字の秘匿名をあたえて通称することにした。この一文字または二文字の名を「(兵団)文字符」という。例えば関東軍は「徳」集団、南方軍は「威」集団、第一師団は「玉」兵団、第二師団は「勇」兵団という具合である。古くからある軍隊には一文字のものが多いが、編成の遅いものには二字のものが多い。また、部隊以下に対しては「通称号」として三桁から六桁の数字が割り振られていた。部隊については、建制または戦闘序列で発令された上級の兵団(集団直属の場合は集団)の文字符、または部隊所在地と番号を組み合わせたものが秘匿名称となった。七三一というのは関東軍防疫給水部に対して与えられた数字である。この番号は建制順の連番ではなく、また通常、上級の集団、兵団の文字符と組み合わせて使用したため、戦闘序列が変更になる(上級部隊が変わる)と、通称号も変更されることがあった。特に編成の変化の激しかった航空部隊に、その例が多い。
ところで、石井部隊、すなわち関東軍防疫給水部の発足は、通常の野戦隊の動員下令にともなう編成とは大きく事情が異なるものであった。この部隊の直系の始祖となるのは、石井を長として一九三三(昭和八)年に関東軍に設けられた防疫班である。しかし、この部隊のスタッフは、その前年の八月に東京の陸軍軍医学校防疫部に新設された、防疫研究室からの横すべりであった。以後、この部隊は、関東軍においては軍司令官と参謀部第一(作戦)課の数名、東京においては軍医学校防疫部防疫研究室を中継点として、参謀本部作戦課と直結していた、とされる。そもそもが軍医学校の研究者たちが集まって発足したこの部隊は、野戦での防疫、給水任務のほかに、軍上層部の一握りだけが把握しうる極めて特殊な任務、すなわち細菌・生物兵器を使った攻撃・防御の研究を担っていたのである。
関東軍防疫班は一九三六年八月、関東軍防疫部となる。防疫給水部となり、七三一部隊の秘匿名称が与えられるのは一九四〇年の七月のことであった。つまり、ノモンハン事件は石井部隊が防疫部であったころのこととなる。
石井部隊がノモンハンの戦場に出動を命じられたのは、ジュコーフ(日本で通用している表記では「ジューコフ」が普通だが、ロシア語の発音では「ジュコーフ」と表記する方が原音に近い)の八月攻勢のあとのことで、各隊将校五、技師一、下士官一〇、技手三、軍属三〇で構成された四個隊が投入されたという。それぞれに自動車一、トラック二、大型濾水車一、手動濾水車三両が配属された。第六軍司令部の編成以後、将軍廟の六軍司令部に防疫給水指導本部が作られ、石井が本部長となって自身も前線に出て、人員・機材も増強された。任務の主要なものは、ハルハ、ホルステン川の濾化水を前線に補給することだったという。皮肉なことではあるが、軍医学者というよりは医事軍政家であった石井(軍医官として初の大将を狙っていたという)の医学上の功績で、生涯ほとんど唯一にして最大のものは、「石井式濾過器」の発明なのであった。
ノモンハン戦時にソ連軍が日本軍に対して細菌兵器を使用したのではないか、との風説は作戦中に前線で実際に存在したことらしい。第二十三師団長・小松原道太郎中将の日記の七月一六日条には、同月九日よりソ連軍が飛行機により赤痢菌を散布した、との叙述があり、同趣旨の記述は第二三師団の情報要約にも見え、同師団の大隊長の日記にも、同じころ日本軍部隊に赤痢患者が出たとの記事があるが、ノモンハンのような場所で赤痢に罹患するものがあるていど発生するのはむしろ自然であるので、これをもってソ連軍の細菌攻撃の証拠とみなすことはできない。歩七二聯隊では、衛生条件が悪かったために当然発生したもの、とみていた。クックスの前掲『ノモンハン』には、七月に戦線を取材したドイツの通信社特派員がソ連の細菌戦を報じたとの記述があり、またソ連軍が自軍への細菌戦疑惑を「虚言」「悪意に満ちた誹謗」と反論した七月一四日付タス通信のコミュニケが引用されている。だが、日本軍が公式にソ蒙側に細菌兵器の使用を抗議したとの記録は現在まで発見されていないし、八月以降ソ蒙側の細菌戦にふれた記録は皆無になってしまう。細菌攻撃の風説じたい、日本軍からの細菌攻撃をソ蒙軍に対する報復として正当化する意図を持った、石井の情報操作と見る説もあることをここでつけくわえておこう。
