ペーネミュンデから宇宙へ

コンラッド・ダネンベルグ
エルンスト・ストゥヒリンゲル

翻訳・章構成:花原[まちゅあ]和之

あらまし

 フォン・ブラウンが最初のロケットを作ったのは、まだ十歳を過ぎたばかりのときだった。十四歳になったとき、彼は月と火星へ人類が行くためのロケットの計画を考えるようになった。ドイツ軍は1929年にロケット計画を開始したが、その二年後、後に陸軍大将となるコロネル・ベッカーはベルリンでロケットの実験をしていたフォン・ブラウンに目をつけた。1932年にベッカ ーは彼と契約し、空軍と共同でペーネミュンデ・ロケットセンターを建設した。この場所でフォン・ブラウンのチームは陸軍の援助の下にA−4(V−2)ロケットの開発を行い、空軍はV−1(飛行爆弾)、有線誘導爆弾、ロケット飛行機の開発を行った。
 アルバート・シュペールはロケット研究者の仕事に感銘を受け、ペーネミュンデ計画をささやかながらも発展させた。これにより、1940年にフォン・ブラウンのチームにダネンベルグが加わった。当時、ヒトラーはロケットの実現を疑っていた。彼はA−4計画を1942年まで無視していたが、その支援を決意したときには、ロケットで戦争の趨勢を変えることを考えていた。彼はペーネミュンデの人員を急速に拡充し、兵を前線からペーネミュンデへと移動した。ストゥヒリンゲルがペーネミュンデに博士上等兵としてやって来たのは1943年のちょうどその頃だった。その年の終わりには、ヒムラーがA−4の生産に関する権限を陸軍の手から奪い、彼の指揮下に置いた。そしてミッテルヴェルケでまだ未完成であったロケットの生産を強要し、フランス、ベルギ ー、イギリスを目標とした軍事展開が行われた。
 A−4ロケットの開発全体を通して、フォン・ブラウンは名実共に計画の指導者だった。戦争末期の混乱のためにまだ未完成ではあったが、A−4は、最初に成功した精密な長距離ロケットであり、大戦後に様々な国で作られることになる数多くの軍用ロケットと、人工衛星を打ち上げ、月や惑星へと旅をする宇宙ロケットの祖先となった。

1.ペーネミュンデ

 ウェルナー・フォン・ブラウンの人生は、その始めの頃から、ロケットが生活の中心だった。よく友達と一緒に有人や無人のロケット自動車を作っては窓を割ったり花壇を壊したりして近所を騒がせていたものだ、と彼の母親は何年も後に述懐している。ウェルナーが十三歳の時に母親は彼に望遠鏡を贈った。それは彼のそれからの五十三年の人生を決定する贈物となった。彼は熱心なアマチュア天文家になり、月や火星を見つめては自分の情熱を語った。
「ただ、そこを見ているだけじゃだめなんだ。そこに行かなくちゃ!」そして彼は宇宙への扉を開くロケットを作ることに自分の人生を捧げようと決意した。
 十五歳の時、ウェルナーは、ドイツの若者向けの雑誌に掲載された「月への旅:その天文的・技術的見地」と題する宇宙飛行に関する彼の最初の論文を書いている。彼はその時、ヘルマン・オーベルトの書いた「惑星空間へのロケット」という本を読んで、地球周回軌道へ到達したり、深宇宙へと脱出するためのロケットの速度の計算方法を知ったばかりだった。フォン・ブラウンはそれからの五十年間にロケットや宇宙航行についての五百を越える論文や本を出版している。
 彼は十六歳の時にベルリンの宇宙旅行協会に加わった。十八歳で、彼はベルリンの国立工業物理研究所(米国の標準局に相当する)でロケットの実験をしていた、オーベルト教授の助手になった。当時、宇宙旅行協会は制御と誘導が可能なロケットの開発に挑んでいたが、得られた成果はわずかなものでしかなかった。それはひとえに、測定器具や実験装置どころかロケット研究者の生計 すら賄えない、資金不足のためであった。
 フォン・ブラウンの古い友人の一人であるロルフ・エンゲルは、今日でもロケットや宇宙に関する事柄について現役で活動を続けているが、フォン・ブラウンが1931年の末に語った言葉を今でも覚えている。「考えてみろよ、ロルフ。僕たちはこのロケットの研究を進めたいんだ。だけど僕たちにはそのための資金がない。資金と援助と他にも必要ないろんなものを得るためのたった一つの道が、陸軍なんだ」
 フォン・ブラウンがこう言ったとき、彼は航空機の歴史のことを考えていた。第一次世界大戦以前には飛行機はほとんどなく、その性能も信頼性も低いものだった。戦争の後、飛行機は近代文明における決定的な要素の一つとしての道を歩み始めた−戦争が続く間にその急速な進歩を企図し、それを実行した軍のおかげで。
 ドイツ陸軍は、歴史を通じて全ての国が乗り出すことになるロケットの開発を1929年の軍備増強プログラムの中で開始した。陸軍のロケット開発プログラムは(後の陸軍少将となる)ワルター・ドルンベルガー大尉の手の中にあ った。
 1931年から1932年の間に、ドルンベルガーと他の将校たちはベルリンでのフォン・ブラウンのロケット研究に目を付けた。そして1932年の暮れに、陸軍はフォン・ブラウンに軍用ロケット開発の契約を持ち掛けた。
 フォン・ブラウンがいつも目指していたのは、我々の周囲の宇宙空間だった。地球を飛び立ち、重いペイロードを衛星軌道に送り込み、さらにはそれを越えた宇宙空間へと到達することのできる力強く正確なロケットこそがそのために最も必要なものであることもよくわかっていた。そして、軍の組織だけしかその計画に実現の息吹を与えることができないということを悟り、陸軍の契約を受け入れた。しかしながら、この契約はその後のフォン・ブラウンの人生で永遠にくすぶり続けることになる焼けつくような疑問をも彼にもたらした。「技術者あるいは科学者が、どんな理由があるにしても、軍事活動に利用される計画を支援することは果たして正しいだろうか?」−フォン・ブラウンは、創造的な魂を持つ全ての人間が直面し、そして未だ誰も答えることのできないこの深いジレンマにしばしば悩まされることになった。
 ドイツ陸軍が開発を意図していたのは防衛のための兵器であり、あらゆる仮想侵略国を踏み止まらせるためのものであったということは注目に値する。実際、特に核弾頭を搭載した場合の現在のロケットの「抑止力」については、以後、第三次世界大戦が勃発していないことでも証明されている。
 また、フォン・ブラウンは、軍隊の援助の下で1932年から1942年にかけての十年間ロケットの開発を行っていたが、それはヒトラーがフォン・ブラウンのA−4ロケットを彼の侵略戦争のための兵器として使用することを決定する前のことであった、ということにも注意を向けるべきだろう。
 1932年から1936年まで、八十人からなるフォン・ブラウンのチームは、幾つかのタイプのロケットの開発と飛行試験に成功した。彼らの成果に感銘を受けた陸軍は、空軍と共同で、ベルリン北方にあるバルティック海に面する小さな漁村であったペーネミュンデにロケット開発・試験センターを建設した。そこでのロケットの開発は1937年に始められた。1942年に300キロの射程を持つ25トンロケット・A−4が最初の飛行に成功した。そのロケットは1944年の暮れにゲッベルス博士によりV−2(報復兵器2号)と名付けられた。

