コウノアイズ−千界の王と使徒

岩瀬[従軍魔法使い]史明

 細かい雨の糸をたれながしている夜明け前の空は、この街と同じにうすよごれ、街の光をのみこんでしらけきった色をしていた。
 その路地には、めったに人が入りこんでこなかった。前の晩からふりつづいている雨が、ゴミでつまった排水溝からあふれだし、ただでさえ黴臭い路地の半分を、異臭をはなつ水たまりにかえていた。
 その片隅の物陰に、闇に溶け込むようにひそやかにたたずむ影が一つ。
 つい今しがたこの路地で、この街ではありふれた暴行襲撃事件があったばかりだった。薄汚れた風体をした東アジア系の青年が、巨体の酔漢を待ち伏せし、悪戦苦闘の末叩きのめしたのだ。物取りではなかった。青年は大の字にのびた巨漢の懐を探ろうともせず、男が完全にのびていることを確かめただけで、はでに水たまりをはねちらしながら、走り去っていった。
 影はその全てを目撃していた。青年も酔漢も、影にまったく気付かなかった。
 そしてこの薄汚い路地にひそむ者は他にもいた。
 その二人が、つい、と路地に湧きだした。
「度胸も、計画の周到さも、それからの状況判断もなかなかのものだ」
 その言葉は見守る影のところからはかすかにしか聞き取れなかったが、内容は判っていた。
「ただ、おしいことには、喧嘩と戦闘の区別がついていない……。どう思う?ヴォルコフ?」
 そのとき、のびていた大男がうめき声をあげ、目の前の人影に気付いた。朦朧としたまま大男はヴォルコフに襲いかかったが、あっさりと排水溝に投げ飛ばされ、そして不幸なことに、得物を見つけてしまった。
『いまだ、介入するのは』
 しかし初めて目の前にする戦闘サイボーグの迅速さに対応が遅れた。全てを知っていたにも関わらず、結果的には最悪のタイミングで気配を現してしまった。
 ヴォルコフが大男の拳銃を人間の動体視覚で追えない迅さの蹴りで弾き飛ばし次蹴で喉を砕くと同時に。
 リンチ少佐は振り向き、撃った。消音拳銃のくぐもった音は雨にかき消された。
 リンチ少佐は確かに見た。見たように思った。修行僧のような黒衣を纏った禿頭の男を。そして少佐の銃弾に貫かれた瞬間に、その男が弾けるように拡散し、消滅したことを。
「ヴォルコフ、見たか?今の……いや、なんでもない」
 リンチ少佐は、たった今発砲したはずの拳銃の銃身が熱を持っていないことに気付き、続く言葉を呑み込んだ。そしてたった今撃った男の姿をもう全く思い出せないことに驚愕し、さらに空の両手を呆然と見つつ。
 自分が一体いま何に困惑しているのかすら判らなくなっていた。
 ヴォルコフの記憶を巻き戻し閲覧してみるか?しかしもしそうしても、何の異常も発見できないことが奇妙なほど明瞭に確信出来た。
 少佐は自分の今回の任務に、初めて不安を覚えた。