石井部隊のソ蒙軍への細菌攻撃が行われたのは、それ以前に二度失敗したあとの、九月初めのことだという。一九八九年に報道された関係者の証言によれば、腸チフス菌を培養したゼリー状の寒天を詰めた一八リットル入りのブリキ缶約二〇個を、部隊本部のある平房から軽爆撃機で運び、それをトラックに移して、ホルステン川上流で内容物を川に流した、という。平房から輸送してきた軽爆撃機は関東軍の航空部隊のものではなく、石井部隊の所有していたもので、同部隊ではパイロットの訓練を受けた医官も存在したという。作業に従事したもののうち、衛生下士官一名が罹患、死亡した。ただし、ソ蒙軍側には菌による被害の報告はなく、恐らく気がつかなかったものと思われる。科学的に見ても、このような方法で菌をばらまいても、細菌兵器としてはほとんど効果はない、というのは常識である。ノモンハンでの細菌戦の全体像については不明な点は多いが、石井部隊のチフス菌の件についてはハバロフスクでの裁判記録とも一致するので、戦後早くからあった憶測(クックスが前掲書の中で「「日本の左翼系作家何人かが」この話を広めた、と書いているが、その「何人か」のうちの一人はおそらく五味川純平であろう。同氏の『「神話」の崩壊』にこの件に関する言及がある)などと考えあわせ、以上の経緯はほぼ事実と考えてよいだろう。そして幾人かが指摘するように、これが本格的な生物兵器による攻撃を意図したものではなく、一種の実験でありデモンストレーションであったという推測も、おそらく事実をついているものと思われる。なお、ノモンハン戦後に「研究委員会」が設けられたが、その「第二委員会」での報告書(これは現存していないという)では、陣地に対するガス攻撃などの化学戦については考慮されていたが、細菌戦については言及がなかったという。陸軍側の冷静な判断では、ノモンハン戦に限っていうと、細菌戦の位置づけはその程度のものであった。
このほか、ハバロフスク裁判の記録では、石井部隊が製造した細菌弾(野砲用の榴霰弾)が砲兵隊で使用されたという証言もあるが、これについては裏付けがとれない。
もう一点だけ、史実と作品との接点をごく簡単に指摘しておく。石井は、日本における細菌戦部隊の生みの親であり、終始一貫してその指導者をつとめた。いわば、日本における細菌戦の第一人者であるだけでなく、彼自身が日本の細菌戦そのものといってもよい人物であった。しかし、医官は陸軍の中では傍流であった。各部(兵科以外)将校の主流といえば経理(主計)である。のみならず、石井はその医官の中でも傍流であった。医官の中の最大派閥である東京帝大出身者ではなかったからである。彼は京大の出身であった。
そうした立場の石井が、細菌戦の研究を企画し、部隊をまとめ、運営を指導するには、当然、陸軍の中枢部の支持が必要であった。彼をバックアップしたのは、参謀本部では鈴木率道、そして陸軍省では永田鉄山であった。特に石井は永田を生涯の恩人と呼び、私邸に肖像を掲げ、七三一部隊の本部には、敗戦まで永田のブロンズの胸像が飾られていたという。史実ではノモンハン事件の三年前に、陸軍省の軍務局長執務室で横死を遂げている永田だが、『覇者の戦塵』世界では健在である、というより、関東軍司令官としてノモンハンの戦闘を指導している。そもそも『戦塵』世界に石井が存在するのかどうかが不明ではあるが、書かれざるこのあたりの事情は読者として非常に興味のあるところである。
甲州さんが「あとがき」のなかで、「さらに捕虜となったまま帰国することもできずに異国の地に消えた兵のことを思うと胸が痛む」と書いているノモンハン事件の捕虜、そして戦後の処理の一挿話について、次にふれてみたい。
ノモンハン事件での日本軍の損害については、実は数値の細かい部分でいくつか説があり、いまだにはっきりしない部分がある。もっとも信頼できるとされている第六軍軍医部のまとめた数値と、二三師団軍医部のデータとも数値が食い違っている。もっとも、日本軍が惨敗以上の悲惨な敗北をこうむったという事実はいささかも揺るがない、その程度の違いではあるけれども。ただし、これら戦死者のうちには、相当数、撤退の際に遺棄された負傷者が含まれている。