2.ダネンベルグとストゥヒリンゲル

 ヒトラーは、ロケット計画を最初は無視し、次いでばかにしていた。しかしこの計画は陸軍と、軍備及軍需生産大臣であるアルバート・シュペールによって存続させられた。その保護の下で、フォン・ブラウンのロケットチームは着実に成功を重ねていった。そして1940年にコンラッド・ダネンベルグがペ ーネミュンデに配属された。
 ダネンベルグは、1920年代の終わりから1930年の初頭にかけて、ハノーバーにある彼の故郷の小さな町にあったロケット信奉家のグループのメンバーだった。このグループはヘルマン・オーベルトの本を勉強し、そこで得られた知識をもとにして、郵便ロケットシステムや高々度飛行のためのロケット推進器から始めて、いずれは宇宙旅行のための巨大なロケットを開発することを目標にしていた。ある日、ダネンベルグのロケット研究家仲間の一人で、彼が後にペーネミュンデに連れて来ることになったアルベルト・ピューレンベルグが、彼の興味を引きそうな計画がペーネミュンデで進行していることをダネンベルグに手紙で知らせてきた。ダネンベルグは早速ペーネミュンデを訪れ、申込み書を提出することにした。ハノーバーの彼の会社は軍の契約に関係する仕事をしていたが、彼のペーネミュンデへの移転が認められた。ハノーバーにある工科大学で高圧ディーゼルエンジンの燃料噴射器の研究をしていたダネンベルグは、当時ペーネミュンデで問題となっていた高圧ロケットエンジンの燃料噴射器の研究を行うのにまさにうってつけの人物であった。
 ダネンベルグは、ドルンベルガーの下でフォン・ブラウンと共に働いていた燃料噴射器とロケットエンジンの専門家であるワルター・ティール博士の下で研究を行った。A−4の推進システムの責任者として、ティールは最初1・4トンの推力を持つ比較的小型のロケットモーターを18個集めて、合計25・2トンの推力を発生させることを計画していた。その中間段階として、ティールは3つの噴射器を組み合わせた4・2トンの推力を持つエンジンを考え、ダネンベルグは後の複雑なA−4ロケットモーターの基礎となるこのシステムの専任技術者となった。もっと単純な設計も考案されたがうまく動作せず、戦争中であったことからその研究は中断せざるを得なかった。そして、生産時に困難が生じることが予想されたにもかかわらず、既存の複雑な設計のまま開発を進めることが決められた。驚いたことに、生産時の問題は予期されたものよりはるかに小さなものですんだ。
 ダネンベルグが1940年にペーネミュンデの計画に参加した時、A−4を第二次世界大戦で兵器として使用する可能性はヒトラーの政府では考えられていなかった。しかしながら、陸軍は抑止力としてその開発を望んでいた。ミサイルは液体推進剤を用いるため、燃料を抜いた状態での運搬が可能とされた。高さ14メートル、中央部の直径1・65メートル、尾翼の幅3・65メートルという大きなサイズであったが、燃料を除いた重量は2800キロにすぎなかった。精密な燃料のカットオフにより正確な射程が決定された。推進剤を送り込むためにターボポンプを使用することが、低圧で軽量の巨大な推進剤タンクを実現するための大きな技術的革新だった。タービンは過酸化水素蒸気発生器により駆動された。タービンと同じ軸に二つの遠心ポンプがあり、毎分6000回転で、約15気圧の圧力を持つ燃焼室の上で推進剤に3から5気圧の圧力を加えた。A−4の発射時の総重量は13トンだったが、A−4のモーターは25・4トンの推力を発生した。
 1942年、ドイツの軍事力が急激にその勢力を失っていった時、ヒトラーはペーネミュンデのロケツトに向き直り、必要な人員を急速に確保することを命令した。軍隊から選出された多数の技術者と科学者がロケット計画へと配置転換され、その中の一人にエルンスト・ストゥヒリンゲルがいた。彼はペーネミュンデへの移転命令を1943年の4月にウクライナ中部の雪原で受け取った。ロケット計画の存在、そしてそのリーダーの名前は当時まだドイツにおいては秘密とされており、ほとんどの人々はペーネミュンデで行われていることについて、ロケットについて、そしてドルンベルガーとフォン・ブラウンについて何も知らなかった。
 ストゥヒリンゲルはペーネミュンデに上等兵として到着し、上等兵のまま過ごした。「もし、おまえが民間人になったりすれば」と彼は念を押された。「情け容赦ない徴兵委員会がおまえを捕まえて、直ちにロシアの前線に送り返すことになるだろう」徴用される前、彼は物理学者として研鑽を積み、宇宙線と核物理をベルリンで研究していた。彼はA−4ロケットの慣性誘導のための加速度計の開発と試験を仕事にしているワルター・シュヴィデッキー博士に率いられているグループに加わった。ペーネミュンデにおける総人員は数千人に上り、他にも同じくらいの多くの数の技術者、科学者、職人がドイツのあらゆる場所でペーネミュンデのために働いていた。

