桜雪夜のミステリー

橋本[猫枕]大輔

登場人物
七不思霞美 ‥‥ アパートさくら荘管理人
中井神奈 ‥‥ 二号室住人・笠原の同僚
猫枕甲介 ‥‥ 三号室住人・笠原の師匠
乾三四郎 ‥‥ 四号室住人・編集者
一本橋大介 ‥‥ 五号室住人・SF作家
神楽坂平吉 ‥‥ 警部補
久遠寺耕作 ‥‥ 刑事巡査
笠原弘 ‥‥ 故人・科学者

第一章 嵐の山荘に、予定外の訪問者が現れる

 久遠寺は文字通り覆面車に飛び込むと素早くドアを閉じた。身体は凍えそうに冷えきっていた。道路脇の自販機でホットの缶コーヒーを二本買うあいだ、ずっと身を噛む寒さに耐えていた。なのに、久遠寺が期待していた暖気はドアを開けたせいで、根こそぎ車外へ吸い出されていた。重ね着した衣服が冷えきっているせいで、体感温度は外と変わらなかった。熱いはずの缶コーヒーを掴んでいるはずだが、手袋の中の手の感覚はなくなっていた。一本を先輩の神楽坂に手渡そうとして、久遠寺は、飛んできた手榴弾を思わず受け取ってしまった学徒動員兵のように、悲鳴を上げてそれを放り出した。缶コーヒーはすでに凍っていた。
 助手席で凍りついてる神楽坂警部はこの街で三十年以上も勤務する古参の刑事で、この辺で起こることに何一つ目新しいことなどないはずだった。ところがその彼の目にも、この街で突然一体何が始まったのかを知る者は皆無のように見える。ここ一週間というもの、ずっとスターリングラードとでも張り合えそうな寒さが続いているのだ。一応はイヴの夜なのだからホワイトクリスマスには違いないが、ありがたみなんぞカケラもない。
 『チェリー、こちら東佐倉町一丁目を哨戒中のサクラ 。メイデイ、メイデイ。至急応援を乞う』
 『サクラ 、こちらチェリー。そちらの状況を知らせてくれ』
 『了解。あー、三分前にエンジンが停止した。再始動不能。ドアが凍りついていて脱出できない』
 『トクユキ、今のを受信したか?』
 『こちら〈特雪〉。受信した。サクラ の救助が終わり次第そっちに回る』
 『トクユキ、こちらチェリー。了解した。サクラ 、聞こえたか?』
 『聞いた。早く来てくれ』
 『すまない、サクラ 、がんばってくれ』
 無線機から聞こえてくる声は佐倉署の同僚のものだった。ノイズが多くてよく聞こえないが、仮に聞き取ったところで気が滅入るだけだった。神楽坂は無線機に手を伸ばしながら久遠寺の顔色を窺った。久遠寺は学校出たての若い刑事で体力もあったが、今やその顔は疲れ果て、睫や髪の毛には吐く息の水分が凍りついて、白い。この気温では、じっとしていても体力が回復するより早く疲労していく。
 「くそ」神楽坂は手に取ったマイクに向かってつぶやいた。「チェリー、こちら西佐倉町佐倉二丁目で張り込み中のサクラ 。寒くてかなわん。任務続行不能。帰投する」
 久遠寺は神楽坂がそんな弱音を吐くのを初めて聞いて、目を丸くした。男の一生は、やせ我慢の一生だ、というのが口癖の昔気質の老刑事である。
 妙に静かだった。頼りなげに響いてくるエンジンの音も、過負荷で悲鳴を上げているエアコンの音も、雪の中に溶け込んでしまっていた。しかし、体力を失いつつある荒い息づかいは、久遠寺に、自分自身と、そして神楽坂が生身の人間であることを思い出させていた。
 『サクラ 、こちらチェリー』二人が無線機を疑い始めた頃になって、佐倉署の発令所が応答した。『了解した。動けるうちに帰ってこい』
 「久遠寺、お許しが出た。とっとと帰るぞ」
 神楽坂はマイクを戻すとバックレストにもたれこんだ。目を閉じて、そのまま死んだように動かない。しゃべるだけで体力を消耗するのだ。久遠寺は返事すらしない。
 久遠寺の手袋をした左手がギアをローに押し込み、左足でクラッチをつなぎかけて、久遠寺はクルマが動かないことに気づいた。タイヤについた雪が路面に凍りついたらしい。そのままクラッチをつないでいたらエンストしていた。そうなったら再始動は不可能だろう。久遠寺は何も言わず覆面車の外に出て、手にしたモンキーレンチでタイヤの雪をこそぎ落としてまわった。谷甲州でしか読んだことのなかった世界が、そこにあった。久遠寺は、あの男たちの気持ちが初めて分かったような気さえした。
 作業を終え、覆面車に乗り込む。すでに覆面車のウィンドウは霜に覆われ、足下から、襟から、背中から、凍りついている座席が体力を吸い取っていく。久遠寺はアクセルペダルを踏み込んだ。覆面車が震え、かすかに動きだし、そして止まった。点火系の電力は大半が失われていた。久遠寺はヒーターその他、切れるものはすべて切り、電力の確保を試みた。
 「動いて……くれ、頼む」
