自称・四国支部長の林です(芙)。大阪例会レポートというものを、書かせて頂きます。「いらんことを書くなよ」という声も上がってますけど、書いたもん勝ちです、ハイ。
私は愛媛県在住の人間で、大阪市内の地理に不案内ということで、岡田(恭)氏に会場まで連れてさてもらいました。
阪本さんご夫婦と落合さんが、すでに来られていました。「一巻で終わってえ−話」、「続けてもらいたい話」、「死んでもえ−話」といった感じの話で盛り上がっていました。
まずは、今回の例会に来られた方の名前を、覚えている範囲で書きます。もし、聞き間違いや書き間違いなどで名前を間違えていたらこめんなさい。阪本さんご夫婦、落合さん、岡田(恭)さん、荻野さんご夫婦とアユミちゃん、ナカノさん、ナカムラさん、トウマさんご夫婦、天羽さん、ですね。他の方も来られていたと思いますが、覚えている範囲では以上の方々です。
メンバーが揃い始めると、『甲州画報』の発送作業を始めました。岡田さんが封筒の切手貼り、その横で私が表紙折り、少し離れたところで他の方々が他の頁を折ったり、折り上がったものを挟み込むといった作業を行いました。
……ひょっとしたら、表紙がえらくガタガタに折られたものが、お手元に届いたかもしれません。それは私が折ったものです。ごめんなさい。試用期間の丁稚奉公の仕業ということで、許してやってください(涙)。
それはさておき、今回、『発送作業の歌』が聞くことができなくて残念でした(笑)。結構楽しみにしていたのですが、次回の例会では聞くことができるのでしょうか?
発送作業が終わると、さっきの話の続きの「一巻で終わってえー話」、「続けてもらいたい話」という話で盛り上がりました。
ホワイトボードがあったのですが、それ一面に、ズラズラ〜ツと名前が書かれました。いっぱいありすぎて、覚え切れなかったので、ここでは割愛させて頂きます。
二次会は、梅村スカイビルの地下に行きました。お店の名前はわからないです。ごめんなさい。そこでは、ラーメン鍋(?)というものを食べました。とんこつ味と味噌味の二種類を注文しました。阪本さんご夫婦、トウマさんご夫婦のテーブルがとんこつ味、ナカノさん(1時間位して退出)、ナカムラさん、岡田さん、私のテーブルが味噌味の鍋をつつきました。もちろん、アルコールもはいりました。しかし、私自身は、インフルエンザから復活して間もないということで、いつもの調子が出ず、最初の一杯を除き、ずっとウ−ロン茶ばかり飲んでしまいました。
それから岡村さんと私を除いたメンバーは三次会へ。私たち二人は屋上の空中庭薗展望台へ上り、大阪市内の夜景を堪能しました。
後日談、というか、この日一日の私の足取りをばらします。
実は、日帰りで愛媛に帰るという強行軍でした。十六日の夜、午後十一時十五分に、愛妓県を出発する夜行バスに乗り、十七日の朝午前六時二十分に大阪に着くという。冒頭にも書いた通り、大阪市内の地理に疎いということで、朝ぱらから、岡田さんに行動を共にしてもらうという、はた迷惑な計画だったのです。しかも、夜は午後十時二十分に大阪を出発して翌朝午前五時二十分に愛媛に戻って、私はそのまま仕事でした。おまけに、三〜四日前に、インフルエンザで高熱を出して寝込んでいたのです。十七日に大阪に行くというのは前から予定していたので、とにかく根性でインフルエンザを直しました。
例会に参加している以外の時間、何をしていたかと言うと、海遊館に行きジンベイサメの海くんをみたり、昼食でビールを飲んでヘロヘロになったり、本屋さんのはしごをしたりしていました。とにかく歩き回りました。お陰で、家に帰ると、体重が約1.5s洛ちていました。ちなみに、今年の誕生日までには、せめて、あと10s落としている予定です(ここで公言しておけば、いやでもせざるえなくなるだろう)。
そういえぼ、今年の初夢は、人外協の大阪例会の夢でした。会場に、岡田(恭)さん、私、女性二人の計四人がいて、阪本さん、落合さんの二人が部屋に入ろうとした時に、甥っ子(三才)に叩さ起されてしまいました。
以上、例会参加二回目(隊員になって初参加)の自称・四国支部長の林による例会レポートでした。
1999年2月21日
「芸術の」とくれば、季節は秋と相場が決まっている。だが待てよ誰がそんなこと決めたんだ。たしかに文化の日は秋にあるけどそれだけじゃないか!誰が何を根拠に芸術の「秋」なんて決めたんだ。じゃあ四季のない熱帯じゃあ芸術はできないのか?なんで「秋」じゃなきゃだめなのか?夜の長さか?気温か?
