潜水に必要な計器の一部

ダイビング始めました

阪本[初代]雅哉

 ダイビングを始めたのは98年の4月だった。
 海に潜るようになって、それまで聞き流していた会話の一部から「あなたも、ダイビングやるんですか」などと話すことが増えた。その他にTVなどで“海”に関係した番組をつい見るようになり、そこで意外な(というと失礼か)タレントが潜っているのを目にすることがある。
 どうやら私が知らなかっただけで、世の中にダイバーは意外と多いらしい。
 ただしCカード(ダイビングの認定証)に有効期間はないので一度ダイバーになれば生涯ダイバーのままだし、年に100本以上潜る人から、数年で1〜2本、さらには何年も潜ってない人まで様々のダイバーがいるだけだ。
 ダイバーの数が多いことからもわかるように、一見難しそうに見えるし確かに危険な面もあるものの、ダイビングは手軽に始められるレジャーである。
 とはいえ仕事も趣味も屋内向けで、平日は部屋の中に生息し、休日に出歩けば本屋を渡り歩き、昼間から喫茶店にたむろして、夜は居酒屋へ移動する。普段こんな生活をしている人間がダイビングを始めるには多くのきっかけが必要だった。

1992年、夏
 石垣島へ社員旅行で行った。
 南の島には青くて美しい海がある。そしてかなりの田舎だ。島内観光は半日で終ってしまい、あとは海へ行く以外にたいしてすることがなくなってしまう。
 屋内型の生活をしているけれど、スポーツは見るのもするのも嫌いではない。嫌いではないのだが、子供の頃から運動は得意ではない上に運動不足だし若くもないし体力もない。
 さらに致命的なことに泳げない。もちろん水面で体を水平にした状態で顔を水に漬けて手足をバタつかせれば10mや15mは前に進むことはできる。若い頃なら25mだって移動できた。しかし息継ぎが上手くできないので、あっという間に体力が尽きてしまう。海で足が届かなくなって、岸まで必死になって移動したときでも1000m程度だったんじゃないだろうか。
 学生時代に友人から「普通の人は5m歩けるとか、10m歩けるようになったとかいわへんやろ」、「泳ぐのもそれと一緒や」と言われたことがある。
 この言葉によれば、私が泳げると言うのは1歳の子供が「歩けるようになった」と認めてもらった程度のものだろう。
 泳げない理由は、「普通にしていると呼吸できない、そして頑張って顔を水面から上に出そうとすると酸素も体力も消耗するし、さらに苦しくなる」という悪循環のためだと思う。その証拠にシュノーケルを使うとそれなりに泳げることからも間違いない。つまり“体力をあまり消費することなく水面で呼吸する特殊技能”を取得すればそれなりには泳げるはずだ。
 しかし普通に暮していれば泳げなくても困ることなど滅多にないし、屋内型の生活で海やプールに行くことがほとんどないのにそのような高等技術が身につくわけがない。
 でも、このときは困った。困るというか、海水浴に行っても泳げなければそれほど楽しくない。かといって海へ行かなければ暇ですることがない。
 結局このときは誰かが申し込んでいた体験ダイビングに便乗することにした。今から思えばマスクとシュノーケルを買うとか西表島のジャングルへ行くなんて方法もあったわけだが、もしそうしていれば歴史は変わっていただろう。
 体験ダイビングをしたサービスの名前も、潜ったポイントがどのあたりだったかもまったく覚えていない。とにかく体験ダイバー6人とスタッフ数名がボートでしばらく移動し、周囲はなにもない海の上(近くに島は有ったけど泳いで行けるとは思えなかった)に到着する。
 最初は水に慣れるためウェットスーツを着て海に入る。ウェットスーツを着ていると、ウェットスーツ浮力でなにもしなくても顔が完全に水面から出ている。泳げなくても苦労もなく海の上に浮いていられる、というより潜りたくても潜るのが難しい。どれだけ深いかわからない(おそらく10m程度だったのだろうけど)海の上でボートから、少々離れてもなんの不安もなく居られるというのは初めての経験だった。
 簡単な説明の後、装備一式を身に付けて海の中へ(水中にガイド1人、水面に監視役1人、他に居たのかは覚えていない)全員が比較的スムーズに移動する。
 潜った深さは、計器の見方を知らなかったので不明だけど、水面に居た監視役がときどき素潜りでやってきていたから3〜5m程度だろうか。
クマノミとイソギンチャクの共生 波ひとつなく透明度の良い海のおかげか、初めての体験ダイビングはストレスを感じることなく楽しむことができた。このときクマノミを見て、「授業で習った『クマノミとイソギンチャク』の共生を見た」とかなり感動した。
 このあと「もう一回行きますか」との問いに、断わるはずもなく少しの休憩後に2本目の体験ダイビング。
 1本目よりは余裕…、なんてことはないが多少バランスの悪さにも慣れてストレスはない。途中でトンネルをくぐるとき3人を待たせて3人だけ先行、その間はガイドなしで放置なんて恐ろしい状況もあったような、記憶違いかなぁ。
 そういやこのとき「朝日の記者が自分でサンゴに『KY』を彫って作った、捏造記事」の話しをガイドから聞かされた。これってたしか89年のはず、よっぽど現地のダイブサービスの関係者には腹立たしい事件だったのだろう。
 石垣島から戻ったあと「ダイビングを始めよう」と少しは思ったものの“講習を受けてCカードを取得する必要がある”という段階で億劫になり、海とは縁のない生活に戻る。