 サクラ が身震いし、ややあって動き出した。信号は赤だったが気にしなかった。どうせ彼らのほかに走っているクルマはいない。止まっているクルマのほとんどは、始動不能で放棄されたものだ。
 「だめだ」トランスミッションが故障したのか大揺れに揺れる車内で久遠寺が悲鳴を上げた。「とても署まで保たない」
 「さくら荘へ行こう、久遠寺」神楽坂が言った。「あそこで、霞美ちゃんの熱いお茶を一杯、ってのは?」
 「異議なし!」と、久遠寺。「一丁目までなら何とか、保たせて見せますよ」
 サクラ は煙をもうもうと噴き上げ、タイヤ選択を失敗したユトボの森のラリー車のように、それでも動き続けた。彼らの居た、二丁目からならさくら荘まではすぐだった。久遠寺は吹き上がりの極端に悪いエンジンをなだめすかし、何とか覆面車をさくら荘へ向けるので手一杯だった。最悪の路面状態のせいで簡単にテイルスライドに陥る。慣性を失ったら最期だった。
 さくら荘が視界に入ったのは久遠寺が、サクラ を七回目のテイルスライドから立て直した時だった。ホイールスピンを起こしかけてぞっとしたが、何とか後輪は凍った路面を噛んでくれた。さくら荘の前まで来たことによる、その安心感が久遠寺の心を満たした。それが油断だった。覆面車を止めるつもりでアクセルペダルから足をはなした瞬間に、エンジンは沈黙した。サクラ はずるずると滑り、フェンダーを電柱にぶつけて停止した。
 「チェリー、こちらサクラ 」と、神楽坂。「発令所聞こえるか?」
 応答どころかノイズ一つ入らない。無線のパイロットランプも灯っていない。この寒さでバッテリーが死んだらしい。もう再始動は不可能だった。――まもなく不凍液も凍るだろう。
 「久遠寺よ、こんなことは言いたくないが」と神楽坂。「どうやらこいつを捨てなきゃならんらしい」
 「あとでこいつには、お湯でもかけてやりましょう」
 今となってはその言葉が、ここまでがんばってくれたサクラ への最高の賛辞に聞こえる。久遠寺はラッチに手をかけて、それを引いた。神楽坂もそうした。渾身の力を込めて押すと、氷の砕けるような音とともにドアがひらいた。
 とたんに猛烈な吹雪が車内に吹き込んできた。寒さへの感覚はもうなかった。道路に降り立った神楽坂が久遠寺に向かって叫ぶ。「走れ!」
 久遠寺は言われなくてもそうした。神楽坂も続いた。もう気分は擱坐した雪上車を放棄する越冬隊員か、ロシア戦線のドイツ機甲師団だった。
 さくら荘は築半世紀ほどの、木造二階のアパートだ。二人がここに初めて訪れたのは三週間ほど前、一号室住人の笠原弘が電車に飛び込み自殺をした事件を担当したときだった。その折り、久遠寺が管理人の七不思霞美と幼なじみであることが判って、狂喜したものだった。以来ここへは何度か管理人さんのいれてくれるお茶をすすりに足を運んでいるが、ここんとこ忙しいせいでしばらく足が遠のいていた。
 晴れてさえいれば、竹箒で庭を掃く管理人さんのエプロン姿を拝むことの出来る、植え込みのある前庭の積雪1メートルをラッセルして、二人は共同の玄関にたどり着いた。おそらくこの暴力的な寒波によるものだろう、ポーチに下がる大きなまるい電球は無惨にも割れていた。雪に半ば埋もれ、明かり一つ灯っていないさくら荘は廃屋のようで、二人は言い様のない不安にかられて顔を見合わせた。人の気配がまるでないのだ。こんな表情をしたさくら荘をみるのは、初めてだった。
 玄関のドアに張りついた雪を手早くかき落として、久遠寺はノブを引いた。鍵は掛かっていなかった。二人はほうほうの体で中に入り、そのまま玄関口に倒れ込んだ。誰もいない。出迎えもない。さくら荘は二億年前に海底に沈んだ古代都市のように冷えきって、静まり返っていた。
 いやな予感がした。久遠寺が不安げに首を巡らして廊下の奥をのぞき込んだ。一、二、三号室を擁する一階の廊下は、一号室の向こうで右に折れている。管理人室はその先だった。そのどこにも明かりのついている様子がない。あるのは吹き荒ぶ雪風とガタガタと震える窓ガラス、そして、この古いボロアパートの軋む音だけだ。
 予感――。
 そう、そしてそれはすぐに現実のものとなった。
 最初にそのニオイを嗅ぎつけたのは、神楽坂だった。落ち着きをなくしてもぞもぞしている久遠寺を手で制して、神楽坂は虚空を睨みつけ、鼻をすすり上げた。それはまごうことなき、血のニオイだった。
 遅れてそれに気づいた久遠寺がビクッと反応して、訴えかけるような目を神楽坂に向けた。
 神楽坂が小さくうなずいて、つぶやいた。「血だ……。かなりの量だぞ、これは」
 久遠寺は銃を抜くと、銃把を両手で握ってゆっくりと立ち上がる。そして、底冷えのする空気の中を、管理人室へ向けて歩み始めた。

