問1. |
甲州親方はあっちの協力隊のネパールでの任期を終了後、ヒマラヤに行ったり、キリマンジャロに行ったりとふらふらしておりましたが、その後フィリピンにJICA専門家として赴任する前にはあっちの協力隊事務局啓発課に協力員として勤めていた時期があり、しばらく東京に住んでおりましたが…… |
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- どうせまた海外に赴任するということで、アパートを借りるのも馬鹿らしいから、山屋さんの集まる山岳会事務所に寝泊まりさせてもらい、そこからあっちの協力隊事務所に通っていた。
- あっちの協力隊の帰国隊員にありがちなパターンで、同じ任国だった隊員のOB達が住み続けているアパートに転がり込み合宿生活をしていた。一時期には六畳+四畳半のその部屋に短期入居者を含めると十一人が住みついていたことがあった。
- 当時の広尾の協力隊事務所には訓練所の一角に帰国隊員室があり、帰国した隊員の短期滞在用に提供されていた。
甲州親方はなんじゃかんじゃと結局一年近くここに住みついた。
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問2. |
マニラにJICA専門家として赴任していた時期、甲州親方はマニラ湾岸のロハスブルバード通り沿いのレガスピタワー(ちゃう名前やったと思いますが……)の十七階、マニラ湾を見おろす(といっても眼の前はマニラ文化センターやったかな?)眺めのいい部屋に住んでおりましたが…… |
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- マンションの非常階段が荷物などで塞がれ用をなしてないので、ベランダに常に非常用脱出用のザイル(五〇メートル×二本)を用意していた。奥さんはもちろんのことメイドさん達も甲州親方から懸垂降下の特訓を受けた。
- 仲良くなったフィリピン人の同僚から護身用にと二十二口径の拳銃(サタディナイトスペシャルやったかな?)と、MR16ライフル(これは軍から横流しされたやつだったと思う)を無理矢理押しつけられて、仕方なくマンションの押し入れに保管していた。
- ここでの任期が終わればこっちの業界から足を洗って作家業に専念するつもりだったので、日本からパソコンのミッドウェー海戦のコンピューターゲームを持ち込み、毎晩のごとくシュミレーションをおこない、『覇者の戦塵』のネタ作りに熱中していた。
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問3. |
肉体派作家? の甲州親方が、マニラで職場とマンションを往復するだけというフィリピン生活を過ごすはずもなく…… |
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- フィリピンに来てスキューバダイビングを始めたが、オープンウォーターダイバーの認定証を奥さんと共に取得したての頃、バタンガスのアニラオへ潜りに行き、ソンブレロ島のまわりでボートダイブをやったとき、透明度が悪かったのにバディの奥さんを放ったらかして潜ったため、海からあがってきた甲州親方は奥さんにおもいっきりひっぱたかれて大喧嘩になったことがある。
- ミンダナオ島のダバオ郊外にあるフィリピン最高峰アポ山に登ったとき、下山途中にアポ山麓に住むバゴボ族の人達が仕掛けたイノシシ狩り用の罠(中途ですが、しかしこれはアポ山麓に逃げ込んでいるゲリラ達のワナだったと思われる)に引っかかり、飛んできた毒矢が幸いにもかついでいたザックに突き刺さり、九死に一生を得たことがある。
- 冒険小説作家達の憧れの的? であるDC−10に乗りたいがために日本から知人が来たとき、DC−10が週二便(火・木)定期運行しているロンブロン島へ無理矢理案内し、マニラに戻る便が天候不順で飛ばなくなり、一週間ほとんど何もすることなくロンブロン島に滞在する羽目になった。やっと飛んだDC−10内には乗客が連れ込んだヤギやらニワトリが騒ぎ回り、日本への帰国便に間に合わなくなり不機嫌な知人をよそに甲州親方は一人喜んでいた。いまだにこの知人とは気まずい関係が続いているとのことである。
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問4. |