1992年〜1997年
 この年の秋に結婚。
 この頃までが NIFTY のRT(チャット)にはまっていた最後の時期でFSFのオフやSF大会それにワールドコンやら、その他の目的(って遊びなんだけど)であちらこちらに出歩いていた。この頃の海外旅行の行き先はサンフランシスコや香港、台湾などコンピュータの安い所(当時)ばっかりだったかも。
 これらの旅行も、もし結婚していなければ思いつきの段階で頓挫してしまい、実際に出かけることはほとんどなかっただろう。
 そして阪神大震災があったり、明石に引っ越したり。引っ越し先の目の前は瀬戸内海だったりするけど、海には縁のない生活をしていた。

1997年、夏
 久々に夫婦だけの旅行で沖縄へ。
 この頃の旅行はほとんどすべて妻が計画していた。そして、この旅行はどうやら彼女がやったことのない体験ダイビングを私だけが経験しているのが悔しかったので、体験ダイビングをすることが目的で企画されたらしい。
 なわけで、沖縄についた翌日に体験ダイビングへ行く。
 この日はローソンが沖縄に初めて18店舗同時に開店する日で、ホテルに迎えにきた女性スタッフが「だってファミリーマートのお弁当より美味しそうじゃないですか」と嬉しそうに語っていたのが印象的だった。
 ちなみに、この日の夜にローソンに入ると店内は客で満員だった。こんなに混んだコンビニを見たのは阪神大震災直後と、このときだけ。もっとも、翌日は普通でしたけどね。
 その他に、スタッフと常連らしき人との会話から分かった事実は、「近所にあるパパ倶楽部(だったかなぁ)のムネくんはカッコ良くて女性の客に人気がある」、「パパ倶楽部(だったかなぁ)ではスタッフ全員がポロシャツを着て靴と靴下をはいている」、「彼女のいる店はヨレヨレのTシャツで素足にサンダルばき」などなど。このとき体験ダイビングをしたのはたしか「マリンスポーツオフィス那覇」だったはず。
 ここで重要なのはダイビング関係の店には“靴下はいている系”と“靴下はいてない系”があるので、各自が自分に合ったスタイルの店を選択する必要があるということだ。
 このときの体験ダイビングは、石垣島のときと違って最初に店でビデオを見て簡単な講習を受けた。講習で一番強く注意されたのは“決して呼吸を止めない”こと。普通に考えて「呼吸を止めるわけないじゃん」と思うけど、実は驚いたり感動したり緊張したり、いろいろな局面で“息を止める”ことは意外と多い。そして「呼吸を止める」ことはダイビングで一番危険なことのひとつなので、注意が必要だ。
 このときの行先はおそらくチービシだったと思う。
 途中バナナボートの下に隠れた常連客に気づかずに「**さんを忘れてきた」と大騒ぎするスタッフとかいろいろあったりしたけど、省略。
 体験ダイビングは2度目だけど、5年も前の経験が役にたつはずもない。船からバックロールで突き落とされ、ジタバタしては「邪魔だから足を動かすな」と注意されながら、周回する。楽しかったはずだけど、周囲の景色はちっとも覚えていない。
 翌日は渡嘉敷島へ行く。渡嘉敷島の阿波連ビーチは、これだけ綺麗なら別にダイビングしなくてもシュノーケリングで十分じゃないかと思うくらい、おそらくいままで行ったことがあるビーチの中で一番綺麗だった。
 ところで、阿波連ビーチの対岸の島には銅像が立っている。場所が沖縄なので戦没者かその関係の碑だろうと勝手に思っていたのだが、帰ってから調べてみると少年隊だか何だかがここでコンサートを行なった記念碑らしい。
 さらに、ここのビーチで買ったサーターアンダーギーが今まで食べた中で一番美味しかった。
 このときも沖縄ではダイビングを始めようと決めたけど、帰ってくるとやはりそのまま放置になってしまった。