第二章 乾三四郎の手記(前篇)

 一九九五年十二月十八日。
 私は今、さくら荘四号室の押し入れの中でこの手記を綴っている。
 時間はあまりない。
 これは、嵐の山荘にやがて訪れるであろう騎兵隊、つまり君たちのために残された物語だ。
 さくら荘を襲った未曾有の凶悪犯罪の一刻も早い解決を願って、この物語を始めよう。

 笠原弘が電車に轢断されたのは、今を遡ること二週間前、十二月四日午前五時一○分一九秒のことだった。それは間違いない。なぜなら、かく言う私がそれを目撃したのだから。
 当時私は日本一遅筆で逃亡癖のある、売れ行きのあまり良くないSF作家・一本橋大介の担当編集者であった。いや、今でもそうなのだが、彼が死んでしまった今となっては、それを名乗ることに何ら意味はない気がする。まあ、そのことはさておいて、今は話を進めよう。
 その日、私は人外協出版が抱える文芸誌『公衆衛生』の納豆特集の取材で、水戸へ出張していた。仕事が終わったのは十二月四日の丑三つ時で、取材班の連中はほとんどが投宿したが、私はそうする訳にはいかなかった。それというのも一本橋が『公衆衛生』に連載中のSF小説『桜雪夜のミステリー』の原稿を、四日の昼までに印刷所へ入れないと、来月号に穴があくからだった。私は徹夜続きの疲労を押して夜通し車を飛ばし、朝方になってようやく佐倉市へ帰り着いた。
 さくら荘のある西佐倉に入るのに、東佐倉で国道を降りてから上下左右にうねうねとくねる県道を走ることになる。その途中に私鉄の踏切が一ヶ所あって、これは東佐倉駅と西佐倉駅のほぼ中間にあたる。私が笠原の死を目撃したのは、不運にも上り電車の通過で踏切に引っかかった時だった。
 辺りに広がるのは完璧なまでの田/畑ハイブリッド田園風景である。陽はすでに登っていて、視界はすこぶる良い。近づいてくる電車の警笛とフルブレーキングの騒音は、私に目前で何が進行しつつあるかを気づかせるには充分だった。私のいる踏切から少し離れた線路の上――
 そう、線路上に人が横たわっていたのだ。
 全ては手遅れで、電車は彼を轢断した。私には関わり合いになる余裕なんぞなかったが、すでに私の車は目撃されていることだろうし、逃げ出したりしたらそれこそ要らぬ災厄を我が身に呼び込むことになる。私はすっかり観念して、目撃者の一人、そして自殺者の友人として、警察にたっぷり絞られることになった。つけくわえておくと、原稿は落ちた。
 笠原の身辺からは遺書のようなものは一切発見されなかった。笠原は近くにある大根大学に勤める研究者であり、くそまじめな理系の――平たく言えば、女に縁のないロリコンのヲタクだった(断言)。さくら荘住人のそんな証言もあってか、まあ失恋でもしたのだろうという辺りに警察の見解は落ち着き、おざなりな事情聴取のみで笠原は自殺と断定された。この事件を担当した佐倉署の刑事のうち、若い方――久遠寺とかいう刑事は後にさくら荘管理人の霞美さんと幼なじみであることが判明して大騒ぎになったものだ。
 葬儀の後、さくら荘は二人の住人を新しく迎えることになる。中井神奈女史と猫枕甲介氏。なんでも二人は笠原の研究室の同僚で、猫枕に至っては笠原の師匠と紹介された。なるほど言われてみれば、笠原に輪をかけて危ない――そう、まさにマッドサイエンティストと呼ぶに相応しい風体だった。カナちゃんは、かわいい。実にかわいい。管理人さんよりいくつか年上のはずだが小柄で童顔なせいで、高校生くらいに見える。困った。きれいな管理人さんとはまた違った、その対極にいる人だ。う〜む。どちらも捨てがたい。
