こーすけのどこまでいくんや〜

清水[オフィサーズクラブ・オーナー]宏祐

 (文中、漢字・送り仮名・用語の不統一や規則通りでないことが随所にありますが、殆どはわざとです。ってことは間違いもある)

大阪に住んでて(といっても実際には大阪から電車で40分もかかる兵庫県なんやけど)普段から大阪弁を喋ってる筈やのに、いざ大阪弁で書こうとすると、なんでなかなか出てけえへんねやろ。多分、私らの頭の中で書き言葉と話し言葉っちゅうのんが、別々の場所に入ってるんやないやろか。
 そういうたら、何で大阪の人間て自分のことを『私ら』とか云うて複数で云うんやろ。吉本新喜劇なんか見てたら「本人もこない言うてることやし、もう許してやったらどないでっか」とか云うて、だれのことかいなぁ思もてみてたら、言うてる本人のことやったりしてね。これは多分大阪人が自分のことを客観的に見ているから…、とかいうことやのうて、単に責任の所在を不明確にしてうやむやにしようという…、どっかの国の国会議員みたいな高等技術を駆使しとるんやないかしらん。
 そやけど私らも大阪弁喋ってるように見えるけど、実際は生まれてからずうっと宝塚やし、親も母親は天六(大阪市北区天神橋筋六丁目、ディープな大阪ではないけど、云うたら大阪の下町やろか)の出ぇで今時珍しいちゃんとした(?)大阪弁を喋れる人間やねんけど、父親の方はずっと宝塚の子ぉやし、わたしら、学校が神戸も西の果てみたいなとこにあったもんやさかい、大阪弁はともかく、神戸弁から播州弁、それに淡路弁みたいなんまで混じってるもんやさかい、今となっては自分が何語を喋ってるんか分からんようになってしもとるんやね。
 東京(だけやないねんけど、要するに大阪以外の地方)から来はって、よう分からんのんが『ほかす』っちゅう言葉らしいねん。これ標準語で言うたら『捨てる』やねんけど、昔、東京の人が大阪のデパートの食堂に勤めたんやけど、フォークかなんかの錆びたんが出てくる。先輩に「これ、どうしましょう」言うたら、先輩に「ああ、それほかしといて」って言われてんけど、どういう意味なんかさっぱり判らん。で、『保管しとく』いう意味かいなぁ思て引き出しにしもといたんやて。そのうち大掃除の日ぃになって見てみたら引き出しの中から錆びたスプーンやらフォークやらがごっそり。大笑いになったっちゅう話を聞いた事あるわ。
 逆に東京弁にあって大阪弁にないのんが『鼻濁音』っちゅうやっちゃ。大阪出身のアナウンサーがいっちゃん最初につまづくんが、これやってね。なんでも単語の真ん中にある『が』は鼻から抜けるように発音するんやて。鼻腔の共鳴を伴うって事なんやけどよう判らん。せやけど、単語の最初の『が』は普通の『が』やねんて。云うたら『大学』の『が』は鼻濁音やけど『学校』の『が』は普通っちゅう事かいな。一緒でええやんそんなん、似たようなもんやし…。
 ほんで、思うんやけど何で大阪弁いうたら語尾が伸びるんやろねぇ。特に一文字の単語『目』とか『手』とか、標準語で云うたら単に『め』『て』やねんけど、大阪弁やとこれが『めぇ』『てぇ』になる。なんや大阪弁がもっちゃりして聞こえるっちゅうのんも、このへんに原因があるんやろねぇ。 大阪弁はもっちゃりしてるっちゅうて今云うたけど、そうでもないときもあんねんで。喧嘩の時がそうやわな。喧嘩するときの大阪弁は、おっとろしいわなぁ。なんせ「われ、なんかしてけつかんじゃい、ボケ・カス・アホンダラ、いっぺん殺されたいんかぁ」やからね。これ、標準語で言うたら「君、何を言ってるんだい、馬鹿だなあ、殴っちゃいますよ」くらいの意味やろか。