日本にフィリピンから帰国した甲州親方は東京足立区綾瀬に居を構え、神保町の一隅に永瀬唯氏、松本富雄氏との三人で事務所を共同で借り(第十ビルやったかなぁ。何とかビルとは名ばかりの木造モルタル二階建てちゅうやつやったような気がする)、作家業に専念することになりましたが、その事務所には…… |
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- 仮眠用にボンボンベッド(ちゅうんでしたっけ? あの折り畳みのペラペラのやつです)が階段を上った踊り場のところに置いてあった。
- 南米帰りの友人にもらったハンモック(アマゾンのインディオの人達が使っているやつらしい)を部屋に吊るしていた。といっても柱が弱いので実際には睡眠用には使えなかった。
- 机の引き出しの中にスリーピングバック(メーカーは忘れた)を用意していた。事務所の入口のところで寝入ったことがあり、一度訪れた編集者に踏みつけられたことがある。
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問5. |
その後綾瀬の住居の近くに事務所兼仕事場としてマンションの一室を借りたわけですが…… |
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- この頃甲州親方は腰を痛めていたので、身体を鍛え直さにゃならんということで家から事務所まで歩いて通った。調子のいい時には歩荷訓練と称して五〇キロのキスリングをかついで通った。
しかし早朝事務所から家に帰る途中、警官に呼び止められ不審尋問を受けたことがあり、その後歩荷訓練はやめた。
- この頃甲州親方は腰を痛めていたので、健康面と経済性から奥さんの買い物カゴのついている婦人用自転車を使って事務所に通った。
ある夜半、家から事務所に向かう途中警官に無灯火を咎められ、不審尋問を受けたことがある。
- この頃甲州親方は腰を痛めていたので、まぁここは素直に自家用車を使って事務所に通った。
しかし小説家とは思えないその風体と、仕事場の部屋には表札もつけずにいたので、同じマンションの住人が通報したらしく、警察官が職務質問に事務所を訪ねてきたことがある。
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問6. |
現在は石川県小松市に転居されて家を構え、これまた自宅の近くに仕事場としてマンションの一室を借りておられる甲州親方ですが…… |
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- 仕事場で執筆中は惑星CB−8もかくやと思われる(ちょっと大げさやな)。粉雪が舞う酷寒の最中でも窓を開け放ち、暖房器具は使わず、照明はパソコンのモニターの青白い明かりと手元を照らす電気スタンドだけで、その姿には鬼気迫るものがある。甲州親方はこう語った。「作品にはリアリティちゅうか臨場感が大事やさかいな。それに経費の節約にもなるし……」
甲州親方の作品に『冬』が強く印象つけられるのはこういうわけである。
- 今ではふたりの娘さんを持つ父親ですからやっぱり家庭も大事にせにゃならんと、原稿の締め切りに追われる最中であっても事務所から家に帰って夕食は一家みんな揃って食べるという、いいおとうさんである。
甲州親方の冒険小説の主人公(例えばマニラサンクションの武田さん) にほのぼのとした暖かみを感じるのはこういうわけである。心暖まる一刻を過ごした甲州親方は後髪を引かれつつそのまま、あるいは翌日早朝にまた冷々とした事務所へお仕事しに引き返すのであった。
締め切りを迫ってくる編集者に恨みのひとつやふたつ言いたくなろうと いうのも頷ずける光景である
- この正月に注文していたヴァイキング社のプロ仕様のドライスーツとシャーウッドの耐寒仕様のレギュレーターが届いたので「これで真冬の能登半島で潜るんじゃい」とはしゃいでいた(時間が取れんとボヤいているのに潜れる暇があるとは思えんが……)。北海なりオホーツク海で潜ろうというんじゃないから作業ダイバー用の物を四二万もかけて購入するまでもないと思ったのだが、流石に甲州親方には言えなかった……。
今後(もし潜っていたら)この体験を元にして、例えば『軌道傭兵シリーズ』や『航空宇宙軍シリーズ』の船外作業風景や無重力感にますます臨場感が漂うようになるはずである。乞うご期待である。
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