 アルテミス宙港のすすけたロビーは、人でごった返していた。ただでさえ混雑する時期なのに、もう一つの旅客用宙港が改装で使えなくなっているからだ。
 クラックと退色が目立つ強化プラスチックの壁材。苛立たしげな点滅を放置されたままの埋込式ライト。
『見映えに直結するメンテナンスが滞ってる』
 ロビーの片隅にあるコーヒーショップのおやじは、不安げに思う。
『そのくせ、得体の知れない大規模なインフラ改修が目白押しだ。宙港だけじゃない、道路も、発電所もだ』
 先ほどまでたてこんでいた客の大半が、出航時刻が近づいたためにいなくなった。閑になると忙しさに紛れていた不安が頭をもたげてくる。そして。
 汚れたカップの類の回収のためにカウンターを出て、おもむろに店全体を見渡してみる。
 がらんとした店の奥に、まったく手をつけてない冷め切ったコーヒーカップを目の前において、薄汚れた大きめのジャケットをもっさり羽織った男がいた。色素の濃いアジア系とみえるのに遮光サングラスをかけたその姿は、堅実なコーヒーショップの店主としてはあまり嬉しくない雰囲気をかもしだしていた。
 そう感じるのは、多少は先入観もあるかもしれない。おやじはその男が国境警備隊長ヘロム・『ダンテ』・フェルナンデスその人だと知っていたからだ。
「捕り物ですかね、旦那。あ、これはわたしのおごりで」
 そう声をかけて湯気の立つ新しいコーヒーを冷めたコーヒーと取り替えたが、ダンテはそっぽを向いたままだった。目立つことをするなと言いたいのだろう。
 もちろんおやじは、いまさら無駄だなどといったりはせず、慎重に、独り言のように言葉を継いだ。
「どうもこの頃じゃ不景気になっちまいましてね。ものの値段は上がるし品不足だしで、商売は上がったりですよ。また地球の奴らが、わしらに意地悪してやがるんだ。」
 ダンテは顔をそらしたままコーヒーをすすった。たちまち渋面が広がった。
「最近は、とんとコーヒー豆が手に入らなくてね。どこの店でも、大豆の代用品でごまかしている。いったい、いつまでこんなことが続くのかねえ」
 本音が滲んだ。おやじは自分がどれほどの不安を抱えているのか、喋るうちに初めて自覚した。
「旦那はなんかきいてませんか。軍が地球相手に、戦争をおっぱじめるつもりだってうわさは、あれは本当なんですかい?」
「その通りです」
 おやじはぎょっとして振り向いた。
 禿頭の黒い詰め襟服を着た男がいつのまにかおやじのすぐ後ろに立っていた。
「これからそうなるというべきですか、厳密に云えば」
 ダンテの目線に促されおやじは慄えて脇に退いた。
 静かに席を立ち、まっすぐに禿頭の黒詰め襟男と向き合ったダンテは、不気味なほど穏やかに、云った。
「もう少し詳しく話して貰おうか。場所を変えて、な」
「その前に一つだけお願いしたいことがあるのですが」
「なんだ?」
「もうすぐチェ隊員から連絡が入るはずですが、その”標的”以外の男は捕まえないで欲しいのです」
「なんだと?」
「それが第一次外惑星動乱を未然に防ぐ最初の布石となるのです」
 ダンテは口をあんぐりと開けた。
 その男のいっていることは滅茶苦茶だった。『外惑星動乱』というのはどうも、外惑星と航空宇宙軍の『戦争』のことらしいが、直面している事案はそんなだいそれたものではない。しかし気になるのは、もうすぐチェから連絡が入る筈なのを男が知っていることだ。
 しかも。ダンテはつい今しがたまで、この男の存在に気付いていなかった。まるでほんの数秒前に、唐突にこの世界に現れたかのように。この男はたとえ妄想狂だとしても気配を隠す達人には違いない。
「判った。考慮しよう」
 ダンテは握手を促すようになにげに手を延ばした。男の右手首をがっちり掴み、そのまま逆をとって後ろにねじあげた。男は悲鳴を挙げず表情も変えなかった。
「すみません、わたしには苦痛という機能がついてないんです」
 ダンテは驚いたが、すぐに詰め襟を押し潰して喉を締め上げ、そこで恐怖した。
 男は呼吸していなかった。心臓の鼓動もなかった。
『航空宇宙軍のサイボーグかアンドロイド?』
 ダンテは男を突き放し、拳銃を抜いた。
 男を無力化する方法を、他に思いつかなかったのだ。目を狙った。気密区画用の小型拳銃では他の場所には効果が無い気がした。
 得体の知れない何かが弾け、歪みつつ拡散した……
 サングラスから、短い警告音の直後に、ダンテにしか聞こえない音声がこぼれた。
「こちらはチェ…。あらわれました…。”標的”は出国ロビーにいまはいるところです…」
 ダンテは呆然と自身の右手をみた。実体弾の発射反動が残っているような気がするその手は空だった。
「…黒の旅行スーツと、同じ色のスペースシューズ…」
 しかも、座っている。立ったはずなのに、立ち上がってそして……何をしていたのだ、おれは?
「………あとは写真と容貌は変わらない。髪と瞳の色は、手配書のまま。指示をくれ、ダンテ隊長」
 指示をくれ。その一言でスイッチが入った。
 ダンテはすばやく状況を検討し、指示を出した……
 この日の事件を契機に、ダンテは第一次外惑星動乱へ直結する太陽系政局のうねりに抜き差しならず呑み込まれ、後に無二の副官となるランスとも出逢う。しかしこの日、それだけではない何か極めて異様な出来事があったという感覚を、ダンテは生涯持ち続けた。その後古典期地球の宗教聖典を必要あって調べたとき、死を司る大天使と組み討ちした男の逸話に奇怪な既視感を覚え、いつしかダンテはこの日死に神と組み討ちして、その記憶を自分も含めて失ったと信じるようになった。死に神と自分とどちらが勝ったか等どうでもよく、そもそもすべて妄想の一種に過ぎないと自覚していたが、一つだけはっきりしていることがあった。天使の名は自分には似合わないということだ。
 だから、ダンテは陸戦隊の組織を任されたとき、その命名に迷うことはなかった。