だったら「春」でもいいんじゃないか?だいたい「スポーツの」も「食欲の」も「読書の」も全部「秋」じゃないか。「秋」ばっかりにそんなに押し込むなんて計画性がない証拠じゃないのか、もうちょっと負荷分散をしたほうが、効率的に仕事が進むってことぐらいちょっと考えれば気がつきそうなもんじゃないのか?
というわけで合理的精神に富む我々人外協は人的資源の合理的利用を考慮に入れ「芸術の」は「秋」ではなく「春」の枕詞と定義することに決まったのである。おりしも春分の日。宇宙的視野を持つ人外協にとっても誰からも文句の出ない、これ以上にないというぐらいの「春」の例会は、いつもの青少年センターとは場所を変えての開催となった。
「芸術の春」にちなんで選択された会場は、芸事の神様から名前をとった弁天町駅のすぐ横、弁天町市民学習センターのアトリエであった。そう「芸術の春」である以上会場もアトリエとなったのである。テルピン油の香りが漂い、一角にはうずたかく油絵が積まれた、いかにもなアトリエで例会は行われたのである。そう、3月例会のテーマは「芸術の春」だったのである。
残念ながら私は会場到着が例会開催一時間後だったため、どの様な芸術的発送作業が行われたかはよく分からない。だがかなり芸術的な発送作業が行われたことは予測できる。噂では今回の発送作業は皆が筆記具を用いて行ったらしい。もし、お手元に先月の会報が入っていた封筒があれば、慎重に宛名のタックシールをはがしていただきたい。運がよければ、そこに今回の芸術的例会の成果が残されているはずである。ただし、参加者の体力と技量の関係上一人あたりのノルマは3枚に限定されていたため、この芸術的例会の成果を参照できる運のよい会員は限られている様であるが、すくなくとも数十名の方はタックシールをはがした後に芸術的発送作業の痕跡を目撃できるはずである。
今回は「芸術の春」例会ということで、情操教育を目的にか子連れの参加者が多数であり、胎教を目的としたらしい、臨月も間近な荻野「お囃子部員:高橋海苔子☆」典子隊員の姿も見受けられた。
例会は終始「芸術」的雰囲気の中で行われており、私が参加した頃には、「ゲルニカ」「叫び」「最後の晩餐」などの名画や、ネパールの風景から大は地球から小は鉛筆までのさまざまな素材をテーマにした写真についての盛んな議論が行われていた。ついには満足の行く写真がなければ自分たちで撮影しようとの意見まで出て、来月の写真撮影会の日程まで検討が行われていた。
非常に有意義な「芸術の春」を満喫した例会であったが、唯一残念だったのは創作意欲に燃えたほとんどの隊員が2次会をパスして自宅での芸術活動を選択したため、極小人数の2次会となったことであった。もちろん2次会も芸術をテーマに活発な議論が行われたことはいうまでもない。
四月一八日の大阪例会は、私が大阪に引っ越してきてから三日後の例会でした。そのレポートを五月九日に落合家でいま私は書いています。理由は聞かないでください。なお引っ越しの後片づけは紛失した書類もなく、ほぼ完了いたしました。誰もそんなこと聞いていないか。
例会の会場には御堂筋線から環状線に乗り換え、森ノ宮駅から移動しました。到着時刻は午後一時。そしてそこには阪本夫妻が現れるまで一時間近く誰もいませんでした。
今回の例会は色々と作業がありましたが、中心となったのは八月に行われる「谷甲州作家生活20周年記念パーティー(いや、以前に書いた原稿の都合上、ここは作家生活20周年記念パーティーでないと困るのよ)」に使う上映用の画像データーの作成です。幾つかは関係者諸氏の尽力で揃っていたのですが、人間を用いて撮影しなければならない絵もありましたので、今回はそれらの撮影が中心的な作業となりました。
とりあえず人が揃うに従いできる部分から撮影がはじまります。いくつかの画像はあとでパソコンで処理されるので、撮影自体は順調に進みました。今回は清水宏介隊員が谷甲州役、私はなんだろう、あれは悪霊かな。まぁ、なんかそんな超自然的な存在です。
