茶色の怪しげな生き物との戦い(宇宙編)

花原[まちゅあ]和之

 居住用の小部屋に戻った俺は、かすかな音を聞いた。
 連日の航空宇宙軍との戦闘で疲れ切ってはいたが、そのぶん、俺の感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていた。科学の粋を集めた戦闘艦に乗り組んで(とはいっても仮装巡洋艦だから航空宇宙軍の正規巡洋艦に比べればかなり見劣りがしたが)、ほとんどの戦いはセンサや制御システムをコンピュータ・プログラムを通じて操作することで行ってはいたが、命のやり取りの場面が続く緊張感のせいか、時には近づいてくる敵艦の音すら虚空を越えて聞こえる…ような気がするほどだ。
 さっきの音は、たしかに部屋の中から聞こえた。この艦に乗り組んでいるのは俺を含めて7人。そのうちの4人は現在が直のはずで、2人はそれぞれ主機とセンサの整備に行っているはずだから、この部屋には俺の他に誰もいないはずだ。…たしかに、少し雑然としている部屋の中には人が潜むスペースくらいはある。しかし、この感じは違う…この部屋にいるのは、奴だ…奴に違いない。人類の永遠のライバル - 奴は、人類の活動範囲には必ずいつのまにか進出し、その生息範囲を拡大しているという。
 俺はちらりと時計を見た。次の敵艦との遭遇予定時刻までざっと7時間程度か。さっさと奴を片づけて早く安眠したいものだ…。

 俺は昔、祖父に聞いたことがある。たしかそれはまだ俺が子供の頃、初めてそいつに遭遇した時のことだった。
「よくお聞き。奴はどこにでも現れる。宇宙に進出したのは我々だけではないんじゃよ。人のいる所、必ず奴はやって来る。どんなに注意を払おうとも…。まだ地球にいた時、わしの祖父さんがよく聞かせてくれたものじゃ。祖父さんの住んでいた街は住みにくい、たいそう寒い街じゃったそうな。しかし文明が進んで人の住みよい、暖かい所になると…いなかったはずの奴がいつの間にか現れたのじゃ…招いたわけでもないのにな。わしらが快適に暮らせる所は、奴らにも快適に暮らせる所なんじゃ」
 人類が宇宙空間で出会った最初の「意図しない」生物 - それが、奴だった。その時から、地球上で繰り返されたのと同じような戦いが宇宙空間でも繰り広げられてきた。ただ、戦況はどちらかというと奴らにとって有利だった。閉鎖され、おいそれと換気のできない居住空間では、地上で使っていたような化学兵器を使うわけにはいかない。おまけに…我々は空間の移動のためには基本的に壁や床との接触が必要だが、奴らは…地上にいた時と同じように - いやそれ以上に楽に - 空間を移動できるのだ。羽根を拡げ、我々の生活のために部屋を満たしている、空気を利用して。
 しかも奴らは世代交代が速い。約一ヵ月で次の世代が誕生する。遺伝子の変化による環境への適応能力では奴らのほうがはるかに優れているのは明らかだ。繁殖力も異常に強い。おまけに…地球上とは異なり、奴らの天敵はこちらではほとんどいない。伝え聞いたところでは、宇宙開発の初期にある科学者がいくぶん自嘲気味にこうつぶやいたらしい。
「奴らにどれくらいの知能があるのか知らないが…時々、我々人類は奴らの版図を拡げるために働いているんじゃないかとすら思うよ…」
 俺の知っている限りでのもっとも悲惨な形での奴らとの遭遇の話は、宇宙服を着てのEVA(船外活動)の最中でのことだ。最初、頭の上のほうで何かが動いたと思ったら、奴は宇宙服の中でそいつの身体中を走り回ったらしい。当然、彼は通信機を通じて助けを呼んだ…というより悲鳴を上げた。しかし運の悪いことに、そいつは一人乗りの作業艇で母機からかなり離れた所にいたんだ。…誰にも何もできなかった。そうしている間にも奴は足、腕、腹はおろか顔の上までも走り回ったらしい。目の前にいるのにどうすることもできず、彼は悲鳴を上げつづけた…。しまいには奴はヘルメットの部分のわずかな空間で羽根まで拡げたそうだ。そして…そして、そいつは耐えきれずに宇宙服のヘルメットの部分の結合を解いてしまったんだそうだ…自分がどこにいるのかも忘れて。通信を聞いていたほうは、カサカサという音の後、断末魔の悲鳴と空気の抜ける音を聞いたらしい。
 その話を聞いてから、EVAの時には自分が着用する宇宙服を特に念入りにチェックするようになったのは言うまでもない…。