 ええい、話を元に戻そう。この二人は笠原の葬儀に来て、この空き部屋だらけのボロアパートを一目見て気に入ったそうだ。まあ、少なくとも猫枕が何を気に入ったのかは言うに及ばず、だ。
 思えばそれまでさくら荘は、微妙なバランスにより支えられていた。管理人さんを中心として、一本橋、笠原、そして私の間で日々繰り広げられている水面下の攻防である。幸か不幸か、未だ実力行使に出たものは現れていない。彼女を悲しませるようなことをしてはいけないという、なにやら強迫観念のようなリミッターに、三人とも縛られているせいだ。なにしろ管理人さんと面と向かっているだけで、自分が『大きくなったら先生をお嫁さんにする』と言って憚らない幼稚園児にでもなったような、そんな気分にさせられてしまう。管理人さんはそんな女性だった。
 笠原の死、久遠寺の突然の乱入、そして猫枕とカナちゃんの出現により、そのバランスオブパワーは脆くも崩壊した。特にカナちゃんの登場がその後もたらす災厄は、管理人さんを死に、そしてさくら荘を壊滅へと追いやることになる。
 ことの起こりは、空いている六号室で開かれた、ささやかな新住人歓迎会の席上で、カナちゃんがそっと私に漏らした一言だった。
 彼女は言った。
 『笠原くんはね、殺されたのよ』
 まさか、と私は笑った。何より私が、そうでないことを一番よく知っているのだから。
 しかし、彼女は自説を曲げなかった。
 私はこのとき悟った。彼女がここに来たのは、探偵ごっこをやるためなのだと。

第三章 騎兵隊は、唯一の生存者を救出する

 神楽坂がひらいた管理人室の扉から中に躍り込んだ久遠寺は、両手で保持したニューナンブの照星ごしに、冷えきった室内を素早く見渡した。
 そこが、何度かお茶を飲みに訪れたことのある同じ部屋だとは、久遠寺にはどうしても信じられなかった。
 管理人さんのいない築半世紀の下宿屋の一室は、その本来の姿であろう廃屋に立ち返ったかのごとく、荒廃した素顔を剥き出し、そのどこを調べても管理人さんの存在を見いだせないのは明らかだった。
 崩壊した本棚、食器棚、箪笥。そこから剥離した構造材、ぶちまけた内蔵物。粉々に砕け散った姿見、ガラス、陶器。捻れ、押しつぶされた書物。爆砕したCRT。潰れたコタツ。部屋の方々に転がるひしゃげた電気機器。そして、かつては管理人さんの趣味の良さを表していたインテリアの残滓。
 そして、血。緋色に染める、おびただしい量の血液。鼻をつく、鉄臭いその匂い。
 「うわあああああああああああああああああああああああああっ!」
 制御を失った久遠寺がサイレンのように絶叫し、肺の空気を使い切って両腕で自分の身体を抱きしめ、それから床へ崩れ落ちた。
 後ろで、無言でそれを見守っていた神楽坂は、久遠寺を襲った恐慌が一段落ついたとみるや、襟首捻り上げて彼を立たせ、壁に押しつけた。
 「久遠寺、いいかよく聞け。嬢ちゃんはまだ、死んだと決まった訳じゃない」
 久遠寺が目をひらいた。
 「わかったか? わかったらとっとと探せ!」
 そう言って、神楽坂は手を離した。解き放たれた久遠寺が、すぐさま大々的な捜索を開始する。その背中を眺めながら、神楽坂はぼそりと一言つけ加えた。
 「それからな、久遠寺。……なるべく現場は、保存してな」