他にも色々と何かあったはずですが、三〇過ぎると一月前の記憶もあやふやになるので、はっきりしたことはよく覚えていません。ともかく家に戻ったら、大量の段ボール箱が待っていたことだけは記憶しております。
隊長よりの講評。
確かにこんな感じの例会でした。亜美ちゃんの観察力と表現力に舌を巻いているところです。
特に大胆なパースが効いているというのも斬新ですし、極端に省かれた胴体は晩年の山上たつひこを意識したのだと思われますが、腕の付いている位置など、実はオリジナリティの高い作品に仕上がっていますね。 個人的には丹念に線を重ねて書き込まれた瞳に魅力を感じています。
例会日当日、大阪の方に用事があり、そのついでに例会場所に立ち寄り、会費を払いに行くだけのつもりだった。会費を払って、少しばかり様子を見てすぐに帰る予定だったのだ。会費を払いに行くだけとはいえ、初めて行く例会。ネタの一つぐらい持っていかなければ。と言うことで、ROCKET OF THE WORLD という世界中のロケットの外観スケールモデル図が余すことなく載っている本を持っていく。
駅から例会場所まで歩いて行く。一人でとぼとぼと歩いているせいか、日頃の運動不足のせいか、だいぶ長い間歩いたような気がして、道に迷ったのではないかと不安になりつつ地図を頼りにただひたすら目的地に向かう。
目的地に到着。早速ビルの中に入り例会場所に向かう....いきなりビルの中で迷子になる私。方向音痴もここに極めれりという所でしょうか。
少しさまよったあげく、、例会場所まで無事に到着。人とつき合うのが苦手な私は、初めて顔を合わせるので非常に緊張。名前だけしか紹介できなかった。
「ポール・アンダースンの感想文を送ってくださった人です」
阪本さんがみなさんにそう紹介した。みなさんそれで納得。紹介をするたびに「ポール・アンダースンの感想文を送ってくれた人」と紹介してくださる。それでみなさん私がどのような人か納得しているようである。名前より、ポール・アンダースンの人で通用してしまった。
早速会費を払う。手際よく処理をしているのを見て、さすが大人数を抱えている所は違うなと妙なところで関心。あっ、ちなみに私は京大SF研に所属しています。
周りではみなさんがそれぞれ固まって話したり、こうしゅうえいせい土方を読んでいたりしている。一人でぽつーんと座っている私。このまま帰るのもなんなので、とりあえず
ROCKET OF THE WORLD を取り出す。
「あの、ネタとしてこんな本を持ってきたのですけど」
「この手の話しが好きな人がいますよ」
と、部屋の奥から林 譲治さんが引っぱり出される。
林 譲治さん、筑波の某氏から少しだけどのような人か聞いていたので、どのような反応が帰ってくるか興味津々。思っていたとおり。いやそれ以上の反応が返ってきた。
「OTRAGが載っているのですよ」
「クラスター型だからエンジンの一つでも故障したら制御不能になってしまう(実験機なのでたった4つのエンジンで制御しており、一つでも故障したら他のエンジンでカバーできないんですよ。ほんとうは最大で600本束ねて、1,2つのエンジンが故障しても、不具合のあるエンジンの対象の位置にあるエンジンを停止させることによって安定性を保つことを考えて設計されていました。効率は悪いですけど。存在の技術で実現可能な画期的なロケットなんです。)」「ICBMになりえるからと言う理由で、圧力がかかり転々と実験場所が変わり、最後には開発中止になったのですよね」話しが濃い方向へ進みはじめる。隣りに座っておられた方も(すみません。お名前忘れてしまいました)話しにのってくる。とりあえずこの本を持ってきて正解だったかな。
この本の入手方法の入手方法を聞かれた。
「絶版なんですよ。amazon.comなどの大手は全滅。販売元のSATURN PRESSのホームページでもすでに取り扱っていないです」「返品とか、中古本を扱っている場所に問い合わせば、なんとか入手できるかもしれない」と本の題名や、出版社、ISBNをメモに取り始める。その他、ロシアから資料を入手したいけど、どうしたらいいものかなどやっぱり尋常ではない会話が続く。普通こんな話しは通じないからなぁ。(筑波の某氏を除く)