3.フォン・ブラウン

 加速度計の研究室には、装置を持参したり取りに来たり、あるいは測定データについて議論したりする人々が頻繁に訪れた。「ある日」とストゥヒリンゲルは述懐している。「一人の若者が我々の研究室にやって来た。彼は他の全ての訪問者とどこか違っていた。『こんにちは、博士』と彼はワルターに言った。『調子はどうです?』私はそこにやって来ては去ってゆく多くの人々にほとんど注意を払っていなかったが、私がこの男を見、そして声を聞いた時、即座に魅入られたような衝撃を受けた。その男は背が高く、ブロンドで、強健そうで印象的な人物であり、彼は非常にゆったりとした立居振舞をしていたというだけでなく、彼の目や顔、実際のところ彼の全身は、究極といっていい注意深さと、彼が伝えようとしている考えの中の全ての困難な点を表していた。そして、さらに、彼はいかなる意味でも横柄な人間ではなかった。彼の質問は正確で問題点を鋭く突くものであったが、それは創造的な考えを刺激し、質問された人間の最大限の能力を引き出した。それは相棒や仲間が問いかける質問であり、ボスのものではなかった」
「その若い男がワルターに先日の加速度計のテストはどうだったかを尋ねた時、我々がここで行なっている研究を彼が十分に熟知していることに私は気づいた。彼は話している間、ワルターが彼に差し出した椅子を断って、隅にある木の箱に腰掛けていた。『我々は全ての範囲の周波数の振動を使って試験を行ってみたんだが、最近の幾つかの改良のおかげで装置はかなり良く持ちこたえられるようになった』とワルターは答えた。『どこかに強い共振は?』『いくつかあるようだが、特に悪い影響はないのは確かだ』『正弦波振動だけを使ったのかい?』『うん、それで?』『私が思うのは』その若い男は付け加えた。『たぶん、次回の係留噴射試験のうちのどれか一回の間に、ロケットエンジンの実際の振動ノイズを磁気ワイヤレコーダーに記録することができるはずだ。それで、記録されたノイズを再生して、それを増幅器を通して振動テーブルのコイルに直接送り込むんだ。そうすれば、純粋な正弦波よりもずっと実際的なテストができると思うんだが。こんなことができるだろうか?』『できると思う…すぐにやってみるよ』とワルターは言った。『報告を頼む』というのがそれに対する短い返事だった。そして彼は、やって来た時と同じようにすばやく立ち去った」
「しばらくの間、私は奇妙な魔力にとらわれていた。そして、私があの男は誰なのかをワルターに尋ねると、ほとんど厳かといっていい声で彼は言った。『あれがフォン・ブラウン博士だ』『彼は何歳です?』私はいぶかった。『三十一歳だ』『そして、彼はこの巨大な施設の中心人物?』『彼は最初からここの中心だ。もう六年にもなる。実際…』ワルターは続けた。『私には、彼がどこにいようとそこの中心である以外の何者でもないだろうと思うね!』」
 シュヴィデッキーは、彼の研究室に彼を訪ねてきた多くの人々の誰に対しても無愛想に話していたが、フォン・ブラウンと話す時は別人だった。そこに確かにあったのは、彼の態度にある服従や従順を示す様子とか劣等感とかいうものではなく、むしろひとことで言って彼のまさに最高のものを引き出そうとする自然な願望の発露であったのだが、それは非常に生き生きとした思考と知識のやり取りだった。
 三十年以上の間、ダネンベルグとストゥヒリンゲルの二人とも、数え切れないくらいに何度もフォン・ブラウンと仕事をするという幸運に恵まれていたが、彼の人間性から放射されるその奇妙な魔力は尽きることがなかった。彼が部屋に入ったり、あるグループの人々に加わったりすると、彼は直ちにその場における重力すなわち全員の注意と興味を引き寄せる見えない力の中心となった。彼が話す時には全員が耳を傾けた(しかし、彼は往々にして、他の人が言葉を言い終えないうちに話しだすことがあったことは言っておかなければなるまい)。大きな人々の集まりの中で彼を見つけだすのは、いつでも簡単だった。群衆は常に彼のいる所でもっとも込み合って、笑ったり、話したりしており、たくさんの人々が彼を熱心に見つめてその話すことを聞きたがっているいう事実を味わっていた。
 彼の本当の情熱は、しかしながら、疑いようもなく研究仲間との技術的な議論に注がれた。そこで、彼は最高に注意深くまた非常に辛抱強く話を聞き、全てを細部にわたって吸収し、新たに得られた情報を彼の敏速なメモリに蓄えられている無数の情報と照らし合わせ、鋭い質問あるいは刺激的な注釈を用いて問題点に取り組んでいった。そして、頻繁にインターバルをとり、まわりの全員がその問題を彼と同じように理解していることを明快な言葉と力強い論理で確かめながら、フォン・ブラウン特有のやり方で状況をまとめ上げてゆくのだ った。
 彼はまた、異なる意見を常に大切にしていた。しかし、それは共通の基盤から始まっていなければならず、一貫した論理をもち、自然界の法則や健全な工学の原則を乱さずにそこから導きだされるものでなければならなかった。このような全ての議論において、彼は単純な一連の行動に従った。すなわち、問題を認識し、解析し、そして解くのである。誰かがテストの失敗や開発の行き詰まりを報告した時、フォン・ブラウンはまずこう尋ねる。「それをどうするつもりでいるのか?」そして彼は、計画に責任のある人間は遭遇する可能性のあるあらゆる問題の解決についても責任があるということ、しかしそれには、同僚からの、特にフォン・ブラウン個人からの積極的な支援が与えられる、ということに疑念の余地を与えなかった。