1998年、春
 昨年行った渡嘉敷島の海が非常にすばらしかったので、この年は石垣島へ行くことにした。
 過去の経験からすると石垣島でダイビングをしないと暇をもて余すだろう。それに、せっかくの南の島で海を満喫しないのももったいない。そこで旅行前にCカード取得をついに決意する。また旅行の同行者(東海市に住む友人夫婦)に「私たちはダイビングするけど、一緒に潜るならCカード取った方が良いよ」と暗にCカード取得を薦めた。
 まずは近所でダイビングショップを探す。ダイビングショップってのは結構どこにでも有るもんで、容易に通える範囲にエグザス、CAANそしてNORISの3店が見つかる。
 Cカード取得に関してまったく予備知識が無かったので、とりあえず一番大手でスポーツ総合施設であるエグザスへ話しを聞きに行くことにした。しかし世の中には親切な人が居るもので、妻が勤務先の更衣室で「今度ダイビングを始めようとしている」、「エグザスへ行こうと思っている」と話しているのを後ろで聞いていて、いきなり「エグザスだけは止めなさい」と言ってくれた人がいたそうだ。
近所のCAAN 特にエグザスにする理由が有ったわけでもなし、ここまで言われるなら行くのは止めようと思うのは人情だ。
 結局は自宅から一番近いCAANに話を聞きに行くことにした。実は通勤途中に毎日この店の前を通っていたのだが、このときまでそこにダイビングショップがあることを知らなかった。いかに、関心のないものは見えていないかという好例かもしれない。
 結果として他の店の様子を見に行くこともなく最初に行ったCAANでCカードを取ることに決めてしまった。後から考えるとCAANに決めたのは正解だと思うけど、このときは別に確信があったわけではなく「近い」&「悪くない」&「わざわざ他へ行くのが面倒」などの合せ技の結果である。
 東海市に住む夫婦は、会社の同僚の知り合いが新しくダイブショップを始めるということで、そこで取得することにしたらしい。
 ところで他のショップが当りなのかハズレなのかは行ったことがないので分からない。特にエグザスが、本当に「エグザスだけは止めなさい」と言われるほどハズレなのかどうか確かめるすべもない。噂の範囲で考えるに、私たち夫婦には“靴下はいてない系”のショップが向いていたってことなんだろうと思う。
 最初に書いたように、ダイビングは誰でも手軽に始められる。しかし年に何人かのダイバーが命を落とす危険もある。
 そこできっちりと講習を受けて、安全に潜るためのスキルを身に付ける必要がある。しかし、ダイビングの資格や講習は民間の指導団体が行なうもので、国家資格ではない。そのため発行されるのは“ライセンス(免許)”ではなく“Cカード(認定証)”になる。
 またCカードにもランクがあって、たとえばPADIでは最初がOW(スキューバダイバーというのもあるが滅多に取る人は居ないんじゃないかな)で、次にAOW、レスキューとステップアップしていくことになる。
 誰でも最初はOWの講習を受講する。
 まずはテキストとVTRで予習(はほとんどサボったけど)のあと、テキストをもとに説明を受ける。このときの講習で一番印象に残っているのは、器材の選び方で「***は値段やデザインで選ばす、体に合ったものを選びましょう」とマスク、フィン、BCDと器材が出てくるたびに何度も繰り返されたことと、「ダイビングの前日はお酒を控え早めに就寝しましょう」のあと、「でも避けられません」と説明を受けたふたつ。
 テキスト講習と試験の次はプール実習。
 舞子にあるプールへ行ったのは、明石海峡大橋開通の日だった。