こんなのもありますよと、 THE BRITISH INTERPLANETARY SOCIETY(英国惑星間協会)のメンバーシップカードを見せる。「君も会員なのか」と林 譲治さんもまたメンバーシップカードを取り出す。わらわらとみなさんが集まってくる。
「2枚揃ってみるのは久々だ」あ、あのそんなに凄いことだったんでしょうか。英国惑星間協会って有名だから、そこらに転がってるハードSF者を捕まえれば、ゴロゴロ出てくるものだと思っていたんですけど。
ここで、AviationWeek & Space Technologyの話しに持っていこうかと思ったが、話しが際限なく続きそうなので自主規制。きっと購買しているだろう。
他にもいろいろ話したと思うのだが、夢中で対応していたので良く覚えていません。覚えているのは、筑波の某氏と知り合いなの?とかマツドサイエンティストの野田篤さんと知り合いなのか、野尻抱介さんとは?と聞かれたこと。思ったのは世間は狭いな。濃い人間はやっぱり自然と惹かれあうものなんだろうかと。
例会時間も残りわずかとなり、次の甲州画報のレポートの話しにシフトする。
「次の大阪例会のレポートを書くのは決定ね」
「筑波の某氏を巻き込んで宇宙開発ものの記事書けるよね」
あぅぅっ。
私は宴会には参加せず家路につく。駅まで林 譲治さんと日本で宇宙開発のベンチャー企業が成り立つのか話し続ける。なんだか最後まで宇宙開発の話しに終始していたな。話し下手な私につき合ってくださりありがとうございます。
家に帰って『こうしゅうえいせい土方』をみる。読書感想文コンテストにポール・アンダースンの感想文が。あうぅっ、なぜここに感想文が。しばしぼーぜん。私宛てに書いてる文章だから、やっっぱりちょっと違和感あるんですけど。と、一人突っ込みを入れる。
とりあえずこのこと、ポール・アンダースンさんに教えよう。それに....とちょっと邪悪なことを頼んでみようかと思いつつ眠りについたのであった。
次の例会。筑波の某氏から邪悪な論文が送られてきたので、それをネタとして持って行く予定。って私が例会に行ったのはあくまで会費を払うためだったんですけど。底なし沼に片足を突っ込んでしまったのかもしれない。
最後に、SATURN PRESS,THE BRITISH INTERPLANETARY SOCIETYのホームページのアドレスを載せます。興味がありましたら訪れてください。
あとついでに私めのホームページも。
どうも、初めまして新入隊員の頴川 英夫と申します。
今回、大阪例会のレポートを書きなさいという指令を受けまして、こうしてレポートを書かせて頂いております。
さて、初めて行った大阪例会でどのような事がありましたかと言いますと・・・
その1 谷甲州先生二十周年記念パーティーの打ち合わせ
当日のタイムテーブル、機材の手配等は特に問題なく決まりました。ただ、参加者がまだ予定人数を下回っており、知人友人を誘いましょうとの事でした。
その2 「入隊の儀式」決定
事の発端は、二十周年パーティーで参加者に配られる引出物の話でした。その引出物というのが「丸甲マークの刻印された瓦煎餅」で、その制作に使われた焼印をお店から頂ける、という説明を聞いた阪本初代が一言、「よし、今後入隊の儀式は二の腕に焼印で印を付ける事とする」と発言。その場のノリも手伝って圧倒的多数の賛成を受けて決定してしまいました。なお、「入隊の儀式」執行は20周年パーティーの後に行われるとのこと。新人隊員や、背中に『甲』の文字を背負っていない方は注意しましょう。(なんでも、人外協の隊員は皆背中に『甲』の文字を背負っているらしいのです)
その3 「こうしゅうえいせい」のタイトル決定
次のこうしゅうえいせいのタイトルが決定され、「木星」となりました。候補としてもう一つ「みこ」というものもあったのですが、そこまで行くと何がなんだか判らないという理由で却下されました。「まっこ、甘えてばかりで、ごめんね〜」???