 どこでもあってどこでもない時空。
 輝く漆黒とでもいう他ない、たった一個の光量子すら存在しない完全闇黒、しかし認識野に直接働きかける情報量は無限大とも思えるような超情報空間。
 そこに鎮座君臨する王は、結果に苦慮していた。
「あかん。こいつら頑強すぎる」
 王の独語に、打てば響くごとくに応える声が二つ。
「『頑強すぎる』というのはキイパースンの選択に対する我々の進言を暗に批判しているのだろうか」
 その声は、シェークスピア俳優まがいの荘重なバリトン。もう一つの声は、クールでハスキーなアルト。
「できるだけ広範囲な世界に影響を与るという命題遂行のため世界時系列の冒頭にしか干渉できない現状では、働きかけるべき対象は選択の余地がないわ。王も納得の上という記録もあるのよ。参照キイコードは…」
「ちゃう、ちゃう!そういう意味でゆうたんとちゃうンや。けど、最初のンはブリッジ時空を通じて別の時空とも繋がっとって、厳密にはそっちの方が時系列的には先やろ。なんでそっちにせえへんかったンや」
「そちらは干渉開始後三秒後に、キイパースンによってフィクショナロイドが殴打され、修復不能の頭部損傷を受け干渉を強制終了したと報告したはずだけど」
「……まぁ、発射直後のシャトルコクピットに突然現れた奴の話を真に受けろっちゅうのはむつかしいやろけどな。三秒後っちゅうのはなぁ。フィクショナロイドの虚構擬態能力に、ちょと問題有るンとちゃうか」
「王は虚構擬態能力の本質への理解が不十分であると認識、以下簡略に本件の原因を解説しよう。虚構擬態能力は実体世界における擬態能力、すなわち光学的特徴・音紋・臭跡の擬態などとは本質的に異なり、虚構内における虚個体の認知パターンを解析/適応させたものである。従って、合理的な認知様式を持つ虚個体に対しては如何に高度な能力を持とうが極めて有効性が高い。しかし彼のように非合理なまでの認知力と情念が特定の事物に設定されている場合は擬態がかえって警戒認知を促すこともあり得……」
「判った判った、要するに『おれのイントレピッドぉぉぉ!』を強調しすぎたっちゅうわけやな、儂が!簡略にッちゅうとるわりにはまわりくどすぎるわい」
「王の言はまことに心外である。例えば前言においては一次案として策定されたものより85%、二次案よりも37%もの文言を整理し……」
 王が「ブレーク。ソクラテス」と呟くと言い訳がましい声はぴたりとやんだ。
 王は熟慮・酔慮の上、新たな方針を示した。
「しゃあない。どんな世界でもかまへん。手当たり次第に送り込むンや!」