4.技術開発

 ロケット計画はペーネミュンデ人の生活の中心に位置していた。解決されなければならない問題の圧倒的な量が彼らの想像力の限界を拡げた。これらの問題の多くは、技術的で科学的でもある前例のない様々な発明を要求した。そして、今日では信じることさえ困難だが、そこで計算や設計を助けてくれるはずのコンピュータは、まだ一台も存在していはなかったのだ。
 ターボポンプ、蒸気発生器、数々のバルブ、冷却装置をともなったA−4のためのロケット・モーターは、ワルター・ティールの巧みな指揮の下で徐々に形を整えはじめた。ロケットのための超音速空気力学の資料が全くなかったので、アーヘン工科大学からやってきた空気力学者ルドルフ・ヘルマンはペーネミュンデに超音速風洞を建造した。また、飛行中のロケットの運動の制御と誘導の問題があった。そこで、この巨大な機械の全ての動きを計測するセンサが開発された。回路網が組み込まれ、センサの読み出し信号をジェットベーンを動かすサーボモーターを制御する信号に変換した。ベルリンにいたジーメンとクライゼルゲラーテの援助を受けて、安定した参照座標系を供給するためのジ ャイロスコープが開発された。さらには、巨大なロケットに作用する力と運動の様々な相互作用の解析のための電気シミュレータが発明され、大がかりな装置が建造された。それは真空管で満たされていて常にオーバーヒート気味ではあったが、後代のアナログ・コンピュータの先駆者であり、A−4の誘導システムの開発において決定的な威力を持っていた。誘導、制御、通信、実装のための統合はゲルハルト・ライジによってなされ、生命を与えられた。これは後にエルンスト・シュタインホッフによって引き継がれた。
 ほとんどのペーネミュンデの人員にとって、これら全ての無数の活動をたどることは不可能だった。しかしながら、ダネンベルグとストゥヒリンゲルを含む、彼らのうちの多くはフォン・ブラウンが出席するミーティングに参加した。彼らは今でもこれらのミーティングのことを覚えている。主題が何であるかにかかわらず、例えば、燃焼の安定性、超音速空気力学、制御理論、加速度計、弾道軌道、ジャイロスコープなどの全てにおいて、フォン・ブラウンはそれらの基本的な課題と現状についての十分な知識を常に持っていた。彼は素早く問題を把握し、それを全員が明確に理解できるような形になおした。彼は、その質問や考えあるいは様々な指摘を用いて出席者と専門家の間の懸け橋となった。全てのこれらのミーティングは肯定的な基調で終わった。解決は可能に見え、困難を解決するすべは明らかになった。継続する進歩を保証する何かが可能になり、そして実行されていった。
 推進、誘導、テレメータのシステムを装備したペーネミュンデのロケットは、最初のトランジスタが市場に登場する十年前に、そして高速コンピュータの時代の二十五年前に開発された。今日の標準からすれば、これらの初期のシステムは時代後れに見える。近代的な誘導・制御システムははるかに小さく、より正確で、そしてより高い信頼性を持つ。しかし、あのペーネミュンデのシステムは、それらを抜きにしては我々の近代宇宙飛行の達成が不可能な、全く新しい技術の地平を切り開いたのだ。