 すでに数度の体験ダイビングを経験しているるから余裕……なんてことはありえない。必要なスキルをなんとかこなし、こなし、こなし、疲れ果てながら終了。
 海洋実習はGWの直前、場所は和歌山県南部町。このとき宿泊したのは、総檜作りの風呂付きコンドミニアムタイプの海の家、海女小屋だった。
 ドライスーツを着て、腰に11kgと両足それぞれに500gのウェイトと器材を付けて二子之浜を海まで歩くと両足が砂に足首まで埋まってしまう。今考えると、そのまま海底まで墜落しそうなほど大量のウェイトを付けているのに当時は海中では体がちっとも安定しなかったのはなぜなんでしょう。
 このときもなんとか必要なスキルをこなし、こなし、こなし、疲れ果てながら2日間で無事終了した。
 講習が終了すれば名目だけは、一人前のダイバーだ。もちろん自動車の免許なんかと同じで、試験に合格して資格を取っても実際の経験をつまないと実質が伴うわけではない。
 講習前後にCAANで、6月に石垣島へ行く話をすると、「もったいない」だの「心配だ」とか「せめてAOWをとってから行け」などと、余計なお世話で鬱陶しいと思うような意見を言われる。いまから考えれば言った側の気持ちはものすごくよくわかるけど、当時そんな忠告に耳を傾ける素直さも時間の余裕もなかった。
 石垣島のサービスは Internet で検索して決めたマリンメイト。
 忠告を受けたときは鬱陶しいと感じてもやっぱり不安は大きい。そのため「Cカード取りたての初心者だ」とくどいほどに念を押して申し込んだ。
 最初は「米原Wリーフ」で初心者向けにチェックダイビング。レギュレータクリアがきちんとできるかチェックされたということは、サービスのスタッフも初心者4人だと熟知していたんでしょうね。
 そして2本目に「石崎マンタスクランブル」へ行く。その後も何度か「マンタスクランブル」に潜ったが、毎回マンタに遭遇している。時期を選んでこのポイントに潜ればマンタとの遭遇率は高いのだろう。
 このときも、ポイントに到着するとボートの上からマンタが2匹泳いでいるのが見える。最初はかなり興奮していたんだけど、マンタを初心者が見る状況ってのは、根の陰でマンタが近くまでやってくるのを待つだけ。マンタが周回して来るとき以外はかなり暇なので、翌日も「マンタスクランブル」へ行くと言われたときには正直「またマンタか」と思ってしまった。
エイ そうそう、初めて潜った「マンタスクランブル」にはマンタ以外の生物はほとんどいなかったのだが、数年後に潜ったらサンゴもあるし魚も多い。きっとこれは地球温暖化の影響で魚が増えたに違いない。
 この時のVTRは、潜っているダイバーのスキルがあまりにも低くすぎて見るに耐えないものだけど、絶対にそのときいなかった魚が映っていたりするのだけが興味深い。
 このときはまだ旅行のついでのダイビングだった。1日2本も潜れば十分で、結局5日間の旅行で4本しか潜っていない。

21世紀
 その翌年に沖縄本島へ行ったときも4日間で4本。
 猿のように潜るようになったのは、2000年に与論島へ行ったときサービスの人に薦められるままに5日間で11本潜ったとき以来だろう。もっともこの頃はCAANのツアーで串本始めあちこち潜るようになって、初心者から初級者となってダイビングの楽しさがだんだん身に染みついてきたってのが大きいのだろうけど。
 その頃から仲間を集め、ダイビングへの道を邁進することになってしまったのだった。
 そして未来へ続く(生涯に1000本くらい潜るだろうか)。




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