 結局、管理人さんは発見されなかった。
 さんざ引っかき回した挙げ句、そういう結論にたどり着かざるを得なかった久遠寺をなだめすかして、神楽坂は管理人室を出た。
 「ほかの部屋にいる可能性だってある」と、神楽坂。「ついてこい」
 神楽坂がスイッチを見つけて明かりをつけると、廊下も血だらけであることが判明した。少なくとも三人、血を滴らせてこの廊下を行き来している。
 なんてこったと呟いて、神楽坂は眼を閉じ髪をかきあげた。そんなもの最初から目に入っていない久遠寺が、立ち止まった神楽坂を避けて先行し、一号室、かつて笠原弘が住んでいた部屋の扉を開けた。
 一見したところ異変が起きた様子はなかった。三週間前の葬儀の時からこの部屋は、何一つ変わってないように見える。これといった身寄りのなかった笠原の遺品は、彼が生きていた当時そのままの姿で、主人の帰りを待ち続けていた。
 部屋に入った久遠寺が、開けられるものを全部開けて、その中を覗き込んでいる。しばらくして戸口を振り返った久遠寺が、あきらめ顔で両手を広げた。――誰もいない。
 二人は一号室を出て、二号室へ向かった。
 そして、そこで、二号室住人・中井神奈の死体を発見した。

 久遠寺があわてて目をそらした。
 神楽坂は思わず目を閉じ、そしてゆっくり開いた。
 鋭利な刃物で切り刻まれた彼女の死体は、それほどまでに悲惨だった。
 久遠寺が、廊下でうずくまって荒い息をついていた。神楽坂は喉元まであがってくる胃の腑を抑え込んで、部屋に足を踏み入れた。
 壁際のベッドに倒れ込むようにして、血に染まった白衣を着た彼女は動かなくなっていた。おなかにまだ大振りのナイフのようなものが突き刺さっている。おおかた米軍放出品か、登山用のありふれたものだ。あの刺し方だと、相当の返り血を浴びることになるのを神楽坂は知っていた。身体各所の傷、血の飛び方から推して、ここですさまじい格闘があったらしい。
 死亡推定時刻が知りたかったが、神楽坂には見当もつかなかった。こんな時ヤマさんがいてくれたら、と彼はぼやいた。ここ一週間続いている寒波のせいで、死体が痛んでいる様子がないのがせめてもの慰めだった。
 神楽坂は部屋を見回した。
 『それ』を除けば殺風景な部屋だった。彼女がここに引っ越して三週間ほどの筈だが、生活臭はほとんどなかった。荷物もあまり持ち込んではおらず、彼女がここに本腰を据えていたとは思えなかった。研究に必要なもののほとんどを研究室の方に置いているのだろう、神楽坂はそう考えて納得した。
 誰がこんなことを? と神楽坂は自問しかけて、やめた。中途半端な情報から発した推理は、決して最終章では披露されないと、かの深井夕美も言っている。それは却ってよけいな先入観を生むことになり、事件を客観的に眺めることが出来なくなる。今はとりあえず、このアパートがどういう状況にあるのか、それを調べる方が先だった。――まず、全ての手札を並べよう。考えるのはその後だ。
 最期に一瞥をくれてから、神楽坂は部屋を出た。まだうずくまってる久遠寺の肩をぽんと叩いてから、三号室へ向かう。