5.打ち上げ

 ペーネミュンデにおけるA−4の打ち上げは、直接打ち上げ作業にかかわる者たちだけでなく、ほとんど全ての者にとって、常に非常に刺激的だった。緊迫した打ち上げの言葉は放送により伝達された。何人かは高い建物の屋根から見ていた。他の者は発射場の近くまで歩いて来たり、あるいはロケットが木々の先端を越えて上昇して行くのを見るために三、四キロの距離にある通りに立 って発射場のあるあたりを注視していた。
 ダネンベルグはA−4の打ち上げテストに最初からかかわっていた。燃焼室や、後にはタンク予圧を含む推進ユニット全体の設計と開発に携わっていたため、彼は飛行結果に非常な関心を寄せていた。初期の試験においては多くの失敗があり、時には爆発事故すら発生した。1942年6月13日の最初のA−4の打ち上げは、非常な期待外れに終わり、ロケットはひっくり返って爆発した。二番目の試験ロケットは8月16日に成功裡に飛び立ち、音速の壁を破ったが、コースを外れ、飛行の45秒後にばらばらになってしまった。しかし、少なくともその飛行は大型のロケットを稼働するように作ることができ、音速の壁を越えて飛行させることができるということを証明した。1942年10月3日に行われた三度目の打ち上げは完ぺきな成功だった。その日は宇宙時代の本当の始まりを記念する日となった。
 全ての構成要素の大がかりな試験は明らかにその成功によって報われた。ロケットは宇宙へと到達し、この新しい媒体を地上の一点から他の場所へと移動するために使うことができる、とドルンベルガーは言った。彼とフォン・ブラウン、そしてチームの全員が成功を喜んだ。そのミサイルは300秒の飛行の間に85キロの高度と196キロの射程を獲得した。測定と追跡のための装置を取り除けば、軍用として要求される300キロの射程が可能となることが計算により確認された。
 ストゥヒリンゲルは1943年4月に始めて打ち上げを見た。それはA−4の成功した3度目の飛行だった。「P−7実験棟の上の屋根に立って…」とストゥヒリンゲルは当時を振り返る。「私は液体酸素がタンク車からロケットに満たされてゆく様子を見ていた。全てはまだ静寂に包まれていたが、私はその光景に深い感銘を受けた。そこに、外側はつやつやとしていてなめらかだが、その時の最も進んだ技術が詰まっていて、解き放たれるのを待ち望むすさまじいエネルギを持つ、この美しい機械が立っていた。その当時の他の全てのロケ ットと比較してさえ、その大きさは途方もないものだった。数分のうちには打ち上げ信号が与えられ、過熱された蒸気が460馬力でタービンを駆動し、毎秒120キロのアルコールと液体酸素を燃焼室に送り込む。すると25トンのロケット推力がロケットを持ち上げ、一分に満たない時間のうちに、これまでに飛行した他の全ての機体の速さを凌駕する2000メートル毎秒まで加速する。−こんな考えが私の心を通り過ぎているうちに、ロケット側の液体酸素圧力解放弁から立ち上る蒸気が消え、ラウドスピーカのアナウンスが響く。…3…2…1…0…点火…予備段…主力段…離床!そのとき、私は将来にわたって私が何度も見、そして、世界中の何百万もの人々がロケット打ち上げの際に目撃することになる出来事を、初めて見たのだった。蒸気と煙の白い雲がノズルから吹き出し、黄色の火柱が続き、一瞬のうちにロケットの尾部は炎と煙の最も激しい乱流に飲み込まれた。半秒の後、その音はすさまじい衝撃とともにやって来たが、それは雷鳴のうなりのように、途切れることのない強さで続く衝撃だった。何もかもが振動し、揺れ動いた。実際、それはかなりの苦痛だった。しかし、このような瞬間に誰が痛みのことなどに思いを向けただろうか」
「ほとんど奇跡的に、炎の上に見えるロケットの上部は動かないままだった。主力段の点火の時に、それはとても、とてもゆっくりと信じられないほど着実に上昇し始めた。いくらかの垂直上昇の後に、ロケットは、バルティック海の海岸線と平行に、ゆっくりと東寄りに向きを変えていった…」
 ペーネミュンデにおける全ての打ち上げが成功だったわけではない。幾つかのロケットは離床後の最初の数秒で失敗に終わった。「これらの失敗のどれも」とフォン・ブラウンはよく話していた。「本当に損失となったわけではない。そのひとつひとつが、我々にA−4をより良くする方法を教えてくれる…」実際、フォン・ブラウン個人としては、それぞれの打ち上げ失敗の後にこそ最も精力的な調査を指揮した。彼に特有のこととして、失敗のいかなる非難も個人に負わせるようなことはしなかった。全員が、その個人の作業においてできるかぎりの注意を払っていたことがわかっていたからだ。

