『覇者の戦塵』の
3つのキイ・ワード+1

田中[暗号兵]正人

「満州」とは・・・

 現在の中国東北部(吉林、遼寧(旧奉天)、黒竜江の三省。この地域をまた「東三省」とも呼ぶ)のことを指す。現在中国では原則として「満州」の語は特定の地域を指す語としては使われない。
 かつてこの地に住む民族は自らを「女真」と称していたが、この名に換えて「満州」の語を用いるようになったのは、清第二代皇帝太宗の時、国号を後金から清に変えた時(1636(崇徳元)年である。もとは遼寧省西部と吉林省の山地帯を指した。「東三省」の総称となったのは中華民国時代からである。

「馬占山将軍」とは・・・

 Ma Zhanshan(1885〜1950)
 中国の抗日軍事指導者。国民党軍陸軍中将。字は秀芳。奉天省懐徳(現在の吉林省公主嶺)の人、1911年、清国軍昊昇部に入隊した。1913年同部は中央騎兵第2旅(旅団)に改編された。1926年までには騎兵連(中国の「連」は「中隊」を意味する)長から軍(中国の「軍」は日本の旧軍における「軍」と同じく、「師」(日本の師団に相当する)のすぐ上の建制である)長にまで昇進した。1930年黒河警備司令に転任した。1931年の「九・一八」事変(「満州事変の」の中国側呼称)の後、黒竜江省政府主席代理と黒竜江省軍事総指揮(総司令官)を兼任した。愛国的な軍・民間の熱烈な支援の下、遼寧・吉林両省が(日本軍によって)陥落させられ(黒竜江省が)孤立した苦境にも関わらず、11月にはチチハル以南の江橋一体で最初に抗日戦を始め、大変な奮闘の末数次にわたる日本軍の進攻を退け、全中国の賞賛を浴びたが、最終的には兵力不足のため海倫へと撤退した。この月17日、中華民国政府によって黒竜江省政府主席に任命された。日本の加えた厳しい圧迫の許で、1932年2月23日にチチハルを訪れ、24日に黒竜江省長に就任した。3月9日に長春で行なわれた偽「満州国」(中国ではかつての「満州国」のことを現在こう呼ぶ)の建国式典に出席し、「満州国」政府軍政部総長に任命されたので、全中国的な非難を受けた。4月1日、ひそかに黒河を脱出、ラジオによって、日本軍の許を離れ再び抗日戦に転じることを広く全中国に表明し、また国際連盟の調査団に対し、日本の「満州国」建国の内幕を暴露した。すぐさま終結した彼の軍・民間の同士たちと共に、綏化・訥河・拝泉などで日本軍および「満州国」軍に打撃を加えたが、後に弾薬の欠乏と補給難によって12月には国境を越えてソ連領内へと撤退した。1933年6月、欧州を経て上海へ帰還したが、再び東北での抗日戦を継続することを要求したものの、蒋介石の容れるところとならず、逆に軍事委員会委員に任命されてしまい、天津に閉居した。1936年の西安事変の際には、張学良・楊虎城等を指示し、蒋に抗日戦継続を迫った。盧溝橋(日本では「廬」の字が使われることが多いが、実際にはこの地名はこの字のほうが正しい)事件の後、東北挺進軍総司令に任命され、山西省にあって指揮を執り、抗日闘争方針を堅持した。

 以上、『中国百科全書』軍事編より私訳の上引用。なおこの後に戦後の履歴(約100字)がありますが、これは省略しました。

「大慶油田」とは・・・

 ハルピンの北西約150km、チチハルの南東約120kmに位置する油田。1959年に発見されたが、開発の成功は64年に初めて中国政府によって発表された。生産が開始されたのは1960年である。南北約100km、東西約15〜12kmの広がりをもち、主要油層は下部白亜系に属する約10枚の砂岩で、深度は1000m前後である。油井一抗当たりの生産量は日産数十kl前後と低く、大規模な水攻法が実施されている。埋蔵量は約60億バレルと推定され、中国では最大の油田であるが、世界的には30位程度に位置する。油質は比重33.1度API、硫黄分0.11%であるが、ワックス分が多く(20%前後)、流動点が高い(+32.5度)のが特徴であり、重油分の得率が70.1%という特異なものである。

測量艦「満州」とは・・・

 旧日本海軍の測量艦(排水量3510トン)。もとはイタリア、ジェノバの造船所で建造されたロシア軍艦。1924年より海洋観測、水路測量に用いられた。25−26年に同艦艦長を勤めた重松良一大佐は、海軍水路部の海洋観測を育てた人。赤道域に至る西太平洋の広域の観測に先鞭をつけた。グアム島南西の北緯11度13分、東経142度09.5分での<満州>による重錘測深の結果、9819mを得、満州海淵と命名。本艦では、音響測深をもいち早く取り入れ、測深を採水測温、低質調査とともに海洋調査の主体とする観測方法を確立し、測量艦、測量船による系統的な観測の基を作った。




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