 状況は絶望的だった。なすべきことは何もなかった。パルパティは、窓の外で荒れ狂う地吹雪を見ながら、深くため息をついた。
 パルパティの雪上車は、吹きだまりの軟雪の中に、かしいだ鼻先を突っ込んで埋まっていた。日が暮れてもう三時間近く。体感温度を零下六〇度にまで引き下げる凄まじい地吹雪は、収まる気配を全くみせない。不調なエンジンを修理しようにも、エンジンカバーが衝突の衝撃で歪んで開かない。人力で雪を排除してみたが激しい地吹雪がそれをたちまち徒労と化した。
 電離層のないこの星ではワイアレス通信の有効距離が短く基地の仲間に救助を要請することもできない。
 パルパティはエンジンを切った。熱で車体が雪氷に沈んでしまうのをくい止めるためだ。灯火も最小限を残して消した。静寂がやってきた。吹きすさぶ風の咆吼が窓を通してひびく。早くも寒気が足もとから忍び寄って来た。すぐに吐く息が白くなり、冷えた空気が肺を刺す。ぬれた髪が凍り付き始め、スカーフの露が霜に変わり、首を動かすたびにチリチリと痛む。
 その時、びっしりと霜をつけた窓ガラスを通して何かが動くのが見えた。信じがたいことだが、それは徒歩の人影に見えた。窓を開けたパルパティは、確かに見た。地吹雪の切れ目に、ほんの一瞬、禿頭の黒い詰め襟服を着た男が立ちつくしたまま白い飛雪にまみれて白く染まってゆく様を。それはまるで、そのありえないほどの軽装でついほんの数瞬前に突然この世界に現れたとでもいうようにみえた。
 男は何かを叫んでいた。え?
「この惑星の大地は柔らかい」だと?
 その暗号のような言葉の意味を深く考える余裕はなかった。男は二度と地吹雪の彼方に姿を見せることが無く、雪上車の内部まで凍り付けにしたくなければ窓を何時までも開けているわけにはいかなかった。
 パルパティは窓を閉めると同時に、エンジンとヒーターを再始動させた。あれがもし本物の人間なら、放置するわけにはいかない……
 窓の向こうに、動く何かが見えた。
 耳を澄ませると何かの機械音がした。
 パルパティは窓を開け放ち、闇の中、凍丘の向こうを見え隠れしながら近づいてくるライトを確認するや、照明弾を打ち上げた。上空で弾けた照明弾が闇を切り裂き、あたりを皓々と照らし出したが、人影はどこにも見あたらなかった。
『おい、ちょっと待て。どうしてこんなところに人影がある筈があるんだ?』
 そして、確かに再始動させたはずのエンジンがいつのまにか切れているのを不思議に思い、次の瞬間には何を不思議に思ったのかさえ判らなくなっていた。
 後日、地球人とパルパティがはじめて接触したその日をパルパティは繰り返し思い起こしたが、禿頭黒詰め襟の「雪男」のことは思い出すことがなかった。

「フィクショナロイドちゅうのは寒さに弱いンかいな」
「汎世界律”りあり・ずーむ”の要請により、フィクショナロイド体内の作動流体にも、凍結温度が設定されているのである」
「あれでも通常の虚個体よりははるかに頑健なのよ。ただ、服装がデフォルトで固定と云うのが致命的ね」
「……次行け、次」