 三号室には誰もいなかった。死体もないし、血痕もなかった。部屋の主である猫枕甲介の姿もない。
 ただ、薄暗い部屋の奥、机の上に並べられた大量のガラス瓶が目を引いた。試験管やフラスコ、試薬瓶。細々とした実験器具、妖しげな装置。神楽坂はいつか読んだウェルズの『透明人間』、いや、子供の頃に観た怪獣映画に出てくるマッドサイエンティストの地下実験室を連想した。
 部屋に入ると化学実験室特有の臭気が鼻をついて、神楽坂は顔をしかめた。所狭しと並べられた実験設備のせいで、見るべき場所はあまりない。申し訳程度に薬品棚をひらいてみたが、ヤバそーな薬品が並んでいるだけで、血塗れになった殺人犯人なんぞ隠れてはいなかった。
 三号室を出た神楽坂は、何とか立ち直った久遠寺を前に立てて二階へ上がった。階段を上がると左側に共同の便所がある。久遠寺が覗き込んでみたが何ら異常はない。二人はその足で、空き部屋の六号室へ向かった。

 六号室の扉は何故か凍りついていた。屈み込んで、ちょうつがいの辺りを調べていた久遠寺が匙を投げ、扉を蹴破る、と手信号で示した。二人とももう喋るのも億劫なほど疲れ切っていた。神楽坂がうなずいて後ろに下がると、久遠寺が銃を抜いて扉を蹴飛ばした。
 二人がそこで見たものを忘れることは、一生出来ないだろう。
 部屋の奥で、もうもうと吹きあがる水蒸気の中に浮かび上がった、氷漬けの――七不思霞美の姿を。
 「管理人さん!」
 フラフラと夢遊病者のような足取りで、久遠寺が零下二七○度近い空気の中へと歩いていく。
 「馬鹿者! 戻れ久遠寺!」神楽坂が後ろから久遠寺を羽交い締めにして叫ぶ。
 「うるさいっ」久遠寺が神楽坂を振り払った。吹っ飛んだ神楽坂は壁に背中を打ちつける。その衝撃で壁に張りついていた氷が剥がれ、粉々になって降りそそいだ。そこに氷漬けの、背を壁にもたせかけ、両足を投げ出すように座り込んだ、猫枕甲介の姿があった。
 「あああああああああああああああああああああああああああっ!」
 久遠寺が咆吼を上げ、管理人さんを封じ込んだ氷壁を殴りつけた。半狂乱になって、殴り続けた。手袋がボロボロになっても、彼はそれを止めなかった。神楽坂が飛びかかって久遠寺をそこから引き剥がした。廊下へ押し出して、素早く扉を閉じる。部屋を出るのが後すこしでも遅かったら、二人とも生きてはいなかっただろう。神楽坂は思わず床へ倒れ込み、そしてすぐに体を起こした。横になったら、そのまま眠ってしまいそうで怖かった。熟練した山屋は、冬山で遭難したら下手に動き回らず、体力のあるうちに眠ってしまうと云うが、冗談ではなかった。
 「泣くな、久遠寺。涙まで凍っちまうぞ」
 神楽坂は久遠寺を立たせ、首根っこ掴んで歩かせた。何でもいい。体を動かしていないとここで死んでしまう。神楽坂は五号室の扉をひらき、そこに血塗れで横たわる一本橋大介の死体を発見して後ずさり、四号室に飛び込んだ。
 そこには死体はなかった。
 「一体、なんだってんだ、なにが、どうなって、るんだ? あの、連中は、なん、だったんだ? くそっ、くそっ、くそったれ」
 神楽坂は畳に大の字に寝ころんで、悪態をついた。もう起きあがる気はなかった。久遠寺がその脇で崩れ込むように膝をつき、両手をついた。「一体、何が、起こったって、言うんです?」久遠寺が荒い息を吐きながらきく。
 「俺が知るかあ」と、神楽坂。「考えたくも、ない」
 「ああっ管理人さんっ」と、久遠寺。「なんで、こんな」
 その時、久遠寺へ目をやろうとした神楽坂が、視界の隅の何かに気づいた。
 「おい」神楽坂は押し入れのフスマ、血のついた手で開けたような跡があるそれを指さした。「見ろ」
 久遠寺がそれを見、のろのろと立ち上がった。荒い息をつきながら、銃を構える。左手をフスマにかけて、一気に引き開けた。
 布団の隙間から、乾いた血でガビガビの手が突き出ている。久遠寺は布団をめくった。
 「誰だ?」と、神楽坂。「乾か?」
 「息がある」胸に耳を押しつけ、鼓動を聞き取った久遠寺が言った。「生きてるぞ!」
 飛来するヘリコプターのローター音が聞こえてきたのは、その時だ。
 久遠寺が神楽坂の顔を見る。
 「迎えのヘリだ」背広の内ポケットから携帯電話を取り出して、神楽坂が答えた。「こんなものが普及しちまって、探偵小説屋が泣いてるだろーな」