その4 甲州画報と隊員名簿の発送作業
一通り話し合いが終わった所で、甲州画報と隊員名簿の発送作業が開始されました。皆さん手慣れたもので、次々とホッチキスで閉じられた封筒が積み上がっていく。その量はなるほど、ポストを占領出来るはずだと思わせるほど多いものでした。
以上が、大阪例会1次会に於ける主な出来事でした。
続いて二次会は、お初天神通りの「天狗」で6時から行われました。そこで覚えていることは・・・、
その1 ビールくじの当たりを大量に引く。
お店でビールくじのサービスをやっており、最初に私がまとめて引いた8枚のうち5枚が当たりという快挙を遂げました。その後何回か引きましたが、結局当たりを引く率は全体で5割となりました。お店の人は嫌がったに違いない(笑)
その2 よく分からない言葉に翻弄される。
「アウシュタンって知ってるか?」、「ローディストは?」、「ボーイズライフは?」等々。・・・、すみません。私には分からなかったんです(泣)。
その他、阪本初代から「若いうちは修羅の道歩るかないかんで」という有り難いお言葉を頂いたり、隊員の方々と雑談したり、U子さんがやってきたりして、気がつけばもう9時。そこで、お開きとなりました。
以上、大阪例会レポートでした。
黒こと瀬木です。
すでに、記憶の欠落が酷く、記憶の底からサルベージ出来た事だけですが報告します。
例会への到着時間の推測を誤り35分の遅れで会場に着く。
この時点では、しっかり失念してたのですが、前日は谷甲州先生の20周年記念パーティーで、他の方々はそちらに出られており、元気なうちに例会の会場に集合し、早目に例会を開始されてたようです。
初めて来たと言う事で来られてた方を紹介をしていただきました。(・・・が、ほとんど覚えられない。画像処理と関連付けの処理がちゃんと動かないもんで、記憶容量も貧弱だし、ついでにメモリも超揮発性だし...(^^;))
おせんべいとお茶を頂きました。
勤務先が計測器を作ってると言うと、人外協はエンジニア比率高いなぁとかいう話も出てました。
私が、着いた時点で前のホワイトボードの大半は埋められており、内容的には来年に向けての予定と次の「こうしゅうえいせい」の記事に関してでした。詳細は、また別途きちんとした報告が為されと思いますので、記憶の断片と・・・テキスト打ちした物から、意味のわかる部分のみを記載します。
で、他の大部分が次のこうしゅうえいせい(木星)の原稿依頼というか、こういうネタで誰々さんに書いてもらおうと言う様な事でした。
特集はエリコで、全員参加のお題は、今世紀の反省と来世紀の抱負と言う事のようでした。
すでに、私が着いた時点で、この辺は決まっており、説明をうかがったのだけなので、記憶があいまいなもので..。宇宙への出張ネタと言う事で、出張手当ては、時給か、日給かとか、旅費算出は?などと言う話で盛り上がってたように思います。
次回の「こうしゅうえいせい」の締め切りは、GW明けくらいにする予定のように言われてました・・と思います。「どうせ、みんな原稿を書くのは4月中ごろからGW中になるんやろうなぁ」と、言われてたのが妙に印象的でした(^^;
あと、ホワイトボードに私の名が有ったのも謎ですが(^^;;
今回は、すでに甲州画報は発送済みという事で封書詰めの作業も無く。「こうしゅうえいせい」のネタの話と雑談とで終った様に思います。
二次会は、梅田のニューミュヘン本店で行われました、確か。
この辺になると、記憶が定かでは無いのですが、記憶にあるのは信号機の話に、まずい中華料理店の話を聞いたのは覚えているのですが...。
やたらと、楽しかったのですが何が楽しかったのか思い出せないとは、まったく情けない話です。
以上が、揮発せずにメモリに残っていた先月の例会のレポートです。
・・・、レポートって言うよりは、感想文ですが..。(^^ゞ
また、暇が出来たら例会の方に顔を出したいと思います。
この辺で失礼します。
追伸.昔、偶然に人外協の例会を実施されてる部屋の前を通った事があるのですが、廊下に音が漏れるほど音で歌をかけられるのは、どうかと思います。
ついでに言うなら、セーラームーンの歌は止めた方が宜しいかと?