モスクワで日ソ両国政府の間に停戦協定が成立したのは一九三九年九月一五日のことである。協定に基づき、国境確定の方針が定められ(これについては後述)、両軍の遺体収容、捕虜交換に関する取り決めも行われた。とはいえ、モスクワで合意されたのはあくまで外交的な決着であるので、国境線の確定や戦場掃除(遺体の収容および認識票その他の遺品の回収作業のことをこういう)、捕虜の扱いなどの実務的な交渉は現地で行う必要があった。
遺体の回収についてはここでは省略する。捕虜交換の問題では、ソ蒙側が同数交換(双方が同じ数だけ捕虜を送還する。捕虜の数が多い側は未帰還捕虜が出ることになり、彼らの解放がまた別の外交案件となる)、日満側が全数交換(捕虜の数にかかわらず、支配下にあるすべての戦時捕虜を交換して解放する)を主張し対立、九月二七日の第一次交換では日本が八七名、ソ連が八八名をそれぞれ相手に返す実質同数交換となり、そのあとは外交交渉待ちとなったが、けっきょく翌年四月二七日に日本一一六、ソ連二の交換で終了した。だが捕虜がこれですべてであるのかというと、それは違う。統計数値に諸説あるうえ、日本側の公刊戦史である『戦史叢書』はこの問題についてはほとんどふれていないので、捕虜の数に関する日本側の公式見解というものは存在しないが、多くの論者は未帰還捕虜は一〇〇〇を下ることはあるまい、とみている。五味川純平は『ノモンハン』で、帰還捕虜の談話として「三、四千」が未帰還ではないか、との説をひいているが、八〇〇〇という数を主張するもと捕虜(ただしシベリア抑留からの帰還者)もいるという(石田喜輿司『帰らざるノモンハン』芙蓉書房一九八五)。敗戦後ソ連から帰還した捕虜のうちに、ノモンハン戦のものが含まれているかは不明であるが、旧ソ連、あるいはモンゴルで生存しているというもと捕虜の風聞は、枚挙にいとまがない。ただ、日本政府はこの件について、戦後いっさい公式に調査も相手国政府に対する照会もおこなっていない。
また、ノモンハン戦には満州国軍部隊も参加しているが、同国軍にいわゆる「日系軍官」(「軍官」とは中国語で「将校」のことをいう。ちなみに下士官は中国語では「軍士」または「士官」といい、准士官のことを「士官長」という)として参加していた日本人については、当然のことながら上述の日本軍出動部隊員数には含まれておらず、したがって損害も不明である。モンゴル側に抑留された日系軍官も少なからずいるとされているが、これについては日本軍捕虜以上に資料が乏しく、たまたまつてを通じて知られた一、二の例を除くと、全体像はまったく不明といってよい。
決着とはとうていいえないにせよ、捕虜の交換は四〇年四月末で終了した。しかし、これでノモンハンの戦後処理がすべて終わったわけではない。実は、紛争のそもそもの原因である国境線の確定がまだ手付かずのまま残っていた。
国境線は三九年九月の、モスクワでの停戦合意の際、この停戦時の両軍の最前線を国境とすることが定められたが、実務的な作業は日満ソ蒙の四ヵ国からなる混合委員会で行われることになっていた。一一月一九日に、この委員会の設置規定について正式調印がなされ、組織が発足した。一一月二九日からチタで始まった交渉は、四〇年一月からハルビンへ移り、六月九日に至ってようやくモスクワで合意書の調印にこぎつけた。しかし、これは文面上の、実質を持たない合意であった。国境線の線引は、いうまでもなく地図の上でなされるものだが、交渉で使用された二〇万分の一地図(合意書では一応この地図によって境界が決められた)へ書き込まれた国境線の科学的な信頼度に、交渉の当事者も確たる自信をもち得なかったからである。地図上の一ミリの誤差が、現地では二〇〇メートルにもなる。文面上定められた境界を裏付けるため、現地測量を行う必要があった。
八月になり、現地調査の手順に関してチタでふたたび交渉が持たれ、九月から現地調査が行われることが決まった。双方の全権(現地調査の当事者は公式にはモンゴル人民共和国と満州国ということになっていた)に率いられた国境線測量チーム(第一、第二の二つの委員会から成っていた。満州国側全権は文官――職業外交官――だが、測量チームの指揮は陸軍の測地専門の技術将校がとっていた)の間での現地交渉が、実際に満洲領内のニソコン山麓で始まったのは一九四〇年九月三日のことである。モスクワでの停戦合意からほぼ一年がたっていた。そしてこの頃、英国とドイツは「英国の戦い」と呼ばれる大規模な航空戦の終盤を戦っていた。