6.ヒムラー

 1943年の夏に、重大な出来事が起こった。親衛隊(SS)隊長ヒムラー、当時のヒトラーの配下の中で間違いなくもっとも強力で、もっとも謎めいていて、もっとも悪魔的で、もっとも恐ろしい男が、ペーネミュンデへの来訪を通知してきた。彼の希望はA−4の打ち上げ試験を見ることだった。ドルンベルガーとフォン・ブラウンにとって、この訪問は非常な緊張と関心の出来事だった。というのは、彼らは、ヒムラーがA−4計画を陸軍の手から奪い取って自分の指揮下に置きたがっていたことを知っていたからである。
 A−4は失敗なく飛び立った。しかし二、三十メートルの高度に達した後で少し向きを変え始め、次いで飛行が不規則になり、ひっくり返り、空軍下の姉妹組織のあるペーネミュンデ西部の飛行場に向かって飛んでいった。そこでは、空中発射誘導爆弾、ロケット飛行機、飛行爆弾(後にV−1と呼ばれる)が開発されていた。衝突の際の爆発は、駐機されていた幾つかの飛行機を破壊した。
 フォン・ブラウンは後で彼の仲間たちにこう語った。「ヒムラーは皮肉たっぷりの笑みを浮かべてこう言ったんだ。『この実験は、たった今、私にとってのあらゆる疑念をも取り去ってくれた。私は地上兵器の生産を進んで命令することにしようと思う』」
 フォン・ブラウンは非常に現実的だったので、予期しうる失敗に対する備えは常に用意していた。失敗した打ち上げの試みの後一時間もたたないうちに、次のA−4が発射台に立ち、アルコールと液体酸素が満たされ、検査が完了し、打ち上げを待つばかりとなった。この時は絵に書いたような打ち上げだった。ロケットはバルティック海の予想された突入点に、1パーセントの4分の1の誤差で到達した。
 ヒムラーの考えは相変わらずわからないままだった。フォン・ブラウンはその状況下での最良の結果を導くために、ヒムラーの注意を次のような点に向けさせた。すなわち、A−4の可能性は二回目の打ち上げで示された。とはいえ、一回目の打ち上げはミサイルとしてのロケットの生産が開始されるまでに開発と試験の作業がいかに多く必要かということを明確に示している。ヒムラーはそれについては総統に話してみる、と答えた。
 ヒムラーは確かにその件について総統に話した。しかしそれはフォン・ブラウンが期待し、望んでいたようにではなく、彼が恐れていたような仕方でだった。
 A−4計画全体の指揮権を得ようとするヒムラーの凶悪な企みは、長いあいだ恐れていた出来事による予想外の援助を受けた。すなわち、イギリス空軍による空爆である。
 1943年8月17日の夜間、600機の爆撃機の波が、1500トンの爆弾と焼夷弾をペーネミュンデに投下した。対空砲と夜間戦闘機が47の爆撃機を撃墜した。施設と実験棟への技術的な被害は驚くほど軽微だったが、住宅ユニットの多くが破壊され、735人が命を失った。
 この空爆により連合国がロケット計画を察知していることが明らかになった。そこでヒトラーはA−4の計画中の生産設備の全てを地下施設にするという命令を与えた。彼はその命令を実行する権限をヒムラーに割り当て、彼はまたヒムラーを兵器としてのA−4の大量生産と軍事展開の責任者にした。
 ペーネミュンデをヒムラーと彼のSSの支配下に服させようとする企ての詳細は、戦後、主としてドルンベルガーとアルバート・シュペールによって書かれた本を通じて知られるようになった。それは一方の側の病的な野心、陰謀、無鉄砲、無責任、誇大妄想、愚劣と、そしてもう一方の側がふりしぼった抵抗のための途方もない努力とに満ちた混沌とした物語である。ヒムラーはA−4の大量生産と軍事使用に関する全ての支配を獲得したが、開発と試験についてはその支配を免れた。ドルンベルガーとフォン・ブラウンはA−4が兵器として使用される前に戦争が終わることを望んで、試験と技術的な研究のためのより多くの時間を要求した。ヒトラーはそれに対して、大量生産の実施のためにミサイル生産責任者としてデゲンコルブを任命した。彼は以前に既存の蒸気機関車の単純化された型である「戦時機関車」の月産二千台の実施によるきわだ った手腕を見せた人物だった。デゲンコルブは、まだ多くの仕様が明確になっていないにもかかわらず、大量生産の要求の青写真を用いてペーネミュンデの人々に大きな圧力をかけた。ドルンベルガーはデゲンコルブを「乱暴で、脅迫的で、うぬぼれ屋で、おまけにルールも道理もまったく無視している」と評した。
 1943年までにペーネミュンデは非常に大規模になったので、陸軍はそれを電気機械工場(EW)という名前の私企業と見なすことを決定した。当時の他の公式の名前としては、ペーネミュンデ陸軍実験場/実験所(HVP)、郊外砲廠(HAP)といったものがあった。このような手続きを踏むことによりペーネミュンデがヒムラーの魔の手から逃れられることが望まれた−しかし、それは満たされない希望だった。

7.地下工場

 ヒムラーは1943年に地下工場でのA−4の大量生産の権限を握った後、後日ミッテルヴェルケと呼ばれたハーツ山地のかつての石膏鉱山に生産施設を建設した。そこでは他の兵器システムの生産も行われ、その中には飛行爆弾V−1や戦闘機や潜水艦の部品もあった。ドイツにおける全ての強制収容所の担当でもあったヒムラーは、シュペールの申し入れに逆らって、収容者をミッテルヴェルケで働かせることを提案した。工場の近郊にドラ、ハーツンゲン、エルリッヒといった新たな収容所が建設され、ブッヒェンヴァルドなどの他の収容所から収容者が移送された。シュペールが後に書き記しているように、収容所ならびに地下工場での環境は「野蛮」で「屈辱的」なものだった。技術的な問題の解決を手助けするために頻繁にミッテルヴェルケを訪れなければならなかったフォン・ブラウンと、主任技術者の一人でA−4生産の技術責任者としてミッテルヴェルケに配属されたアルトゥール・ルドルフは、いかに非人間的な条件で収容者たちが働き、そして生活しなければならないかを見てぞっとした。彼らはSSの警備員たちを説得し、収容者たちをもっと人間的に扱い、彼らに収容所でのもっとまともな生活環境を与えようと試みたが、黙れ、さもないと収容者と同じ縞の収容服を着させるぞ、と言われただけだった。非常に多くの収容者が病気、虐待、あるいは単に完全な疲労のために収容所で死亡した。−戦後、ルドルフは、ミッテルヴェルケの作業場において彼の部署に配属された収容者を誰一人として死なせるようなことはしなかったと繰り返し誓って述べている。
 ライトフィールドにある空軍資料調査所は、1947年の調査において、最も活発な時期である1944年の終わりには民間人と強制労働者の約三万二千人がミッテルヴェルケで働いていたことを報告している。最初の設立の後、技術的に不慣れであった収容者が職人として要求される品質の作業を成し遂げることができなかったため、強制労働者の数は減少の一途をたどり、職人である民間人の雇用者が増加した。その報告書によれば、1944年10月の時点で、ミッテルヴェルケにおいてルドルフの下でA−4の生産に携わっていた労働力は、四千人の民間人雇用者と三千五百人の収容者の七千五百人からなっていた。
 フォン・ブラウンによる、そしてルドルフによる、ミッテルヴェルケの収容者の苦難を緩和する努力によって、彼らがSSから受ける過酷な取扱いはいくらか改善された。しかし、フォン・ブラウンは後にこう語っている。「ああい った不幸な捕らわれ人の光景はそれ以来私の脳裏を去ることはなかった。最も気のめいる考えは、私は何にせよ本質的なことをする力を全く持っていないという事実だった。たとえ私がその場所と仕事を放棄して牢獄へ入れられたとしても、ヒムラーがより過酷でよりばかげた条件の下での継続の命令を与えるだけだっただろう。収容者たちは疑いなくあれよりもっと苦しむことになっただろう」
 まだ未完成であったA−4の大量生産が開始されるにあたって、ミサイルの生産を可能とするための約六万五千箇所の技術仕様の変更が必要となった。これらの変更の多くは、戦時下のドイツではもはや手に入らなくなった材料の極度の欠乏によるものだった。これは特にニッケル、クロム、銀、銅についてであり、さらには適度な組成の鉄やアルミの合金までもが含まれていた。多くの調整がなされ、シールやガスケットにさえ及ぶ要素の再設計が必要となる場合もしばしばだった。これらの変更点に関連して、ダネンベルグは技術者に再設計の図面を配布したり困難な物資の供給状況から来る問題について議論するために何度かミッテルヴェルケへと旅行しなければならなかった。

