いつも例会間際になって発送する例会案内ですが、今月は特に遅くなってしまいました。
なにしろ当日の朝に届いただの、まだ届いていないだの、すべて私の怠慢です。申し訳ない。
しかし、今回の例会はNIFTYのSFフォーラムのオフ会と合同となっていたため、かなり賑やかな物となりました。
まず、例によってシャノワールで集合したあと、6時半頃まで雑談を楽しみます。橋本<通訳官>仁隊員は、今月が初参加となりましたが、無理なくとけ込んでおりました。
それにしても、連絡の電話をシャノワールにかけてくるのは良いですが、もうちょっと考えてくれてもいいんじゃないですか。「協力隊の…」とか「青年人外協力隊東京支部の…」とか。
レジのお姉さんに笑われてしまった。
そういえば、呼び出しをかけられて正体がばれた途端、私らの席の周りが急に閑散としてきたような…。
とにかく、ここで人外協の隊員が10名ほど集まりまして、いよいよ宴会へと繰り出します。
一次会の参加者は、<あめーば>、<今朝のだヒダヒダ飛騨の酒>、<兵隊でゐ>、<キャサリン・な>、<ほんばこ>、<かねづる>、<かんきち>、<通訳官>、<技術飲ん兵衛士官>、<司令部付き
運転手>それに、入隊希望者の徳田さんでした。
うーん、役職名で書くとものすごいことになるなあ。
二次会の会場は既にお馴染みとなってしまったホフブロイハウスでした。ここには既にNIFTYの人たちが集まっていて、青年人外協力隊隊員の中には、どちらの席に着いて良いのか迷っている人もちらほら見受けられました。
実際ここまでパソコン通信が活用されているというのも凄いですね。
ここで<夢みるエンジニア>と<防人>、<お肉屋さん>が合流します。
しかし、ドイツ民謡と手拍子の喧騒の中、とても重要な話合いが行われていたのに気付いた隊員は何人いたでしょう。
実は東京支部の支部長が佐藤泉隊員より、進藤幸子隊員に変更されることが、このとき内定していたのですね。(その後24日に隊長より承認され、正式に決定しました。)本人の承諾が後回しにされてしまうとうのも、人害…人外協らしいといえばらしいことですね。
ホフブロイハウスの後は、これまたお決まりの大黒屋で、しゃぶしゃぶを食べ、さらに竜馬で仕上げをして解散となりました。
佐藤<開拓班>泉隊員、支部長どうもお疲れさまでした。
また、進藤新支部長のもとで、東京支部も更に活発に活動していきたいと思います。
どうぞよろしく。
あれは、一体何だったのだろう?………………
発端は、結局のところ、私の行き当たりばったりの空想だったのかもしれない。やはり人外協の隊員たる者一度は例会に参加すべしとの、気持ちが存在していたのかも知れない。
《田舎の若年寄東京に行く篇》
若干の恐怖感と共に、米子発の岡山行き各駅停車に乗り込んだのは、3月16日 11時 8分のことだった。
適当に、漫画を読んだりして時間を潰しながら、岡山、姫路、米原とのり継ぎ、大垣へ向かった。大垣から出る、夜行の普通列車372Mに乗り込むためであった。1時間ぐらい余裕を見ておいたのだが、やはり、人が多かった。座れない人も出た様である。ナーバスな若年寄は、ほとんど寝られなかった。(これが後々尾を引くのである)
東京着は、おきて破りの4時42分。東京駅もがらんがらんである。(あたりまえじゃ)仕方がないので、幼年期の終わりの続きを読みながら、6時ぐらいまで時間を潰すのであった。6時になりいい加減に行動を起こそうとする。しかし、結局のところ東京駅をうろうろしただけで、6時半になってしまった。
ここまで暇ならしょうがないとばかりに、新宿方面に向けて行動を開始した。6時にもなると中央線も動いている。快速に乗った。目的は、シャノアールの探索である。(この時点では、新宿3丁目にあるとしか知らなかったのである)