 俺は奴と戦うための武器を探した。昔よく奴らとの戦いに使われたらしい携帯型の化学兵器のような便利なものはここにはない(あっても使うわけにはいかないが)。物理的に叩きつぶして息の根を止めるよりほかに方法はない。少し考えて、俺は奴のいそうなあたりに気を配りながら、個人用の物品を入れてあるロッカーに近づいた。鍵はかかるようになっているが、鍵をかける習慣は誰にもない。端から二つ目の扉 - そこを利用している男はいま直についているから当分戻ってくる予定はない - を開けると、ロッカーの奥のネットに固定されている目当ての得物を見つけた。
 時代は変わっても…こういうのは変わらないようだ。俺が丸めて右手に構えたのは、そいつが持ち込んだ女性の写真で一杯の雑誌、だった。今じゃ携帯端末でブルーフィルムを簡単に見れる時代になったというのに、今でもこういうのが結構売れているらしい。連日の戦闘でストレスがたまるからかけっこう使い込んでいるのか、あちこちに破れも見える。まあ、タイタンに戻った時にでも新しいのを買ってやれば文句は言わないだろう。…ただし、無事タイタンに帰りついたとしての話だが。
「…戦闘開始」小声でつぶやいた俺は、左手で壁の取っかかりをつかみながら、ゆっくりと奴が潜んでいそうな所に近づいた。今は慣性航行中だから、自分の動きを常にコントロールしていようとすれば、かならずどこかの壁面に接していることが必要になる。…いまいましいことに、奴にはそんな苦労は必要ないのだが。
 そこには脱ぎ捨てられた衣類が雑然とネットに入れられ、ハーネスで固定されていた。ネットと壁の間の隙間が怪しい。俺は小さく深呼吸をして右手の丸めた雑誌を構え、左の膝でネットを軽く蹴飛ばした。
 …しかし、反応はなかった。もう一度蹴飛ばしてみようとした、その時
 カサリ…。
 右側からの小さな音に目をやると、いつのまにか奴はそちらの壁面に現れていた。全長10p近くある、思っていたよりも大物だ。しかし宇宙という微小重力環境に適応した結果なのか、今ではそんなに珍しくもないサイズだ。生理的な嫌悪を感じさせる、てらてらと鈍く光る茶色の背中。ゆっくりと左右に動く二本の触覚。
「しまった…」
 俺は壁を蹴り、そちらに向かった。空中で右手を構える。
「くらえ!」
 奴はそれを予期していたのかどうか、俺が空中に飛ぶと同時に羽根を拡げ、空中に飛び立った。羽根を拡げると、奴はさらに巨大に見える。あわてて右手を振ったが、あっさりとかわされてしまった。奴のいたあたりの壁で取っかかりをつかみ、首を回して奴を探そうとした…その時
 バサッ。
 奴がまともに顔面にぶつかった。空中で方向転換して、なんと、向かってきたらしい。奴の脚が顔面を引っかく感触があった。
「ひ!」たまらず俺は悲鳴を上げた。もっとも、助けを呼ぶつもりはない。いくらでかいとはいえ、奴を相手にしていて助けを呼んだとあっては物笑いの種になる。それに、艦橋まではいくつもの区画にわかれている。大声で叫んでも艦橋まで届かないだろう。
 俺は首を振って奴を払った。やみくもに右手の雑誌を振るが手応えはない。見ると奴は、俺が入ってきた入口と俺との間の空中に、こちらを向いて羽根を拡げて浮かんでいた。心なしか、奴の口のあたりが赤く染まっている。俺は右のこめかみのあたりに鋭い痛みを感じていた。
 俺は唐突に、奴の考え - いや、奴に知能などはないから、本能的な目的か - がわかったような気がした。
 奴は、いや奴らは…戦うつもりだ。宇宙の覇権をかけて、我々人類と。
 それはもちろん、俺のかいかぶりだったのかも知れない。しかし…基本的に、これまで相手にした奴は逃げるだけだった。反撃してきたとしても、それは苦しまぎれのものでしかなかった。それがどうやら目の前の奴は、俺に対して戦いを挑んでいるらしい。それは確かにわかった。
 ヘタには動けなかった。空中戦では羽根のある奴のほうが圧倒的に有利だ。
 奴がゆっくりとこちらに移動してきた。俺は身構えた。向かってきた所に一撃を加えてやる…。
 奴は急に速度を上げて、まっすぐに突っ込んできた。狙い済まして右手に構えた雑誌を振る…しかし手応えはない。
(速い!)
 バランスをくずした俺は左手を軸に回転した。その左手に奴が止まる。
「うわぁ」思わず左手を離してしまい、空中でじたばたと手をふる羽目になった。
 奴は姿勢の制御のできない俺の首筋にかみついた。
「ひ!」かみつかれた痛みよりも、首筋をひっかく脚の感触、バサバサと触る羽根の感触の生理的嫌悪から俺はまたしても悲鳴を上げた。首筋を叩こうとすると、奴は俺の背中に逃れた。
 ようやく手掛かりをつかんだ俺は背中を壁に押しつけた…が、奴は既に俺の背中にはいなかった。またしても奴は空中からこちらを見ている。今度はなかなか襲ってこない。