8.ふたつの希望

 A−4計画の実権の把握を、少なくともその生産と軍事展開に関してはSSが達成してから、しばしば、高位の将校がペーネミュンデに施設の視察に訪れた。フォン・ブラウンはたいてい、礼儀と忍耐をもって彼らを歓迎した−他の何が彼にできただろう?しかし、時には訪問者の傲慢さが彼を少しばかりの皮肉へと駆り立てた。
 ベルリンから来た将校がある時フォン・ブラウンのオフィスに現れて、ていねいに積み重ねられ、注意深く置かれたノート、報告書、図面、その他の書類で机の上が一杯になっているのを見た。「フォン・ブラウン博士」訪問者は感想を述べた。「何という大変な紙の山を机の上に抱えているんですか!これはとても耐えられそうもない!ベルリンの私の将軍なぞは、いついかなる時でも机の上に一枚以上の紙を乗せたことがないというのに!」−「ごもっとも」とフォン・ブラウンは答えた。「ええ、知っていますとも。それは将軍の奥様が朝食のサンドイッチを包むのに使っていた紙なんですね」
 このような問答のおかげで、ヒムラーがフォン・ブラウンを陸軍から遠ざけてSSに誘うための策略の一つとしてA−4が最初の成功を収めたときに名誉SSの階級(ウンテルストゥルムフューラー、米国における陸軍少尉に相当)を彼に授与したという事実があったにもかかわらず、フォン・ブラウンとSSとの間に友好的な雰囲気ができることはなかった。フォン・ブラウンは、この授与式のときの、気前の良さを示すためのいんちき芝居に大変に腹を立てていた。彼と彼の身近にいる人々がこの「栄誉」の辞退はヒムラー側の逆鱗に触れて予期できない結末をもたらすという結論に達したので、フォン・ブラウンはこの名誉階級を受けることにしたのだった。しかし彼はすぐさまSSの制服をクローゼットにしまい込んだ。ヒムラーはフォン・ブラウンを自分の側に勝ち得ようとし続け、彼をさらに昇進させ、1943年6月28日に彼をストゥルムバンフューラー(陸軍少佐に相当)とした。これらの好意の提示の全てがもはや無効であることが明らかになったとき、ヒムラーは、フォン・ブラウンの心にあるのはドイツの戦争努力を支援することではなく、宇宙飛行のことだけであるという罪状で、フォン・ブラウンを1944年の3月にシュテインにあるゲシュタポの牢獄に拘留した。そのためフォン・ブラウンは三十二歳の誕生日を牢獄で過ごした。ドルンベルガーとシュペールはヒトラーを説き伏せて二週間後にフォン・ブラウンを解放させることに成功した−執行猶予付きではあったが。
 1943年のペーネミュンデの空爆の前でさえ、多くの研究所や工場がドイツ中のさまざまな場所に移されていた。新たな研究所や工場は学校の教室、倉庫、仮設の建物の中に設置された。鉄道による多くの旅行が必要となり、頻繁な空爆のさなかの最も困難な状況下で移動しなければならない場合もしばしばだった。鉄道の駅、橋、管制施設の爆撃は、数時間どころか数日の遅れさえも引き起こした。電話による通信はたまにしか機能しなかった。これらの全ての困難にもかかわらず、A−4に関する作業は進み、その信頼性は改善されてい った。
 解決されなければならない技術的・科学的問題の量は圧倒的だった。フォン・ブラウンは可能な時はいつでも議論に参加した。問題の根本原因を見極めたり、解決策を見つけたりする彼の手際はいつも仕事仲間を驚嘆させた。恐ろしい戦争の全ての苦難に抗して、共通の計画への献身的な精神が貫かれた。もはや明確に、A−4がこの戦争の結末に影響を及ぼす可能性はなかった。それでもペーネミュンデで働く男女は、自分たちが全く新しい技術の端緒にあり、それまでの夢を、成功すればここから世界へ広がり人類の確固たる財産となるであろう現実の成果へと、いままさに変換しようとしているところであることを知っていた。ペーネミュンデ人の間には、この戦争は、彼らのロケットが戦争兵器として使われる前に終わるであろうという、変わらぬ希望があった。そして、もうひとつのかすかな期待があった−それは、彼らが作るロケットが兵器として使用されるのではなく、大気の上層、月、そして惑星の探検のためだけに使われる時がやがて来るかも知れない、というものだった。