残念ながら、電話帳で調べたら、直ぐに見付かってしまった。面白くない。田舎のように住所が番地なんかで書いてあれば、そう簡単には見付からないのだ。
そこで朝食の代わりにモーニングを注文して食べる。さすがにこの時間帯は空いている。
さらにここで時間を潰し、9時ぐらいに秋葉原方面に向けて出発した。秋葉原に行って後に、神保町にも行ったのだが、それ以外にはどこにも、寄らなかった。普通の人とは何か違う。
神保町より、地下鉄を経由して新宿3丁目におりた(上った?)のは、4時少し前だった。そのまま、場所を調査済のシャノワールへ向かった。
シャノワールでは何故か、僕の後ろに“なんとなく”隊長によく似た人が一緒に入ってきた。隊長が、こんな所にいるとは思わないので、「多分雰囲気の似た別人」だろうと思って、結局声を掛けなかった。しかし、ジロジロみてしまったので、「その人」はけげんそうな顔をして、奥に入っていった。
僕は、入り口がよく見渡せる、一番奥の角に座っていた。多分人外協の隊員なら、一目で判る人がいるのではないかと思っていたのだった。しかし、そのような人は中々来ず、その代わりに私の左奥のほうから、ただならぬ雰囲気が漂ってくる。(隊長に似た人も含む)この人たちが、東京支部の人たちかなと思ったのだが、さっきの「隊長に良く似た人の」けげんそうな目付きが忘れられず、もし、
「あのー、『人外協東京支部』の方ですか。」 等と聞いて違った場合に、何をされるか判ったものじゃないので、躊躇する。
結局、わざわざ、放送で安達隊員を呼び出してもらう。すると、やはり、あの左奥の人たちの中の一人(中野隊員であったが)が来られて、やはりそうだったのかと、認識をあらたにした。
それから、人外協の増殖が始まるのであった。
中野さん井本さん他、東京支部の人々はSan-Packの話で盛り上がってしまい、僕はさっぱり話が判らず、お客さんモードに入って、漫画を読んでいた。5時半をまわると、どんどん人が増えて奥の辺りが人外協だらけになる。定位置だという話の、一番奥の広い席はオバサン達がだべっていたので、そこには行けず、いろんな席に広がって話をしていた。
そのとき、オバサンと人外協に挟まれて、奥の角に追いやられた堅気のカップル(だったと思う)がとても、かわいそうであった。
いい加減、人が集まったので移動することにしたが、大黒屋はいっぱいらしく、「どん底」という店に向かった。
僕は少しだけ、生の日本酒をついでもらい、ちびちびせこく飲んでいた。他の人をみると、みんな結構食べるのであった。
やはり、エネルギー保存則は本当だった。そうでなけれは、人外協のあのパワーは証明出来ない。食べ物と、酒が無いといけないのであった。
そこに9時ぐらいまでいたと思うが、その後結局大黒屋にいって、しゃぶしゃぶ食べ放題に挑戦する。ここでも、凄い食欲を見た。もう一般人には戻れないと思った。しかし、僕も食べることに熱中していたので、あまり覚えていない。
で、大黒屋での3次会がお開きになった22時30分、僕は大垣行きの普通夜行に乗るために、新宿駅をあとにした。
《田舎の若年寄大阪巡礼篇》
夜行の電車に乗ろうと、東京駅についた時は、もう発車まで、あまり時間が残っていなかった。そのために長い列の後ろの方になってしまう。座れないことを覚悟したが、大阪に着いたのは、9時36分であった。
まずは、当然日本橋の電気街へ向かう。(何が当然なのか?)それから、例会の始まる時間まで日本橋をうろついていたのだが、なぜ、日本橋はあんなにたて長いのだろう。結局端まで行くこと無く、Uターンする羽目に陥るのであった。(虚弱である)
少し早めに、地下鉄に乗り森之宮駅にむかった。(まだ1時間以上余裕があったが)
1次会の大阪市立青少年センターに着いたのは午後2時にまだ10分強時間を余していたような頃だと覚えている。当然、誰もいない。2時少し前に阪本隊長がこられる。東京の時とは違いさすがに忘れられてはいなかったようだ。(前述の通り、東京では気付いてもらえなかった)