 いつもの夢だった。別れたはずの妻が、寂しげな表情でわたしをみていた。
 仮死状態から蘇生するときにいつも見る夢だ。
 蘇生の手順がすすむにつれて、わたしの意識は現実に引き戻され、夢は薄れていった。そして唐突に、声が割り込んできた。
「おはよう、船長。わたしの名はジンメイという」
 記憶にない声だった。まだ完全には戻らない意識のなかで、これは夢のつづきだろうかと私は考えていた。
 声は繰り返した。
「おはよう、船長。わたしの名はジンメイという」
 カプセルの蓋は、すでに開いていた。私の「解凍」は完了し、肉体は行動可能な状態になっていた。カプセルに設置された画面によれば、探査船は次の観測点に到着している。一見したところ、自動航行システムにトラブルはないようだ。私はのびた髭をこすりながら、カプセルからはいだした。
 目の前に、おっさんがいた。
 黒い詰め襟の僧服を着た、禿頭の男だ。
「おはよう、船長。わたしの名はジンメイという。まもなくここにエイリアンが干渉してくる。その対処に協力する代りにわたしの目的に協力して欲しいのだ」
 私は口をあんぐりと開けてしまった。夢の続きにしても、あまりにも無茶苦茶だった。
 ここは恒星間空間を唯一の乗組員である私を乗せて高速で飛翔する、半自動航行の観測宇宙船の中なのだ。
 もう一人人間が乗っているだけでも異常だが、しかもよりによって無表情な黒衣の中年坊主とは。
 目の前のおっさんが、唐突に、消えた。
 消えたとしか表現しようがない。ほんの一瞬前まで存在したものが拭うようにかき消されたのだ。
「おはよう、船長。わたしはフライデイだ」
 今度は何だ?私はうろうろと周囲を見渡した。どうやら今度の音声は、船に搭載されたメインコンピュータの音声出力らしい。黒衣の坊主ほどではないにせよ、これも異常事態にかわりはない。
「さきほどのジンメイと名乗る虚構構造体は、船長とわたしに有害な干渉を仕掛けているように思われたので、わたしがこの場から排除した」
 ますます判らない。
「虚構構造体とはなんだ?」
「この世界に本来ありえない、異形の存在論理による情報体だ。しかし真空中では情報媒体を維持し続けられないようだ。たった今この時空から消失したが、興味深いことにその結果時間を遡って干渉情報が消
「オハヨウ、センチョウ。ワタシハふらいでいダ」
 びっくりするような高音に、私はあわてて耳を押さえた。すぐに心配そうな声が返ってきた。
「オンリョウガ、オオキスギルノカ。ソレトモ、オンテイガタカイノカ」
「音を低くしてくれ!鼓膜が破れそうだ」
 フライデイと名乗ったそれは、地球外生命であることを明らかにした。私はそれとある取引をしたが、それはまぁ、いい。妙に気になるのは、フライデイが最後についでのようにきいたことだ。
「ジンメイという名に聞き覚えはないか?」
 聞き覚えはなかった。ない筈なのに、ほんの一瞬、無表情な詰め襟黒衣の僧侶の姿が目に浮かんだ。ジンメイという名の僧侶に知り合いは居ない筈なのだが。
 私の応えにフライデイは暫しの沈黙の後、いった。
「虚構構造体のわれらが時空への干渉残滓はごく軽微と認められる。船長も気にするな」
 虚構構造体とは何か、私はきこうとして、やめた。それをきいてしまったら、既に一種の世捨て人である私の存在が、ますます空虚なものに感じられるだろう。そういう奇妙な確信があったからだ。

「フィクショナロイドは真空にも耐えられへんねンな」
「作動流体が減圧であっというまに沸騰してしまうの」
「王の目的が世界への干渉である以上、かの世界の情報生命が敵意をもって妨害することもまた自明の予想では有ったが、王の指令が無作為抽出である以上……」
「ブレーク、ソクラテス。……自分で云うのもなんやけどな。寒いか暑いか真空かしかないンかいな、儂の世界って。前回は磁場と潮汐力の大嵐のただ中やったしな。フィクショナロイドは30マイクロ秒しか持ち堪えへんかったな」
 王は再び熟慮・酔慮を重ね、或る決意を固めた。

