8日間世界7/8周

五藤[広報部長輔佐心得]三樹

前回のあらすじ
 学会に参加するためバハマに向かったN短大のM女史と僕。名古屋空港を出発して、新東京国際空港、アトランタ、マイアミと飛行機を乗り継ぎ、最後は室内の薄暗い小型プロペラ機で合計 時間かけて目的地のフリーポートに着いてみると、アトランタで預けたはずのスーツケースは二人とも無くなっていました。さらに、タクシーでは名前のよくにたホテルにつれて行かれる、帰りの航空券は紛失するなど、まさにトラベルはトラブルいっぱいなのでした。結局、本人も荷物も無事帰ってこれたからいいけどね。

学会というものについて
 Dr.まちゅあも述べているように、学会はコンベンションに似ています。参加登録をしたらプログラムブックの送付を待ち、企画(発表)の準備をします。当日は受け付けでネームプレートを貰って知った顔を探し、企画に参加(発表を聴く)したり、主催(発表する)したりします。
 さて、世の中にはワールドコンから日本SF大会、地方コンベンションなどがありますが、学会にも、機械学会とか情報処理学会とか大きなものから、体表超音波像研究会なんていうローカルなものもあります。今回、僕が参加したのは、IWDM98(International Workshop of Digital Mammogram)という情報処理の中の画像処理の中の医用分野の中の・・・という、ごく限られた分野の人たちだけがやってくる学会です。これを同人さんの友人に話したところ一言、
「オンリーやね」

東まわりアムステルダム行き
 学会が行われるのは、オランダのNijmegen(ナイメーヘン)というドイツ国境に程近い小さな町で、「地球の歩き方・ベネルクス編」にもほとんど載っていないような町です。幸い、現地で合流するG大学の教授は海外の学会大好きという先生で、航空券の手配もそっちでやってくれるとのことだったので、おまかせしたのですが、
「五藤さん、学会のとき、何日ぐらい職場を明けられますか?」
「全部あわせて1週間ぐらいですが」
「それじゃ、行きはサンフランシスコ経由でオランダ入りして、帰りはインド、香港経由で日本に帰りませんか?」
「はあ?」
「ユナイテッド航空に世界一周航路っていうのがあるんですけど、これ、マイレージが貯まっていいよ」
「ちょっと、それは・・・」
「そうですか、それじゃ行き帰りサンフランシスコ経由ということで、帰りはサンフランシスコ一泊ね」
かくして、H.I.S名古屋支店からは航空券の束が送られてきました。つまり、行きが

  1. 那覇から関空へ(全日空494便)
  2. 関空からサンフランシスコ(ユナイテッド810便)
  3. サンフランシスコからロンドン(ユナイテッド930便)
  4. ロンドンからアムステルダム(ブリティッシュ・ミッドランド103便)

これを約 時間かけて一気に乗り継いで行きます。各空港での平均待ち時間は2時間ほどです。帰りは、行きのコースを逆に戻ってくるのですが、サンフランシスコで一泊することになりました。これが如何に遠回りであるかを知ったのは、地球儀で自分の予定コースを見たときのことでした。
 出発当日。梅雨空の沖縄本島地方を、全日空494便でまず関西国際空港へ。ここで前回と同じ名古屋某短大のM女史と合流。一見かわいい系の女の子なのですが、実は工学部を主席で卒業した才媛です。なぜか僕の周りにはそういう女性がおおいのだけれど。前回、昨年 月バハマに一緒に行ったときは僕はまだ独身だったなー、などと誤解を招きそうなことを考えつつUAでサンフランシスコへ出発しました。