国境の基点となったのは、ノモンハン戦時の戦線南部、ハンダガヤの北西にあるフラトゥイリン・オボであった。地図が正確なものであるなら、既に双方の政府が合意の上で基準となる二〇万分の一地図の上に引かれている線に基づき、現地で国境線を明示する指標の設置作業をすればそれでおわりである。事実ソ連(交渉上は正式にはモンゴル人民共和国)側はそう主張した。これに対して日本(おなじく正式には満州国)側の主張は、正確な再測量が必要だというものであった。国境線の決定は、現地で精密に測量の上、外交交渉の場で使われる地図の上に線が引かれるのが普通の手順であるが、今回はそれが逆になっているため、現地で再測量が必要だというわけである。
双方の主張が平行線のまま、委員会は双方独自に測量(本来はお互いの領土内に入って測地を行い、そのデータを突き合わせて国境指標を設置するポイントを決定するのが正規の手順で、その段取りも事前に定めてあったが、方針に関する合意ができていないため、てんでに測量することになってしまったのである)ののちノモンハンへ移動、第二回目の現地交渉(全権間の公式なものではなく、測量実務者同士の私的交渉)も不調のまま、バキシンガンガ、シリンドゥッグへと移ったのち、ノモンハンでの全権同士の交渉に今後を委ねることになった。この間、日本側測量チームの実務責任者であった将校が病気のため任を離れるということもあり、九月一五日に全権間の交渉が決裂、自然休会となり、委員会は作業を中断しホロンバイルへ戻りそのまま越年、一月一日から正式の無期限休会となった。
状況が変わったのは翌一九四二年四月一三日の日ソ中立条約の締結であった。これによってソ連側は日本との国境問題の解決を急ぐ必要を認め、五、六月の二ヶ月を要して国境線の測量、座標の設置、関係文書の整備などのすべての作業が終えられた。議定書が全権の間で調印されたのは四一年八月のことである。停戦合意からほぼ二年、独ソ戦が始まって二ヶ月が過ぎていた。日本が英米との戦争に突入するのはこの年の末のことである。
戦後処理問題のうち、捕虜交換はともかく、国境線の再確定については、日本は明治以来太平洋戦争の敗戦後まで、米軍が平和克復後なお占領下においた奄美、沖縄を含め、北方領土を除いて、実務的な再確定交渉と作業をおこなった経験をほとんど持たないが(奄美、沖縄については主権の回復が交渉の目的であったので、例えば「沖縄」に属する領域の再確定を議題としたのではない)、本来こうした作業は大陸の接壌国の場合、戦後処理の、地味ではあるがもっとも重要なもののひとつであった。ただ、日本の場合、日清戦争の後半を除き、日清・日露の両戦役の主要な戦場は中立国であり、したがって占領地は戦争状態の消滅とともに無条件で放棄されるべきものであった。日清戦争の結果割譲を受けた清国領土は、領域に関しては国際的に疑問の余地がない台湾と澎湖列島であった。日露戦争の結果日本領となった樺太の国境は、北緯五〇度線という人為的なものであった。朝鮮の植民地化は(実質的には)征服の結果であり、旧大韓帝国の国境線がそのまま植民地の国境線となった。日本が、国際的に、測量に基づいた科学的な再確定作業を必要とする国境線を抱え込んでいたのは、満洲事変以後太平洋戦争の敗戦までのわずか十数年のことである。それだけにこの作業は、前後に例を見ない特異なものでもあった。にもかかわらず、ノモンハン戦後の国境確定作業、特に外交交渉から測量作業の実務レベルに話が移ってからのことは、数多いノモンハン戦記でもほとんどふれられていない(現地での測量作業については、本稿で再三言及したクックスの大著にも書かれていない)が、ここではほんの概要のみ、ごく簡単に紹介してみた。
おそらく『戦塵』の世界でも、停戦後の外蒙の平野を、測量機を担いだ技術者の一団が、トラックに揺られながら道なき道を駆け回っていたに違いない。そしてそれは、測量という仕事を通じて、戦場に倒れた敵味方の無名戦士の声なき声を聞く、慰霊と鎮魂の旅でもあったはずである。(了)