ネパール探訪レポート

安達[司令部付運転手]裕章

 卒業判定会議の結果も出ておらず、卒業研究も終わっていないというのに、万年無責任男の安達<司令部付き運転手>裕章は、容量60リットルのアタックザック(わが家では背嚢で通っている)に着替えと洗面用具とその他もろもろ詰め込んで、さっさと成田空港に向かいました。時に3月3日。折しも名古屋では木村<でいぶ>支部長のお誕生日例会が開かれておりました。

 格安航空券の恐ろしさは、その素晴らしいまでの一本気な性格(乗降機地変更不可、払い戻し不可、航空会社変更不可、途中降機不可、etc)と、ミステリー電車もかくやというほどの先行き不透明感につきます。
 今回も搭乗手続き開始30分前に、航空券が渡されると言う綱渡り出発となりました。とはいえ、飛行機の方は正規運賃だろうが格安チケットだろうが変わりありません。エア・インディアのB747はバンコック経由で、インドはカルカッタに向かいます。いやはやB747の巡航速度は時速1000キロ近くあるというのに、しっかり8時間近くもかかり、肩から背中から腰までこわばってしまった。
 とにかく、インドのイミグレ(注:イミグレーション・オフィスつまり移民管理局のこと)を無事通過して、カルカッタ市内へ入ります。今年に入って、ネパールでは東欧の民主化の動きに呼応してでしょうか、現在の王政に対する不満が強まり、一部の報道では市内には多数の警官隊が配置され、緊張も高まっていると伝えられていました。また、出発の朝、成田空港のロビーで見たニュースでも民主化要求デモに引き続いて、ゼネストが行われたと言っていました。
 まさか突然の政権交代も無いと思いましたが、東欧諸国の例もあり、またそんな時に、最も危険なのは外国人でしょう。そこで、翌日再びカルカッタ空港へ戻り、ネパールから来る飛行機に乗っている日本人を待ち受けて情報を収集します。
 その結果、日本で報道されているほどのことは無く、市街も至って平穏であると分かりました。
 ある日本人の旅行者は、ついさっきまで自分がいた国でそのような民主化要求運動が盛り上がっていることさえ知りませんでした。
 そこで、そのまま航空会社(インディアン航空)のカウンタでリコンファームをしてホテルに戻りました。

 翌日、いよいよカトマンドゥに向けて出発しました。
 1時間少々の空の旅でカトマンドゥ空港に到着したあと、イミグレでビザを申請します
 ネパール王国は、有効期限15日のツーリスト・ビザなら、その場で発行してもらえるのです。簡単な書式に必要事項を記入して、US$10払えば、パスポートにシール式のビザをペタンと貼ってくれます。本当は写真も必要らしいのですが、要りませんでした。(にっこり笑って、No needと言った。)
 カトマンドゥの空港ビルは日本の清水建設が手掛けたそうで、とてもきれいでしたが、この国の風景に合わそうとしたらしく外装・内装に赤いレンガ(レンガタイルです)を多用していて、遺跡のような変な感じでした。
 ホテルはカトマンドゥ郊外にとりました。
 その夜、3時間15分の時差で、早くも訪れた眠気と戦いつつ、オートリクシャー(オート三輪のこと。ところでリクシャーとかリキシャってえのは確かニホン語の人力車が語源じゃなかったっけ……関係無いけど)でキルティプールの丘に向かいます。
 ここは、<星空のフロンティア>でマヤ・シマザキさんが星を眺めに登ったところです。ちなみにマヤさんが生まれるのは、39年後のことになります。
 そこは何にもないと言って良い、ただの古びた住宅の立ち並ぶ街で、わたしをここ迄載せてきた、オートリクシャーのおっちゃんも、「変な日本人」という目で見ます。
 でも、甲州作品愛好者の観光スポットは、世間一般のものとは異なっているのです。
 ちょっと開けたところで車(オートリクシャーだけど)を止めた私は、あきれて煙草をふかしはじめたおっちゃんをしり目に、天を仰いで寝っころがって、星を見ます。
 確かに、乾期の終わりの澄んだ空は、日中の喧騒とはうってかわり、風の吹く音しか聞こえない静けさともあいまって、宇宙を身近に感じさせてくれました。
 翌日は、いよいよカトマンドゥの裏町散歩です。
 カトマンドゥ中心部のバザール広場で腹ごしらえをして、裏道に踏み込みます。
 とたんに道が狭く、ほこりっぽくなり、道の隅には汚水が溜っています。
 建物は結構背が高く、3階建て位のレンガ作りの家が立ち並び、まるで迷路のような感じです。道端には痩せこけた犬が寝ています。
 ふと、視線を感じて振り向くと、子供達が興味深々の顔で付いてきていました。
 子供達と友達になるのは簡単です。しゃがんで目の高さを一緒にすればいいのです。
 彼らは観光客相手に小物を売って、生計を助けていました。
 英語、日本語、フランス語、ドイツ語と一通り、片言ではありますが使い分けて見せ、商売の極意までを話してくれました。(結構本質を突いていたりする。)
 ただ、彼らは話すことは出来ても、書くことは出来ません。
 たまたま昨晩ホテルで出会った、日本人による識字学校の先生?の言葉を思いだして、その成果に期待しました。
 裏町を出て、商店街を覗いていると、古本屋がありました。
 つい、いつもの癖で入ってしまいます。中国系の顔をした男の人が店番をしていましたどうやら、欧米の観光客が持ってきたペーパーバックやガイドブックの類を置いていく店のようでした。
 薄暗い店内に意外なほど整然と、各国の本が並んでいます。
 ぼーっと眺めていると、店番をしていた男の人から、突然流暢な日本語で話しかけられました。聞けば週に2度ほど日本語学校に通って、2年目になるそうです。
 一昨年行った中国でも感じましたが、海外での日本に対する関心の高さには特筆するものがあります。
 チャイ(砂糖の入ったミルクティー)を出されて、いろいろな話をしました。
 なかでも日本が行っているODAについては、どうも大衆まで恩恵が届いていないようだと実感させる話でした。
 最後に、日本語の勉強に使うので、出来れば何か本を譲ってくれないかと言われて、「仮装巡洋艦バシリスク」を置いてきました。
 巡洋艦とはクルーザーの事だと言ったら、「そんな大きな船どころか、海を見たことも無い」と笑う顔は少し寂しかったように思えます。

 心配していた民主化要求デモにもぶつからず、至って平穏なカトマンドゥ滞在となりましたが、(確かに警官は多かったが、おかげで道を尋ねるのが楽だった。)人々は海外のニュースを良く知っています。
 人々の民主化への思いは、ちょっと滞在した程度の観光客には及びもつかないようなところで、底流となって動いているのかも知れません。

 ネパールを後にした私は、インドの仏教遺跡などを見て廻りましたが、やはり通り一遍の観光名所には満足しなくなっているのが分かりました。
 困ったものだ。

ネパールの風景

 今度は<マニラ・サンクション>武田さんの足跡をたどる旅でもやろうかな。どなたか、御一緒しません?(まさかエリヌス観光という訳にもいくまい。)




●一般研究編に戻る