9.宇宙へ…

 これらの希望の最初のものは満たされなかった。A−4ロケットはフランス、 ベルギー、イギリスの都市に向けて発射され、戦争はあくまでも継続された。しかし、1944年には遠い夢であった、ふたつめの希望はかなえられた。1945年の早くにソ連の軍隊がペーネミュンデに向かって進軍した時、人員の全てはバーバリアへの移動を命じられた。SSの護衛を伴い、ペーネミュンデ人たちは三両の列車、千台に及ぶトラック、川沿いのボートやその他の車両にさえ分乗して、南へと移動した。約五百人の男女はオーベルアメルガウやガルミッシュあるいはその他のオーストリア国境に近い場所へと移送された。ドルンベルガー、フォン・ブラウン、そして幾人かの彼らの共同研究者たちはオーベルジョーに留まっていた。5月に連合軍の軍隊がその地域に接近したとき、フォン・ブラウンはアメリカ人と接触するために彼の弟であるマグヌスを送り出した。彼らはそこで非常に多くのロケット研究者を発見して大変に驚いた。
 それに続く数週間の間に、イギリス軍は「バックファイア作戦」を指揮し、3基のA−4をカックスハーベンの近くの発射場から打ち上げた。彼らは、多数のA−4およびその取り扱いと打ち上げの装置、燃料と液体酸素の輸送車両、その他の数々の物品のみならず、ミサイル発射ユニットを担当していた多数のドイツ兵をも捕獲した。彼らはさらにペーネミュンデとミッテルヴェルケの多数の要員を説明のために連れてきており、その中にはダネンベルグもいた。フランス軍は、多数の元ペーネミュンデ人を使って、終戦後すぐにロケットミサイル計画を開始した。ソ連の軍隊はペーネミュンデとミッテルヴェルケを制圧し、数百人のペーネミュンデの専門家をソ連へと移送して、彼らを自分たちのミサイル計画に従事させた。
 約百三十人のペーネミュンデ人は米国でロケットの研究を継続する契約を申し入れられた。最後のA−4がペーネミュンデからバルティック海へと発射されてから十四か月後、ニューメキシコのホワイトサンズでA−4の打ち上げが開始された。1946年から1952年の間に、約70基のA−4が高々度の飛行に成功した。そのときには弾頭のかわりにA−4は大気の上層やその上の宇宙空間を調査する科学計測装置を積んでいた。ロケットの研究は、米国や世界中のその他の多くの国々で続けられた。幾つかの軍用ロケットを開発し、たくさんの人工衛星を打ち上げた後、フォン・ブラウンのチーム−当時の民間企業の四十万人におよぶ協力者に支えられた八千人の男女からなる人員−は、十二人のアポロ宇宙飛行士を月へ至る道のりへと打ち上げた、巨大なサターンロケットを建造した。

10.追憶

 十五年後、ペーネミュンデへの追憶をフォン・ブラウンはこう書き記した。「あのささやかな始まりから、ロケット工学は、宇宙探査を始められるまでに進歩した…ペーネミュンデは伝説となった…それは、ロケットの戦争兵器としての短絡的な利用をはるかに越えた計画に実現の息吹を与えた…」

訳者あとがき

 これは、宇宙工学関係のジャーナルである「アクタ・アストロノーティカ」に掲載されていた、「ROCKET CENTER PEENEMUNDE − PERSONAL MEMORIES by Konrad Dannenberg and Ernst Stuhlinger, Acta Astronautica, Vol.34, pp.383-395, 1994」の全文を訳したものです。このジャーナルにはいわゆる論文ではなく「読み物」が掲載されることがたまにあり、そのいくつかは私の「甲州画報」の原稿のネタとして使わせてもらったりもしています。
 さて、今回、甲州ネタとは直接には関係ない(全く関係ないというわけではないでしょうが…航空宇宙軍史に登場する宇宙機も系図を遡ればやはりペーネミュンデにたどりつくでしょうし)このような記事を「こうしゅうえいせい」で紹介しようと思ったのには二つの理由があります。ひとつは「ひょっとしたら今の若い子はフォン・ブラウンとかV−2とかゆうてもしらんのとちゃうか」ということです。なんといっても今の大学生くらいの世代はあの「アポロ計画」より後に生まれてきたんですから。だから、この記事に書かれていることは、ちょっとよく知っている人にとっては目新しいことは何もないかも知れませんが、結構多くの(主に若い世代の)人々には興味深く読んでもらえるのではないでしょうか。
 もうひとつの理由は、私自身がこの記事を読んで感動し、他の人にも読ませたい、と思ったことによります。過去にもこういう関係の本を読んだことはあ ったのですが、実際に直接携わっていた人によって書かれたものは(私自身としては)初めてでした。特にA−4の打ち上げの描写の部分は非常に感動的で、この部分は英語のまま何度か読み返したりもしていました。未熟な翻訳かも知れませんが、できるだけその感動を伝えるように訳したつもりなので、一人でも多くの方にその感動が伝われば、と思います。
 大学の工学部に勤務している私としては、フォン・ブラウンたちのA−4にかける姿勢も大いに参考になります。文章の端々に困難な状況下で新しいものを作ってゆこうとする熱意を見ることができます。「失敗のどれも本当の損失とはならない」というのは我々の研究活動においても大いに励みとなる言葉ですし、それまで夢であった宇宙への道を現実のものにしようとした技術者の情熱には胸を打たれます。
 今ではそのように夢を語って生きてゆくのは難しいことかも知れません。それよりも現実の世界に山ほど問題があるのですから。しかし夢を現実に変えることは決して不可能ではない…という思いを捨てないようにしたいものです。いつか宇宙に−より遠くの世界に行くためにも。




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