隊長が仕事からのがれられずに、もがきくん(DynaBookのこと)にむかって、プログラムのデバグをしておられるのを見た時は社会人の悲哀を感じた。
阪本隊長に命じられて今日の議題を書いていたら、だんだん人が増えてきた。
けっきょく、SUM−PACKとかの話は、TOKONに参加しない僕にはあまり意味が無いし、特に案も無かったので、封筒の宛名張りの内職をしていた。
しかし、何時見ても陰山隊員は大きい。確かに要塞である。
あれ位迫力があれば、どこでも生きて行けるのでは無いかと思った。
あれこれしている間に2次会の時間になったので、酔虎伝に向かうことになる。そこでは、僕はコーラを飲んでいたような気がする。(ひんしゅく)机が3つに分かれていたので、どうも話も3つに分かれ気味だったように覚えている。陰山さんのかいたアクエリアスのイラストを見せて貰ったりした。あと、岩瀬隊員に甲州画報の一部刷り上がった頁を見せてもらったりした。
やたらと、食べまくった挙げ句、3次会になだれこむ。どこかは、覚えていない。(大阪はようわからん)
そこでもなんか頼んだのだが、覚えているのは、みょうに暗い隊長の顔と(僕の向かいだった)アニソン(他にもひどいのがあったが)を歌いまくる、陰山隊員他の人たちの姿であった。(一番目だつのはやはり陰山隊員なので代表にしよう)
僕は、岩瀬さんや、隊長と別の話をしていた。Move A,B
は AからBに代入するのだといって、隊長や、まちゅあ氏に迫害を受けたのもこの時だったと思う。あと、松岡隊員に何か(名前を忘れた)を見せてもらったりした。
ほとんど大騒ぎして終わりになり、4次会に数人で行く。
最初に行こうとした店は閉まっていたので、別の店に行った。
そこでは、せこくカクテルを飲んでいたが、(隊長曰く)珍しいことに、当麻隊員がつぶれられたのでお開きになった。
泊まるところのない僕は、隊長の家に泊めてもらうことになって、当麻隊員と一緒に私鉄に乗って、隊長の家の近くまで行った。(実は、ちゃんとした私鉄に乗るのは初めてである)隊長の家では、写真など色々見せて頂いたが、僕はもう寝ていた。(頭が)(そのせつは、どうもお世話になりました)
次の日早々に、隊長の家を出発した僕は大阪駅に向かう。
大阪からは、姫路で乗り換えて岡山へ向かうお決まりのコースである。しかし、岡山では無計画に行動したつけをもらうことになる。(実はそれまでは計画どうりに電車に乗っていたのだった。)
米子行きの電車がない。(特急はあるのだが、各駅停車はないのである)4時間ぐらい暇があるのだった。そこで、どうせなら瀬戸大橋も見るんじゃということで、マリンライナーに乗って、高松へ向かい、帰りは宇高連絡船に乗って岡山まで帰って、時間を潰したのであった。
結局、米子駅に着いたのは22時を回っていた。
もう、その日は疲れて、何も出来なかったのは言うまでもない。
こんなこと、もうしたくねーよー、(と言いながら、暇と金があればまた行きたいと思う懲りない若年寄だった)
*記憶力ないので、総ての人をフォローするのは最初からあきらめています。申し訳ないです。*
6月16日、
池袋西部で買物をしていたため、7時過ぎに新宿に着いた。さすがに、シャノアールには、誰もいなかったので、たぶんここだろうと当たりをつけて、「どん底」へ行く。入口で店員さんに、「月に一度くらい来る集団は、来ていますか?」と尋ねたところ「SFの人たちですね。3階にいますよ。」と言われました。なぜSFだとわかったのでしょうか。
無事、人外協と合流する。私はほとんどお酒を飲まないので、何も言わずともウーロン茶が出てくる。
参加者は、<あめーば>、<今朝のだヒダヒダ飛騨の酒>、<司令部付き運転手>、<みかか>、<防人>、<キャサリン・な>、<SUMPACK'90