 そやけど、これ、厳密にいうたら大阪弁ちゃいまんねん。これ、大阪でもかなり南部の方の河内弁やね。みな、関西弁いうたらなんでもみな大阪弁や思もたはるみたいやねんけど、さっきも私言うたように割とこまこうに違ごてますねん。ええ例が大阪弁と神戸弁で、この二つ、殆どおんなしやねんけど、細かいとこで違うんで…。一番分かりやすいんが神戸弁は語尾が伸びるとこやねん。大阪弁で例えば『○○しとる』とか『○○しよる』というのが、神戸弁やと『○○しとぉ』とか『○○しよぉ』になるわけやね。ただ、ニュアンスで云うと、『○○しよる』と『○○しよぉ』はちょっと微妙に違ごてて、大阪弁の『○○しよる』っていうのが単に『○○している』という意味なのに対して、神戸の『○○しよぉ』っちゅうんは、どっちかっていうと現在進行形の意味あいが強くなるみたいで、つまり『○○しつつある』やね。言うたら「港の灯りが点きよぅよ」と言われたら、「港の灯りが点いてますよ」やのうて「港の灯りが今点き始めてますよ」というような意味と言うたら近いんかなぁ。
 あと、例えば播州弁とかやったら大阪弁の『○○やぁ』とか『○○やがな』とか云うのが『○○じゃぁ』とか『○○じゃがなぁ』になったりします。そやから、神戸弁・播州弁云うたらほんまの(というか船場の)大阪弁に比べたらえらいきたなく聞こえるんはしゃぁないわね。
人間国宝 話は替わるけど『ぼっかぶり』って知ってまっか。うちの母親が云うてた(というか、今でも云うてるんやけど)言葉で、まあ標準語で言うたら『ゴキブリ』の事やねんけど、その中でも大きいて真っ黒の奴、あれを『ぼっかぶり』云うてましたわ。まあ、考えてみたら『ごきぶり』っちゅうのんは『御器かぶり(齧り)』からの転訛やそうで『御器かぶり』→『ごきかぶり』→『ごきぶり』となったんやとか…。それやったら『ぼっかぶり』も語源はおんなじで『御器かぶり』→『ごきかぶり』→『ごっかぶり』→『ぼっかぶり』という風に変わってきたもんやないかと思うてますねんけどね、私は…。
 そういや、全然聴いたことのない大阪弁とかいうのもあって、僕の場合は例えば『けんげしゃ』っちゅうのんがありますな。桂米朝師匠の落語に『けんげしゃ茶屋』っちゅうのんがあって、ようするに「げんを気にする人」の事なんやけど、この場合の『げん』というのはつまり『縁起』とか『迷信』とかの『げん』やわね。よう『げん』がええとか悪いとか言いまっしゃろ。茶柱が立ったから『げん』がええとかね…。もっとも、この『けんげしゃ』っちゅう言葉、米朝師匠自身も落語のマクラで「うちのお婆んが、若い頃にそう言う事を言うてる人があった」らしいというような事を云うたはりますんで、もうずいぶん前から既にそういう事を云う人もおらんようになっとったんでしょうなぁ。けど、いっぺん「あのお人は『けんげしゃ』やでなぁ」てな事を普通の会話の中で聞いてみたいなぁと思うのは、私だけかしらん。
 さっきの『御器かぶり』やけど『かぶる』っちゅうのんも立派な大阪弁やないかしらん。『齧る』に近い意味やねんけど、もうちょっと大口開けて食べてるみたいなニュアンスやね。これも落語に『子猫』っちゅう噺があって、大店に新しく勤めた女中さん、よう働くんやけど夜中に店を抜け出しては怪しい振る舞いをしよる。不審に思った主人と番頭がこの女中の荷物をさぐってみると着物やなんかの下から血をしたたらせた猫の生皮が出てくる。問い詰めると、実は親が猟師で、その殺生の報いで夜な夜な子猫を獲っては皮を剥ぎ肉を喰らっておったとの事。それにしてもこんなによう働いてくれるお前が…と。この噺のサゲが「ああ、猫かぶっとったんや」っていうもんやねんけど、これ、もちろん『猫被ってた』と掛けたあんねんけど、「齧る」という意味の『かぶってた』とも掛かってるよねぇ。