当時は、ちょっと恐くてドアを開ける事が出来ませんでした。まぁ、ずいぶん昔の話ですが...
1999年9月19日
という「一」「九」並びの晴の日なのに、大阪例会は珍客も慶事もなく、通常業務をこなして終了いたしました。おわり。
と、いっぺんやってみたいモノですが、編集さんが泣くので私の印象に残った事象などご報告いたします。
ワールドコンがあった後なので、ワールドコン参加者のみやげ話がいっぱい聞けるかと期待していたら、参加者は今回だれも来られてなかったようで、その話はおあずけでした。
当麻隊員に「キャンプには必ず参加するように。車の運転要員が足りないから」、「いや、よく数えてみたら、大阪発の自動車自体が台数不足のようである。必ず車をもって参加するように」などと期待の声が集中していました。ご本人の「妻が妊娠中でどうなるか・・」との声には、奥さん連中の、私は如何にして夫に放って行かれたか話で盛り上がりました。ちなみに私が妊娠十ヶ月の時には、夫はワールドコンのためにイギリスへ行ってしまいました。『家庭に厳しい人外協』。
画報の編集ミスが見つかり、騒ぎになりました。さて、どうやって言い訳しようか、その場のみんなで考えてもらったのに、編集責任者であるうちの夫は、後日パティオで言い訳のタイミングを逸し、恥をかいておりました。『芸には「間」が大切』。
えいせい次号の企画の話も行われました。が、私は娘をトイレに連れていったり、息子にミルクをやったり、主婦連と料理の話をしたりに忙しく、聞いていませんでした。ごめんなさい。
二次会はニューミュンヘン北大使館で行われました。中ジョッキのサービス券があるから、との事でした。さて行ってみるとくだんの券がテーブルに束になって置いてあります。どうやら一五〇枚くらいあるそうです。つまりジョッキ一五〇杯ですね。その上、「お店のサービスです」と子供にシャーベットまで頂きました。先月の二十周年宴会の二次会で、人外協はニューミュンヘンにいくら払ったんだ!? という事態でした。券はまだまだ残っていたようですので、みなさん是非大阪例会の二次会にお越しください。今がチャンスです。飲めない方も「割り勘勝ちできる」という夢のような特典がついております。
「一」「九」を記念してここで一句
秋の宵 人外協は 飲んでいる
(これじゃ、上の句は何でもいいな・・・・・・)お粗末さまでした。
どうも、今回二度目の例会レポートを書かせていただいております頴川です。(といっても例会参加もこれで二回目なのですが・・・)早速ですが、例会の様子を報告することにしましょう。
今回の例会の参加者は最終的には十二〜三人程であったと記憶しております。今回の議題については、次の週末が恒例の人外協キャンプであったこともあり、キャンプで必要な物資の調達や当日の段取りなどが話し合われました。
私もキャンプにいってみたかったのですが、予定が既に入っていたために断念せざるを得ませんでした。来年はぜひ参加したいと思います。
キャンプの打ち合わせが終わった所で、甲州画報の発送準備作業が参加者全員で行われました。この間、関西在住の隊員がどの辺りに済んでいるのかという簡単な調査が行われたり、隊長が実は隊費をまだ払っていなくてそれが元で除隊してしまったらエライことやねと言う話題が出たり等と、にぎやかに作業が進んで行きました。