実行委員長>、<なんにするの?>、<通訳官>、<ほんばこ>、<おさげひっぱるのだれだ>、<サラパン(サラリーマン・パンク)>、<ポー>、<ちびくろ参謀>、<せまるー書架>、谷甲州先生。
例によって、コンサートや映画や本の話しで大いに盛上がる。
3次会は、いつもの「大黒屋」。沖田さんはここから参加。
和泉さんが、もってきた「イカ」のイヤリングが、人気を博していた。「キャサリン・な には、イカがよく似合う。」(おそまつ。)
さて、ここで問題です。甲州先生は、イヤリングをどこに着けたでしょう? 1.耳、2.鼻、3.舌(答えは、あえて書きません。)
私が、人外協の例会に参加しはじめて以来始めて、「カラオケ」が、でました。そこで発見したことは、アニソンの替え歌は、たくさんあるのに、演歌の替え歌がないということです。どなたか作りませんか。
「カラオケ」にあわせて踊っていた店員さんが言いました。「今度は何時いらっしゃいますか?」
その後、4次会もあったらしい。みんな元気だなー。
6月16日 |
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★資料と甲州
甲州が素面のうちにと前日届いたばかりの「宇宙医学」を見せる。NASA の長期有人飛行に関する記録の MEDICAL OPELATION 編日本語版である。1.8Kg、定価二万六百円。
「なんでこんな本作ったんか? 知り合いでもおるんかー?」
は? あ、いえ、買ったんですけど。
「……なにい買うたあ?二万円も出して買うたあ?会社の領収書を使こうてとかいうんでなく買うたぁ?なんちゅうやっちゃ」
あ、いえ、私の道楽ですから。
「そんでもわしゃ三五〇〇円以上の本は図書館で……」
なおぶつぶつ言い続ける甲州であった。
その後宴会は始ったころ、ふたたび質問してみた。
先生はこういう資料はあまりご覧にならないのですか?
「みますよお、失礼な。ただ、そういう大きな本は図書館で見るというだけです。ふだんは小さい本で十分です」
たとえば
「ブルーバックス。あーはずかし」
なにが恥ずかしいのかよくわからないまま話しは続く。実際に小説を書く資料としては専門書より一般書のほうが役に立つ。それは専門書には『なにができたか』が書いてあるが、一般書には『なにができるか』が書いてあるからだそうだ。
★ミュージ缶と甲州
ミュージ缶というのは音に反応してツイストするビール缶そっくりな玩具である。「これをコンビニの冷蔵庫にいれておいたらみんな驚くな」、「これの小さいのを絨毯にしたら足の裏が気持ちいいだろうな」、「あっ、これでニョロニョロの大群を作ろう!」などとひとしきり遊んだ後、「せんせ、こんなんでましたけど」と甲州に手渡した。
甲州はおもむろに肩に当て、あんま機代わりに使いはじめたのだった。
★コンサートと甲州(もしくはバレエと甲州)
いやああああ、想像するだけで笑えませんか?
先生コンサートとかは行かれますか。
「こんさあと? こんさあと、こんさあとなあ……」
頭を抱える甲州。
行ったことないですか。
「こんさあとはないけどな、こないだバレエ見に行ったんや」
(外野どよめく)それはどういった演目で……
「『オズの魔法使い』。うちの娘のバレエの発表会でな。娘らがライオンさんの役をやると言うから……」
カメラ担いで出掛けていったんだそうな。
★ネパールと甲州 with[司令部付運転手]
先頃カトマンドゥ旅行をした[司令部付運転手]をわざわざ膝元に呼んでのおしゃべり。足元より低く飛行機が飛んでいるのが見えたとか、ロイヤル・ネパールはあぶなっかしいとか、そんな話題を楽しそうにしていた。
このへんは機会があったら甲州に直接語ってもらうのがよいだろう。
★結婚制度と甲州
なんか話しているな、と思ってそっちを見たら途端に話しが盛り下がってしまった。いったいなに話してたんです?