五藤、イミグレーションカードの半券を無くす
 サンフランシスコに到着、いったん入国します。次の飛行機までそれほど間もないので、すぐにロンドン向け出発ゲートへ向かったのですが、
「イミグレーションカードが・・・ない」
アメリカでは、入国するときにパスポートとイミグレーションカードを提出します。すると、その半券をパスポートにホチキスでとめてくれるので、出国するときにそれを渡すのですが、パスポートにとめたはずのその半券がどこにも無いのです。あわててインフォメーションに向かったのですが、
「だれか日本語の話せる人はいるか?」(と英語で聞いている)
「いない」(と英語で話している)
「そうか。じつはイミグレーション・カードの半券を無くしたのだが、どうすれば良いのか?」(と英語で言ったつもり)
「これから乗る飛行機の会社はどこだ」(と英語で話しているらしい)
「ユナイテッド航空だ」(と英語で話した)
「それならユナイテッドのカウンターに行けばよろしい」(と英語でいったらしい)
「・・・」
 何故イミグレーションカードを無くしたのに、民間の航空会社のカウンターにいかなければならないのか、こんなことならもう少し英会話の練習をしておくのだった、もうすぐロンドン行きの飛行機がでるのに等々なやんでいると、ふっと、
「そうだJALのカウンターなら日本人がいる!」
と思いつきました。藁をもすがる思いでJALのカウンターへ行き、
「じつはかくかくしかじかで・・」
「じゃ、これどうぞ」
なんと、JALのカウンターにはイミグレーションカードの半券の束があるではありませんか。じつは、これ、どこの航空会社のカウンターにもあるらしいのです。なんていい加減なアメリカの出国管理。
「これじゃ猿岩石を笑えんなー」
と思いつつロンドン行きの飛行機に向かったのでした。

M女史、荷物を無くされる
 ロンドン・ヒースロー空港には現地時間の朝7時過ぎに到着。このころには自分の体内時計がぐちゃぐちゃになってることを実感しつつ、8時過ぎの飛行機でアムステルダムへ向かいました。そして現地時間の9時 分頃、ようやくスキポール空港に到着、日本からおよそ 時間、税関のガラス壁の向こうには合流予定の教授の姿も確認し、ようやくオランダの地に足を踏み入れる、はずだったのですが、
「荷物がでてこない〜〜」
そう、同行のM女史の荷物がまたしてもでてこないのです。前回のバハマの行き、帰りに続く3回目。なにか呪われているのでしょうか。ちなみに僕はバハマの行きでは荷物を無くされましたが、帰りはでてきました。やはり日頃の行いでしょう。
 しかたなく、荷物を無くされたことを伝えようと税関のガラス壁の隙間から教授を呼ぶのですが、人の行き交いも多い空港の到着ゲートのこと、なかなか振り向いてくれません。かといって、税関であまり大きな声をだすのもはばかられるので、しばらくガラスの前で身ぶり手振りを演じていた我々は怪しげな日本人二人組に見えたに違いありません。幸い、通りすがりの親切なオランダ人女性が、教授を呼んできてくれました。前回のマイアミといい、無事に帰ってこれるのは、周囲のみなさんの善意のおかげです。そのうち、ひどい目にあうのかな〜。
 荷物の紛失も3回目ともなると少しは慣れるもので、すぐに荷物係のカウンターへ行って手続きを行い、結局、1便後の飛行機で無事、荷物を手にすることができました。

オランダ式ブラインド
 学会が行われた場所は、ナイメーヘンカトリック大学(Katholieke Universiteit Nijmegen)という大学の中のホールです。学会当日の朝、大学に到着してみると、なんだか景色に違和感を感じます。みんなであたりを見回していると、原因はブラインドであることに気がつきました。雨戸でも鎧戸でもない、普通のブラインドなのですが、窓の外側についているのです。ほんとうに普通のブラインドですから、風が吹くと結構はためいたりします。 階建てのビルの上からしたまで全部そうなっているのです。もちろん、全ての家屋がそうなっているわけではなく、わりと新しいビルが、そのようになっている場合が多いようです。また、後できいた話では、アムステルダム周辺では、そういうブラインドは見たことがないとのことでした。熱の遮断のことを考えると、そのほうが良いのだそうですが、風にはためくブラインドをみてると、「すぐ壊れそう」というのが我々の一致した意見でした。