 さっき、ちょっと神戸弁と播州弁の話したんやけど、関西人やったら絶対間違わへんねやけど、よその人やったら意外に間違いそうなんが京都弁やろか。
 京都弁は語尾に『どす』が付くだけで言葉自体に大きな違いがないように思うところが間違われやすいんやろけど、実は『どす』は女言葉で、男の人は使わへんねん。もっとも最近は観光タクシーかなんかの雰囲気作りというか、なんかで、地方出身者相手(京都人的には京都以外の全ての地方を含む)には『どす』言葉を使う男も増えてるとか…。京都で男の人に『どす』付きで喋られたら田舎もん(勿論東京も含めて)扱いされたと思って間違いないんやろかねぇ。
 あと、ちょっと船場(ふなばちゃいまっせ、せんばでっせ)言葉とかの事も書いたけど、船場言葉は商人の言葉で、云うたら標準のっちゅうか、まあいちばんきれいな大阪弁やろと思うんやけど、ただ、大阪商人はえげつないとか、大阪商人のど根性とか云うのは間違うてます。大阪でも商才があって成功したんはみんな近江商人やね。けど、言葉だけはどうやらもともとの大阪弁の商人言葉みたいですな。
 また話は変わるけど、大阪弁では『違う』っちゅうことを『ちゃう』いいますわな。標準語では「あれはチャウチャウ(という種類の犬)ではないのではありませんか」と言うのを、大阪弁では「あれ、ちゃうちゃうちゃうんちゃう」というギャグがありましたけど、あれギャグちゃいまっせ。ほんまでっせ。
あと、標準語では『七』『質』っていう字、なんて読みます。まあ『しち』やわねぇ。大阪では、これ『ひち』ですわ。質屋さんの店先行ってみなはれ、大きな看板かかってまっせ『ひち』いうて…。七輪の炭火で焼肉を食べさせる店があって、ここの店にも大きな看板かかってますわ『ひちりん焼肉』
 もっとも、ほんまは『七輪』は大阪弁では『かんてき』っちゅうんやけどね。『七輪』の語源は、たった七厘分の炭で湯が沸くというとこかららしいんやけど、『かんてき』っちゅうんは『癇癪持ち』のことを悪口で『かんぺき』と言うたのが訛って『かんてき』になったとか…。よう、先生のことを『セン公』とか『センテキ』とか言いますわな。要するに関東では、火を熾す金額の事から名前が付いたのに対して大阪では、火が熾ってる状態からのイメージで名前が付いてるわけやね。なんや逆のような気がせんでもないんやけど…。
なんでやねん けど、東京弁の方が『ひち』と『しち』の取り違えは多い筈なんで、よう考えたら『七』『質』の読み方は『ひち』の方が正しいんちゃいまっか。
 そう云うたら、最近あんまり聞かんようになった大阪弁に『ほたえる』っちゅうのんがありますなぁ。私、子供の頃しょっちゅう母親に『そんなほたえてばっかりおったら、こけて怪我すんでぇ』言われてました。ほんで、しょっちゅうこけて怪我してましたわ。これ、標準語で言うたら「ふざけてあばれる」っちゅうような意味やねんけど、うちの子二人は毎日毎晩『ほたえまくって』るんで、しょっちゅう怒られてます。これも、やっぱし『ふざけるな』とか『あばれるな』より『ほたえぇな』の方がなんとなくほっこりしまへんか。
 さっき京都弁の話書きましたけど、『ほっこり』で思い出したわ。浜村(ありがとう)淳がよう『はんなり』っちゅう言葉を使いよるんやけど、どうも浜村淳が使うてたり、私らが思てたりする『ほっとする』とか『いやし系』とかいう意味と本来の意味とは違うてるっちゅうて聞いた事あるような気がするんやけど、誰か京都に住んでる人教えてもらえまへんか。