★谷川岳と甲州
Mig-CON の話題のついでである。
甲州は谷川岳になん回も登ったそうだ。今は昔のピッチでは無理、というような話しだった。Mig-CON
の谷川岳ツアーに触れると、
「私は参加してません。その時間は酔っ払ってます」
とのことだった。
地下出版局は参加したんだよ。
★ハード研と甲州
甲州先生はハード研の例会に参加なさったことがありますね? いかがでした?
「まあ、なかなか面白かったと思うで、ただなあ、わしが行くと宴会になってしまうからなぁ……」
あとは言うまい。
★コ・メディカルと甲州
コ・メディカルというのは臨床検査技師、看護婦など医師をとりまく医療技術者のことである。
地下出版局が臨床検査技師だから海外協力隊に参加できる、といういつもの話題から、なぜか看護婦の悪口になり、一転して看護婦讃歌へ……これはいったいなんの符牒なのだろうか? わはははははは。
おー、完全に酔っ払っとるな。
★いかと甲州 (白いフェルトで作ったいかのイヤリング)
[防人]いわく、「娘たちには見せられない」
★どっかん三唱と甲州
三次会の大黒屋から新宿駅へ行くグループとこのごろ行きつけの四次会会場へ行くグループとにわかれる。地下出版局は四次会会場前を通って西部新宿駅へ。それを知ってか知らずか甲州は「ほな行こか」と地下出版局の肩をたたくのであった。戦慄が走る。あーとかうーとかいってごまかしているうちに誰かが帰ると言い出したらしくのどかなどっかん三唱が始る。それそのすきにと、そそくさと家路についたのであった。
ナンカマエニモニタヨウナコトガアッタヨウナ……
てなわけで、わけのわからんレポートは終るのだった。
8月26日土曜日に、第7回東京支部例会が行なわれました。
長田[防人]隊員が一番乗りで、その20分後に私が到着。「例によって集まりが悪いなあ」とぼやいていると、なんと○ニックスの○○某こと、井元[本箱]隊員に連れられて大場惑先生が御登場。
大場先生を我々に引き合わせたのち、井元隊員はひとまず職場に戻り、大場先生は人外協の活動について、長田隊員より説明を受けていました。
と、そうこうしている間に和泉[あめーば]、稲泉[な]各隊員が到着し、更には青年海外協力隊の後輩を連れて谷甲州先生が現れ、和泉隊員のお友達の進藤さんも参入して、一気に人数は膨れあがりました。そして、職場より戻った井元隊員と、タクシーとばして駆けつけた、沖田[金づる(自称闘う酒飲み)]隊員が来たところで、そろそろ二次会に行こうと、近くの飛騨の酒を飲ませるという居酒屋に移動します。
移動中にも、青年海外協力隊の方(人外協隊員らしいんですが、お名前を忘れてしまいました。ごめんなさい)が離脱したり、大場先生が人外協へ入隊すると決意したり、なしくずしで進藤さんも入隊したり、結構いろいろありました。
二次会では、まず大場先生と進藤さんの役職名を決めなければということで、議論が交わされましたが、結局谷先生の「作者権限」とやらで、大場先生は[ディズニーランド担当・みんなで幸せになろうね]と決定しました。進藤さんは大場先生が頭を絞って、「この酒の名前を入れた回文にせいや」という谷先生の課題に取組み、[今朝のだヒダヒダ飛騨の酒]という有難い役職名となりました。
あと、谷先生は「沖田隊員の役職名を[さわり魔]とせいっ」と主張してましたが、どうなったんだろう。
また、9月23日の例会は、東京支部としては初めてのピクニック例会とすることが決定しました。次回のレポートを楽しみにしてください。
三次会は、以前にも来たことのある「龍馬」でとなりましたが、私は用事があって先に帰らせてもらいました。恐らく宴は延々と続いたことでしょう。