レストランで紀宮さまのサインをみる
 3日間の学会は、とくに語ることもなく終わったので、我々ー教授、助手、大学院生、M女史それに僕の5人ーはライデンに向かいました。せっかくオランダまで来たのだから、アムステルダムぐらいは見ようということ、それにM女史の同級生がオランダの日本大使館で働いていて、ライデンでおいしいレストランを紹介してくれるとのことだったからです。ちなみに、今回の学会の参加受け付けで貰ったネームプレートは、今、あきこんのネームプレートの隣に貼ってあります。
 アムステルダムでは、おきまりの運河めぐりとアンネ・フランクの家に行きました。本当は、個人的にはナイメーヘンの近所にあった「遠すぎる橋記念館」に行きたかったのです。でも「アンネの日記よりパンツァーリード」なんて言ったら、人格、疑われますからね。
 夜はライデンにあるレストランに行ったのですが、そこはM女史の友人が紀宮様御訪蘭のおりに御乗用車(’おんじょうようしゃ’と呼称する)で随行したという、たいそうなレストランでした。さすがに美味でしたが、考えてみると、日本をでてから、学会のレセプション以外、機内食とホテルの朝食、それにピザハットしか食べてませんでしたから、なんでも美味しく感じたのかもしれません。
 お店にはサイン帳が置いてあって、めくったらありました。ページの真ん中に一言「清子」と。さすがにそれではわからないと思ったのか、紀宮様御訪蘭を伝える新聞記事の切り抜きが貼ってありました。
「皇族なんだから和歌の一句も書けばよいのに、他のページには名前のほかに一文書いてあったぞ」
というと、前述の友人が一言、
「でも、イラストが書いてあったら、それも、やだ。」

ヒースローで待ち止めをくらう
 オランダからサンフランシスコへはロンドン経由で向かいます。早朝ホテルを出発した我々はスキポール空港へ向かい、そこから約1時間かけてロンドン・ヒースロー空港へ、ここでユナイテッド航空に乗り換えてサンフランシスコへ。乗り換え時間は1時間とちょっとのはずだったのですが、我々の乗るはずの飛行機がまだ到着していないとのこと。結局、ヒースロー空港の搭乗口で3時間待ちということになりました。
 ところで、行きに比べて帰りのヒースロー空港はやたらとセキュリティーチェックが厳しかったのですが、これはどうも、まさに開催中のワールドカップの影響だったようです。係官に次のような質問をされるのですが、
「あなたは他人の荷物を預かってますか?」
とか、
「手荷物はずっとあなたの管理下にありましたか?」
とかは良いのですが、
「ナイフは持ってますか、毒ガスは持ってますか?」
という質問。本当に持っている人はなんて答えるんでしょう?

サンフランシスコで潜水艦に乗る
 当初の予定では、お昼頃にサンフランシスコ空港に到着して、午後は市内観光の予定だったのですが、飛行機の遅れのため目的のホテルに着いたのは夕方でした。
「せめて、ホテル周辺の散歩でもしましょう」
ということで、フィッシャーマンズワーフ周辺を散歩してると、埠頭に潜水艦が接岸しています。USS PAMPANITO(SS-383)という第2次世界大戦当時の潜水艦で、7ドル出すと内部を見学させてくれるとのことでした。同行者はあまり興味なさそうでしたが、アムステルダムでは譲歩したことだし、ちょっと強引でしたが内部を見てきました。
 見学を終わってそとにでると観光客らしい白人に呼び止められました。
「面白かったか?」
「面白かったぞ」
「7ドル分の価値はあるか?」
「うーん・・・」

そして、円安におびえる今日この頃
 サンフランシスコから沖縄までは、なんと言うことはなく帰ってきました。途中、関西空港で、M女史のスーツケースだけがなかなかでてこなくて、
「やっぱり呪われたスーツケースだ」
などという一幕もありはしましたが。
 で、8日ぶりに帰ったわが家でテレビを見てると、円安のニュース。
「こまったなー、オランダとサンフランシスコで泊まったホテルの請求まだなんだ。」
「請求来た時のレートで、請求金額が変わるの?」
「そうそう、だから、円安が進むとこまるんだよね」
「でも、なんとか財団の助成金がでるから、関係ないんでしょ」
「いや、その、渡航費援助、今回は通らなかったんで、自分で払わないといけなくて・・・」
「そう。良かったわね、あなたのボーナスの使い道ができて」。




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