さて、実は私は8月と9月の例会に参加しなかったのですが、この間ちょっとした不幸に見舞われていました。それは「画報がちゃんと届かない」というものでして、8月は封筒から切手が剥がれおちて料金を支払い、9月は画報そのものが届かず再送してもらうということとなり、今月こそはちゃんと画報が受け取れると思って油断しておりました。発送のための封筒詰めも終わり、例会参加者がそれぞれ自分用の画報を手にとって読み始め、私も同じように画報を読み始めたその時、手に取った画報が紙一枚少ないことに気がついて愕然としてしまいました。まさか、自分で落ちをつけてしまうとは・・・・(笑)。
その後、時間が来るまで雑談し、次の週末のキャンプのために英気を養うということで二次会がなかったため、郵便ポストを二つ占領した後に解散となりました。
以上で、例会報告を終わります。
追伸
次の画報はちゃんとうけとれますように(笑)
新編集体制に移行してなにかと手違いがでるだろうと危惧していたら、なんと大阪例会のレポートの依頼を忘れるというミスをしていた。というわけで、いまこの文章を書いているわけです。
11月17日(日曜日)
良い天気。
昨日までの雨が嘘のような快晴である。おそらく大阪例会の日に雨が降っることは非常に珍しいはずだ。非科学的な説明は信じないのだが、やはり少しは日頃の活動の正しさ由にだと思ってしまうあたり因習から逃れられないのだろうか。
先月は個人的な事情で例会を休んでしまい久々の例会参加になったのだが、古くから大阪例会に参加していても変化の早いこの時代に二ヶ月ものブランクがあると時流についていくのが大変であった。
時流に乗れないままにではあるがなんとか気がついた内容をいくつか取り上げてみると、
例月の発送作業だが、今月は甲州画報以外にも恒例の隊員名簿や編集体制変更のご案内、参加者への忘年会のしおりなど発送物が多くて作業に時間がとられてしまった。そのため手違いで本来同封されないはずの忘年会のしおりが同封された人がいたかもしれないが邪魔になることもないだろうからご容赦いただきたい。
発送作業終了後はいつものように、いくつかのグループに別れて雑談が始まる。私は、「こうしゅうえいせい木星」の編集の打合わせを行なっていたため、他でどのような話合いがもたれたかは不明のままに終わってしまった。
また、編集長の辞任にともない新編集体制についても話合う必要が有ったのだが例会中は時間が取れなかったため、有志と強制的に編集者に引きずり込まれた数人で例会後に打合わせを行なった。
また、参加者が少なく二次会は行なわれなかった。二ヶ月も連続して二次会が行なわれないなんて堕落したなぁと感慨深い今日この頃。
ホームページという言葉を、こういった用途で使用するのは間違っているという意見がある。たしかのその通りであると、私も思わなくもない。 しかし、本来の意味がどうだったかにかかわらず、「ホームページ」はこの場合の意味で使われることが一番多い。すでに世間ではそう認知されてしまっている。いまさら「本来の意味」がなどと言っても年寄りの愚痴にしかならないのでしかたがない。 それに他に適切な(しかも一般に通じる)用語も思いつかないし。 |
今月初旬にやっと相模原から岐阜に帰ってきたと思ったら、今度は大阪だと。それも二月終わりまでの予定(宿は塚口)。長期の出張がこんなにあるとは思わなかった。(いや、会社の中でもこんな状況なのは僕ぐらいか)なんだか席の温まる間もない。
という訳で、せっかくだから十二月の大阪例会に参加させて頂いた。以下はその時の模様である。
場所は森ノ宮の市立中央青年センター、部屋は二部屋続きの和室。着いたのは午後四時過ぎで例会も終わりがけ(会場費の徴収が始まっている)。画報の発送作業はとうに終了していて、散発的に次のえいせいの執筆担当が話し合われているところであった。出席者は15人ほどか? これだけお子様連れが多いのも大阪例会ならではか。
