天ちゃんの・冒険譚
特別番外編

写真家に憬れて……

天羽[司法行政卿]孔明

 初めて自分のカメラを手にしたのは、小学校四年生の時でした。
 たしか、クリスマスプレゼントにと、父親が買ってきてくれたものです。
 おもちゃ屋で売っていた物とはいえ、24ミリで、十二枚撮りの白黒フィルムが入る、ちゃんとしたカメラだったのです。
 それまでは、父親の「マミヤ・6X6」を時々触らせてもらう程度だったので、自分のカメラがあるというのは、凄く嬉しかったです。
 このカメラは、シャッタースピードは一定だし、シボリだって一定で、おまけに晴天じゃないと、なかなか綺麗には写らないのですが、日曜日などは、必ず持ち歩いていました。
 使い始めた頃は、ピンボケと、手ブレばかりの写真しか撮れなかったのですが、一年、二年と使う内に、けっこうさまになっていきました。
 結局そのカメラは、小学校を卒業するまで使っていました。
 二台目のカメラは、中学校の入学祝いに買ってもらった、ポケットカメラでした。
 カートリッヂ式のフィルムを使うタイプの奴でして、一台目のカメラと、そう大差はなかったのですが、それでも、カラーフィルムが使えて、二十四枚撮りというのが魅力でした。
 でも、残念なことにこのカメラは、わずか一年でシャッター部分が壊れてしまったのです。

 で、三台目のカメラは、オリンパスの小型カメラでした。
 このカメラは、それまでの物と違い、シボリは自分でセットしなければいけないし、ピントも、自分で合せなければならない奴だったのです。まぁ、ピントを合せるったって、人形のマークや、山のマークに合せるっていう簡単なやつなんですけどね……。
 ところでこのカメラは、初めて自分で買ったカメラだったので、愛着もひとしおでした。ただし、けっこう値段が高かったので、到底中学一年の夏休みのアルバイト料だけでは買えそうになかったんです。そりゃあ、アルバイト料すべてをつぎこめば、なんなく買えたんでしょうが、ぼくの場合、カメラ以外にも欲しい物がいっぱいあるんですよ。うんうん……。
 そこで、父親に頼み込んで、半額を出してもらうことにしたわけです。
 なかなかいいカメラでしたよ、こいつは……。
 中学三年の冬。このカメラで撮った写真が、サンケイ新聞主催の写真コンテストで、佳作入選した事が有りました。嬉しかったですねぇ。おもわずぼくは、プロの写真家になる決心をしたものです。
 あっ、また天ちゃんの「OOになりたい」が始ったとお思いでしょう。そうなんです。どうもぼくは、いろんな物にあこがれてしまうというこまった性格なんです。はい。

 プロを目指す以上は、いつまでも小型カメラで満足していてはいけないと、高校入学と同時に、ついに念願の一眼レフカメラを購入しました。とはいえ、乏しいアルバイト料で買うわけですから、新品を買うことが出来ません。そこで、質流れ品のカメラを買うことにしたのです。
 「キャノン・FTb」これが、ぼくの買ったカメラの名前です。これに、50ミリの標準レンズも付けて買いました。こいつは、いまだにぼくの愛機です。
 その年の秋。今度は、自分で現像するために、引伸し機を一台購入しました。もちろんこれも、中古です。

 この頃からでしょうか、だんだんぼくの撮る写真が妙な物になって来たのは……。
 正直に申上げますと、こんな風に、「プロになりたかったんだよーっ」なんて言いながらカメラの事を書いてはいるものの、ぼく、人を写すのが、すっごく苦手なんです。というよりも、はっきりと、下手くそであると言った方がいいぐらいです。
 これは、プロの写真家を目指しているぼくにとっては、致命傷だったのです。
 いまだに、写真を撮る趣味があることを知っている友人や知人、それに親戚などから、よく結婚式の写真を撮ってくれって言われるんですが、もう、ぼろぼろの写真しかとれないんです。悲しぃー。
 自分の撮ったポートレートを見ていますと、よくこんなものでプロを目指す気になったもんだと、我ながら呆れてしまいます。そんなぼくなので、自分の息子も満足に撮っていません。家族の写真は、もっぱら相方にまかせてあるのです。
 でもね、風景写真と、抽象写真には自信があります。過去に賞を取ったのは、すべてこのどちらかなんです。で、人物撮影の苦手なぼくは、必然的に、そういう写真ばかりを撮るようになってきたというわけです。
 ある日、自慢の抽象写真を相方に見せた所、「で? この写真はどっちが上やの?」って言われてしまいました。とほほほほ……。