 輝く漆黒。どこでもあってどこでもない時空。
 そこに無数の百億の昼と千億の夜を含む千界を創造し、君臨する王がおわす。
 天上天下唯一無二のその字(あざな)を甲と云う千界の王のあらゆる周囲、上下のない無量次元空間に果てしなく居並ぶ禿頭の詰め襟黒衣軍団。いまやエージェントフィクショナロイド・ジンメイはカントール無限数にまで複製されていた。
「お前らはもう、虚界のどこへも行ける。お前ら一人一人の情報量を減らしたんで、虚界の初めと終り以外のちっぽけな裂け目にも侵入できるようになったからや。その分、お前ら一人一人はアホになったし、ひ弱にもなっとるが、そこはもう数で勝負や。
「頼むで、ジンメイ軍団!『マイトマリカ』を取り戻せるかどうかはお前らの双肩にかかっとるんや!!」
 居並ぶジンメイ達は、歓声を上げたり腕を振り上げて応えたりしなかった。そういうキャラではなかったからだ。かれらはただ一度深くうなずくと、三々五々、千界に散っていった。それは真夏に大量発生したヤブ蚊が蒸し暑い夏空に広がっていく光景を連想させた。
 閑をもてあますソクラテスとサラUは、その光景を虚認知しつつ、くっちゃべっていた。
「『マイトマリカ』を取り戻す。それがミッションの目的だというのは、いまはじめて聞いたのである」
「取り戻すっていうか、『マイトマリカ』に『ウケる世界』に改変するってことなんだけどね」
「率直なところ、サラ殿はどう思われる。干渉に成功したとして、王の目的は達せられるのであろうか」
「極めて難しいと判定せざるを得ないわね。『マイトマリカ』にウケるというのは、つまりは『ジョシコーセイ』と『ジョシダイセイ』にウケるってことでしょう。それって千界の根本虚理法則そのものに抵触する矛盾命題なのよ。王ご自身は愛されてるんだから全然問題はないのに、それだけでは気が済まないと云うのが甲王様の潜在意識なのよね」
「……?」
「やっぱり判らないのね。だけど判らなくていい世界もあることが、どうして男には判らないのかしらね」
「…………???…………」

 かくして数知れぬジンメイが千界に散っていった。
 あるジンメイはMKの戸口に立ち、ぶっ飛んできたレティの包丁の犠牲になった。
 あるジンメイは航空宇宙軍に捕まり、作業体Zに改造されかけた。
 あるジンメイはエリコの目前で作動流体が枯れるまでSM拷問を受け、あるジンメイはパンドラ生命に取り憑かれて軌道ステーションを破壊し、あるジンメイは門脇に虚構骨格がガタガタになるまでいわされ、あるジンメイは氷川に陥れられて中国マフィアに拷問処刑され、あるジンメイはヴォルテを追うVナンバーサイボーグの銃弾で引き裂かれ、そして……。千界の虚理法則は、あらゆるジンメイの干渉を過酷な自然界・虚個体の力で拒み続けている。今もって。
 それでも甲王は諦めないだろう。甲王が新たなミッションを立ち上げるその日はもうそこまで来ているのかも知れない。そして虚構多元世界の住人は、自らを「虚構」と自覚することは、無い。あったとしてもその真偽を判別することはできない、前世紀初頭にゲーデルが証明したように。ジンメイが唯一その機能を発動した世界において、血みどろで闘う兵士達が決して自らを虚個体と自覚することがないように。
 だとすれば、一体誰が言えようか。ある日、あなたの家の扉をノックする、怪しい黒衣の僧など決して現れない、と。その怪しい蘊蓄云いの僧侶が、あなたの、世界の運命を変える一言を囁くことがない、と。
 そのときあなたは……どうしますか?ダンテのようにハスミのようにレティのように、問答無用で叩きのめしますか?それとも……



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