 あ、そうや。もひとつ思い出した。ちょっと前に国語審議会かなんかで割と問題になった『ら抜き言葉』 あれって、日本語の乱れやないやろぅ。あれはれっきとした大阪弁やで。たぶん漫才ブームかなんかの時にマスメディアを通じて全国に広まったもんやねんやろけど…。大阪弁では『れる』と『られる』の間には厳然とした用法の違いがあんねんで。例えば標準語というか、学校では『食べる』という動詞の可能形(国語的には終止形かな)は『食べられる』やし、受動態(受動形・これは国語では連体形になるんかなぁ)も『食べられる』になってるらしいんやけど、大阪弁というか『ら抜き言葉』では『食べる』の可能形は『食べれる』になるわな。これを『食べられる』と表現すると、受け身の『(何者かに)食べられてしまう』という意味になってしまいますわな。ちなみに、尊敬語でいうても、学校では多分『食べられる』と教えるんやないかなぁ。この場合、普通に尊敬語で言うなら『お食べになる』やし、普通に考えたら、こういう表現はあんまし使わないんやないか。こういう場合、一般的に使うとしたら『召し上がる』または『お召し上がりになる』やろなぁ。ただ、大阪弁にはとっても便利な言葉があって、『しはる』っちゅうんを語尾に付けたらそれなりに尊敬語に聞こえるんやわ。この場合やったら『食べはる』やんか。ほかにも『行きはる』『見はる』『聞きはる』なんか、なんでもありやけど、もひとつ尊敬の度合いが少ないような気がするのはわいだけかしらん。この辺、国語教育の現場にいたはる人らはどう考えたはるんか、いっぺん聞いてみたいんは私らだけとちゃうんちゃう。
 この辺、詳しい人教えてくれへん。

 

 編集の都合で隙間が出来たため、余分な解説を書くであろう。
 大阪弁にもいろいろあると本文中にあるが、本当にいろいろある。たぶん、大阪府下、市町村の区切りぐらいで言葉が違ったりする。イントネーションや語尾だけでなく、言葉が違う事すらあるのだ。たとえば解説者は岸和田で生れて住んでいたが、14の時に少し離れた泉南郡に引っ越した。ジャンケンで何かを決めようとした時に「ほいっちんちょ」とかけ声をかけたら、回りの人間がキョトンとした顔をしていたものだ。清原も多分このようなギャップで性格がゆがんでしまったのかもしれない。素直に阪神に来ていれば阪神電鉄東岸和田駅が出来たものを。
 また、河内方面では語尾はほとんど「け」で終る。「飯食うけ」「どこ行こけ?」「フレンドリー行こけ」といった感じだ。「け」で終りにくい場合は「やんけ」を付ければ大抵の場合大丈夫だ。何が大丈夫なのか知らんけど。
 話が前後するが、大阪弁使いでも口語と文語は区別してしまうという話だけれども、これも河内方面では事情が違ってくる。私が以前勤めていた会社にいた岸和田在住のだんぢり社員は、仕事の報告書に「ほんで、この場合には圧力が足らんかった。せやから・・・」などと書いていた。染み着き具合が常人とは違うのであろうが、こういう人は河内方面には多い。
 あと、会話内容についても関西は他の地域との違いが多い。もっとも顕著なのは、相槌や返答に使われる「うそっ。」であろう。これの使い方は非常に幅広く、
「お前、口に米粒ついてるで」
「うそっ」
という、他の地域なら「ほんと?」と聞き返すようなところはすべてこう答える。他にも「あ、もう阪神戦はじまってるで」
「うそっ」
全然、嘘とか本当とか関係ないけれども、こう答えてしまうのだ。
「おおさむ。風邪ひいたかな」
「うそっ」
どうか関西圏以外の人は、関西人に「うそっ」って答えられたとしても「本当だよ」とか言い返さないで欲しい。嘘だなんて思ってないから。




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