第四章 乾三四郎の手記(後篇)

 カナちゃんは笠原が殺されたとうるさく言い続け、数日が過ぎた。
 そして、十二月十八日の今日、――それは起きたのだった。
 上空で、血を流したような夕焼けの中を、ネバーランド発、アンカレッジ経由成田行きの旅客機が旋回していた。
 『ひゅーううん。おっさかーな、おっさかーな、おっさかーなー! わあーおう、くぷくぷくぷうう』
 どこかでカナちゃんが妖しい呪文を唱えていた。
 その時、目撃者のいない遥かな上空で起こったことについて語ることは、誰にも出来ないだろう。
 閑話休題。
 「みなさーん、晩御飯ですよー」
 普段はダイニングとして使っている空き部屋・六号室から、エプロンドレス姿の管理人さんが声をかけた。
 第一四二戦闘飛行隊のスクーター・ジェフリーズ海軍大尉に扮し、ノール岬の上空二万三千フィートで、スホーイSu‐27〈フランカー〉とのACMに興じていた私は、フライトシミュレーターの電源を落として六号室へと向かった。今日のおかずはなんだろう?
 虹鱒の塩焼き・甲州街道風だ。やったぜ!
 「あら? 乾さん、すいませんけど一本橋さんを呼んできてくださいな」
 この、首をちょっと傾ける仕草が何ともいえずかわいいのだ。はーい、と私は幼稚園児のように元気よく返事をして、一本橋を呼びに行き、そこで切り刻まれたSF作家の死体を発見したのだった。
 SF作家だからと言って、その死体に何か特別なこと――例えば皮膚の下に機械が見えたとか、実は異星人の着ぐるみだった、とかいうことは全然なかった。死体はただの死体だった。これは、完全に推理作家の縄張りで起こった事件であり、うだつの上がらないSF作家が手を出していい問題ではなかった。なのに、彼はやってしまった。なんてことだ。原稿はどうなるんだ。ああ、作者急逝のため休載します。減ページで、広告入れて……。そして、そうだ――。
 これは、私のために用意されていた千載一隅のチャンスなのかもしれないと、その時本気で思った。
 ――やった! 推理作家・乾三四郎デビューだ!
 ――はっ。
 いかん。私が錯乱してどーする?
 私はぶんぶんと頭を降った。落ち着け落ち着け落ち着け。
 なんてやってるころ。
 視界の隅を、何かが横切ったような気がした。
 え?
 およそ信じがたいことだが――私は目をこすった。
 紅い外套のようなものと、そして、金色の仮面――三日月のような両眼と、耳まで裂けた口をした、アレだ。
 そのあまりの残像に、私はただ口をあけて凝固するしかなかった。
 ――そういえば、郷里のお袋は、元気にしてるだろうか……。
 そのまま、三○秒ほども、惚けていただろうか。
 絹を引き裂く乙女の悲鳴に、私は一発で我に返った。なんてこった! 管理人さんの悲鳴じゃないか!
 私は六号室に飛び込んだ。管理人さんと、そして猫枕が血塗れで倒れていた。
 「下だ!」猫枕が私の顔を見るなり、呼吸器に血を流し込んだような声で叫んだ。「追え!」
 私は追った。階段の下に、紅い人影が見えたからだった。
 階段を下りたそこには、白衣を血に染めたカナちゃ(以下空白)