ちょうど僕とほとんど入れ違いのような感じで、何かの打ち合わせでお見えになっていた大迫夫妻が帰って行かれる。
例会の議事進行はいつものように(?)冗談の連発に埋もれ、子供たちの嬌声も混じって、大変にぎやか。例によって天羽隊員、林譲治隊員、初代、現隊長らが、とばすとばす。
*ところで最近なんか妙にカムナビで皆さん盛り上がってらっしゃいますね。しかも聞いていると、いかにカムナビは読まなくてもいい本かを競って滔々と述べたてている模様。こうなったら、いかに読まなくていい本かを確かめる為に、読んでみなくてはいかんかなあ。
えいせい執筆担当がどの位決まったか筆者にはよく判らないうちに例会は終了し、撤収作業をしながら宴会場の策定が始まるが、何だか参加者が少なくてお流れになりそうになる。いつもの梅田ではなく近場なら楽だ、ということで、森之宮の駅前で飲むことになった。途中、さも当然のように郵便ポストを二つばかりオーバーフローさせながら、駅の方へ向かう。
二次会のメンツは…前記の初代夫妻、天羽隊員、林隊員の他、岩瀬、田中、中村、黒川の各隊員らが参加した。あ、それと筆者。
会場は、店の名は忘れたが、森ノ宮駅の裏手の創作中華料理屋。ジョッキより壜ビールの方が早いと言うからそっちにしたのに、ウーロン茶が出て来るのが大変おそかったので結局意味が無くなってしまった。
と、こんなどーでもいいような事を憶えているのに、その後の文系・理系の境界を縦横無尽に無視した(確かキーボードの話からはじまって仏教の教義にまで及ぶような)気宇壮大な放言やら、創作活動に対する意気込みの吐露やら、取り留めのない仲間内の近況(特に沖縄方面)やらが盛んに交わされていたその内容は、例によって酒精が綺麗さっぱり洗い流してしまったようである。
ビールも入ってひと段落着いたところで、酒飲み連中はビールから紹興酒に切り替える。というか、筆者が飲みたがったのが主な要因という話もあるが。これが結局二本空いて、だいたい満足したところで宴会はお開きとなった。(紹興酒はたちが良いので、ここで止めておけば後々幸せなのだが、そうも行かないのが酒飲みの業の深いところ)
*冒頭ちょっとケチを付けたが、実はこの店、料理はうまくて結構安かった。個人的には気に入った。天羽幹事、有り難うございました。
その後、帰りがけに梅田の駅直近のショットバーで、岩瀬隊員、田中隊員と三次会。ここは注文の品が届くたびにその都度代金を支払うという極めて堅実な営業形態をとっている。なかなか落ち着いた良い雰囲気のバーだったが、金を払うたびに一瞬、立ち呑みの一杯飲み屋に居るような、ちょっとした違和感を覚えたのもまた事実である。
各人趣味に走って好き勝手な銘柄のウィスキーを何杯かダブルで空ける。ここでも結構いろいろ話をしたが、やはり憶えてない。何か、尼崎から伊丹にかけての土地柄を田中隊員にいろいろ聞いたような気がする。
ショットバーでの話の中で、田中隊員ご推薦の怪しげなバーが出てきたので、さらに今度は彼と二人で同じく梅田ながら駅からちょっと東方向に離れたその店に行く。その頃にはもうかなり出来上がっていて、さすがにもうあまり飲めない。ちょっとだけそこのマスター(ゲイだそうである)と話をした後、テーブルに突っ伏している田中隊員を抱えるようにして帰途につく。ところが、帰りがけに阪急梅田駅で彼とはぐれてしまった。無事に家までたどり着けたのだろうか。自分は、とりあえず翌朝目が覚めたら宿に帰っていたのでOK。(いや、ちゃんとかすかな記憶はありますよ)
以上、一九九九年一二月度大阪例会レポート、一巻の終り。