 さて、人物撮影の下手なぼくは、その後も、得意分野の写真ばかりを撮り続けました。 自分で現像をするわけですから、当然白黒写真がほとんどです。だって、今ならカラー現像用の引伸し機も安くなったし、現像そのものもけっこう簡単になっているようですが、当時はカラーの現像って、すっごく難しかったんだもん。
 フィルムって、皆さんどんなものを買いますか? 当時のぼくは、コダックの100フィート巻っていうのを買って、自分でパトローネに巻いていました。一度写真を撮りに行くと、三十六枚撮りフィルムを十本ぐらいは使ってしまうので、この100フィート巻が、けっこう安上がりだったんです。

 高校二年の秋、ぼくのする事にかなり理解のあった父親が亡くなって、ただでさえ勉強の嫌いなぼくは、高校を卒業したら、就職をする決心をかためたのです。
 だからというわけでもないのですが、高校三年の夏休みは、おもいっきり遊んでやるぞっと決心をして、八月の一ケ月間、ぼくは、広島県尾道市で漁師をしている友人の家へ、アルバイトをするために居候になったのです。
 もっとも、漁師さんの手伝いなんて、ぼくなんかにまともに出来るわけもなく、もっぱらその友人と遊んでいたというのが現状でしょうか。考えてみれば、端迷惑をかけていたもんです。
 その一ケ月間。取り立ててこれといったアクシデントが有ったわけではないのですが、ぼくに取っては、忘れられない一ケ月になりました。
 というのも、大林監督の映画でもよくわかるように、写真を撮るためのいい風景が沢山あって、仕事の空いた時間になると、カメラをもってあちこちと歩き回りました。
 朝一番の千光寺から見る瀬戸内海の美しさは、どうしても忘れる事の出来ない風景となりましたよ。
 考えてみれば、高校の三年間。毎年夏休みは一ケ月ほどどこかに出かけていたんですよね、ぼくは……。まず、一年生の時に滋賀県の和竿(竹製の釣竿)作りの職人さんの所にアルバイトをしに行ったのを皮切りに(いずれこの話しも書く事にしましょう)、高校二年の時は北海道の牧場へアルバイトをしに行
ったし(この話しは、去年の特別編で書きましたよね)、高校三年は、今書いているように漁師さんの所にアルバイトをしに行っていたわけですから……。
 以前もすこし書きましたが、ぼくは、高校の三年間におもいっきり遊ぶつもりだったので、当初の希望がかなえられて、たいへん満足しております。うんうん。

 ちょっと話しがそれてしまいましたね。修正しましょう。
 高校を卒業して就職してからも、ぼくは写真家への夢をすてきれませんでした。
 就職すると、自分で自由に出来るお金がいくらか手元に入るので、ますますぼくは、カメラにお金を注ぎ込む様になりました。
 就職してすぐに買ったカメラは「キャノン・A−1」というAE一眼レフカメラでした。そしてその半年後に、その「A−1」用のモータードライブというものを買いました。これは、一秒間に何枚もの写真をとるための装置です。
 「キャノンクラブ」という、カメラメーカーが主催する写真クラブにも入会しました。 思えば、この頃が一番カメラに熱を入れていた頃でした。
 そして二十の時に、長年の夢だった「ブロニカ645」という、大型の一眼レフカメラを買ったのです。こいつは、ぼくの宝物です。

 結局、写真家になるという夢は、この辺りを頂点にして、じょじょに小説家になるという夢に取って代られるようになっていきました。
 そして今、小説家になりたいといいながらこんな拙い文章を書いているわけですから、まぁ、世の中とはわからんもんです。ねっ。



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