最終章 ゆえに、その名はサクラと呼ばる

 「すまなかった」
 佐倉署鑑識課のヤマさんが、堆く積まれた花束に向かって呟いた。「迎えのヘリが遅れたのは、私のせいなんだ」
 ヤマさんは顔を上げ、鼻をすすった。「フライトプランを提出するのを忘れたせいでな、スクランブルしてきた航空自衛隊のF‐ FJ二機とやりあっちまって、な。……神楽坂、久遠寺、すまなかった」
 ヤマさんは居心地悪そうに、もぞもぞと動いた。
 「結論だけ言おう。……中井神奈、一本橋大介の死因は、いずれも出血多量。凶器は大振りのナイフ――中井神奈の腹に残っていたものと見て、間違いはない。生き残った乾三四郎も、同じ凶器によると思われる傷を負っている。死亡推定時刻は二人とも、十二月十七日か十八日。気象台のお天気おねーさんによれば、この辺りで気温が急激に落ち込んだのが、十八日の午後と言うから、少なくともそれ以前であることは判っている」
 「ふむん」と、花束の向こうで、凍傷で包帯ぐるぐる巻きの神楽坂が言った。「すると、俺たちがさくら荘へ行った時はもう、事件があってから一週間も経ってたのか」
 「そーゆーことになるな」と、ヤマさん。「乾だがね、偶然の条件が重なって、冬眠のような形で代謝が落ち込んでいたらしい。凍死も餓死もせずにまあ、悪運が強いとしか言いようがないね」
 「それで」と、看護婦さんにあちこち包帯を巻いてもらいながら、久遠寺がきいた。「管理人さんは?」
 「わからん」にべもなく、ヤマさんは両手を広げた。「上の方に依頼はしたがね、向こうでも頭を抱えてる。ただな、彼女にも、脇腹に同じような刀創が、それも、即死クラスの奴があった。もっとも、氷ごしにちらっと見ただけだから、確信は持てないんだが。それから、猫枕甲介も同じだ。……な、一体、あそこで何があったんだ?」
 「さくら荘内部の人間の犯行か、外部からの侵入なのか。まずそこんとこからだな」と、神楽坂。「ヤマさん、玄関とか、窓枠とかに、血か何か残ってた?」
 「なかった」と、ヤマさん。「ちなみに、窓は全部ロックされてた。玄関には鍵は掛かってなかったんだろ」
 「ええ」と、久遠寺。
 「すると」と、神楽坂。「内部犯――それも、最初っからさくら荘の住人全員を殺すつもりだったと見える」
 「どーしてです?」と、久遠寺。
 「標的がたった一人なら」と、神楽坂。「何が悲しゅーてギャラリーのいっぱいいるとこで殺らにゃならんのだ? 全員に用があったんだよ」
 「そーいわれれば、そーですが」と、久遠寺。「でも外部からの侵入の可能性だって否定できませんよ。偶然そこをサイコ野郎が通りかかったとゆーことだって」
 「そーなんだよな、そーしときゃよかったんだよ」と、神楽坂。
 「どーゆーことです?」
 「こいつさ」神楽坂はビニール袋に入れられた、一冊のノートを持ち上げて見せた。「何もしないでいりゃいーものを、保身を計ってこんなもの書いたりするから」
 「乾の書いた手記ですか」と、久遠寺。「偶然そこを通りかかったサイコ野郎が犯人、みたいなことが書いてありましたが」
 「そう思いこませるのが目的なんだろ。もしホントにサイコ野郎が犯人で、そいつが血塗れで下宿の中を彷徨ってるんだとしたら」神楽坂は久遠寺に人差し指を突きつけた。「おまえさん、押し入れに籠もって物書きなんぞしてられるか?」
 「そっか」ポンと手を打ったが、久遠寺はすぐに不思議そうな顔をして、「動機は?」
 「想像は出来るが、本人に訊くのが一番だな」と、老刑事はのたもうた。「ま、ボチボチやってくさ。時間はいくらでもあるんだから。まずは乾の、笠原殺しの立証からな――」

* * *

 医学の心得がないのだ! 私にはもう、死にかけている霞美さんを救うことができない。だから、私はこの女性を私が最も信頼する人物――未来人に託すことにする。私は最後の力を振り絞って、霞美さんを凍結永眠させることに成功した。予備運転もなしにいきなりフルパワーで作動させることに一抹の不安がないではなかったが、こんなこともあろうかと、私が密かに開発していた対大怪獣ぴよぴよ・F作戦用冷凍兵器はその威力を遺憾なく発揮してくれた。懸念だった冷凍の過程での凍死は回避できているはずである。現在においてはまだ解凍法は解明されていないが、近い将来に必ずや、それを可能にする技術が開発されることだろう。
 注意してほしい。くれぐれも、解凍の過程で低温火傷を引き起こさぬようお願いする。私はもう疲れた。できればそれに立ち会いたいものだが、いつか女神が覚醒し、この地に再び桜の咲く春が訪れんことを――

一九九五年十二月十八日。猫枕甲介記す。




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