 奇妙なこう着状態。
 俺は…よもやこんな奴を相手にいいようにあしらわれるとは思ってもみなかった。
 どうみても、このままではやられてしまう。何かよい方法はないものか…。
 俺は祖父の話を思い出した。
「奴らはしぶといぞ。なかなか死なん。化学兵器に対してもどんどん耐性を持つようになった。わしが地球にいた頃には、叩きつぶすか、熱湯をかけるか、とかしてやっつけたもんだ…」
 …熱湯なんてここにはない。
「…面白いやっつけ方として、洗剤をかける、というのがある。洗剤をかけると奴らは呼吸できなくなって死ぬんだそうだ。うまくしないとそこら中洗剤だらけになってしまうのが難点だが」
 …洗剤もない。が、まてよ…そうか。
 俺は右手を構えて奴に向かって飛んだ。奴はひらりとかわしてみせた。俺はまっすぐに空中を進み、反対の壁にあるスイッチを押した。
 たちまち艦内に警報が鳴り響く。
「居住区画A-1に火災発生。消化剤散布」
 部屋の壁面のあちこちから少し泡まじりの消化剤が吹き出した。訓練以外で見るのは初めてだが、これはなかなかの見物だ。室内のあらゆる物に消化剤がかけられる…もちろん、奴にも。
 奴は消化剤の圧力に押されて俺のすぐ前の壁面に「落下」した。その上にさらに消化剤がかけられる…。
 俺はその様子をじっと見ていた…いや、奴を見失わないようにしていた。
「消化確認」もともと火災は発生していないのだから、消化剤の散布はすぐに終わった。警報が鳴り止み、あたりを静けさが支配した。
 しばらくして奴はゆっくりと羽根をとじようとしたが、その動きが途中で止まった。今は触覚だけがゆっくりと振られている。俺はすべって手掛かりを失わないように注意しながら奴に近づいた。湿った雑誌を振りかざし、とどめの一撃を加える。
 奴は中身を出してひしゃげ、触覚の動きがついに止まった。
「勝った…」
 しかし、これは艦長に大目玉をくらうこと間違いなし、のような気がする。いかに奴が脅威となることを説明したとしても。
 全ては祖父のおかげだ。宇宙船の艦内での火災では、効果的な消化のために、界面活性剤入りの消化剤が使われている。…そう、つまり洗剤をかけるのと同じことを奴に対して行ったわけだった。
 俺は祖父に感謝し、その言葉の続きを思い出した。…そして愕然とした。
「…奴を発見した時にはよくよく気をつけるんじゃぞ。奴は一匹見つけたらその三十倍はいると言われているからな…」

 第一次外惑星動乱中にさしたる理由もなく連絡の途絶えた仮装巡洋艦は無視できない数にのぼる。そのような艦艇の数は航空宇宙軍のそれとは比較にならないほど多く、戦況を大きく左右したことが知られている。その調査結果は第二次動乱時に戦訓として活用されたが、衛生面が必要以上に強調されている理由については当局は決して明かさなかった。明かしたくなかったのだ…との噂がまことしやかにささやかれた。




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