2004年キャンプレポート

阪本[ツアコン]礼子

 今年のキャンプに、ほぼ毎年参加しているある隊員が参加しなかった。そして彼の参加はキャンプの成功の鍵を握るのである。
 彼の名は花原[まちゅあ]和之。彼の他に飯盒のご飯をうまく炊ける人間がいないのである。
 炊事班は途方に暮れた。ご飯がうまく炊けないといくらカレーが美味しくできても、どうしようもない。
 もう一つ問題になっていたのが熊である。
 北陸や山陰方面で熊が里に下りてきて民家に入り込んだり、作物を荒らしたりと連日のように報道されていた。石川県も例外でなく、甲州先生のお住まいの町内にも、キャンプの数日前に熊が出没したらしい。
 キャンプを行っている石川県の県民の森付近も熊が多いらしく、管理人さんからも毎回注意するよういわれている。人外協MLなどでも話題になったが、夜は食料や生ゴミを放置しないでおこうというくらいしか、対策も浮かばなかった。
 23日、いつものように賤ヶ岳SAに集合し、途中山中温泉に立ち寄って入浴したり、買い出し等をしてからキャンプ場に向かう。
 道中、「熊って山に食べるものがなくて人里の方に降りてるのだったら、もしかしたら山の中にはいないんじゃない」など冗談交じりに言っていた。
 そしてキャンプ場の管理人さんのお言葉は、「いやあ、クマ、いないよ」だった。本当に餌のない山を下りて人里の方にいったらしい。
 キャンプサイトに移動してテントの設営や食事の準備に取りかかる。
 いよいよ飯盒の準備。米を飯盒の蓋すくって鍋で研ぎ始める。飯盒に研いだ米を移して水を入れるのだけど、これでいいのかかなり不安。これは私一人で責任を負いたくないので、誰かを巻き込んで責任を分散させようと、近くにいた當麻ももちんに確認してもらう。
「ねえ、これでいいかなぁ」
「水加減多いみたいですね。もちょっと、お米足してもいいかも。まだ飯盒に余裕ありそうよ」
「うーん、また砥ぐのもめんどくさい。えええい、無洗米を足しちゃえ(米は普通のものと無洗米が用意されていた)」
 結局炊きあがりにムラができたのは、私の責任のようだ。
 飯盒をかまどにセットする。ここで火遊びしたい連中(初代など)がやってきて薪を組み火をつける。炎があがりだしたところに飯盒を移動させながら、蒸気が噴き出してくるのを待つ。
 このとき、飯盒の番をしたのは、今回初参加・人外協隊員ではないK氏。キャンプ初参加なのにいきなり重要な仕事につく羽目になったK氏は不安になりながら、初代に意見を求めた。
「ええい、焦げてしまうより開けて確認した方がまだましだぁ」
というわけで、蓋を開けてみると、どうも炊きあがっているらしい。
 そうこうしているうちに日は暮れて、カレーも完成する。一部の参加者は、すでにビールを片手に卓上七輪で椎茸やら魚やらを焼いて食していたので空腹ではないようだったけど、4人のお子様のカレーを所望する声に押されて、ちょっと早いけど(まだ6時前!)夕食に突入。
 問題のご飯は、外で食べるにしては上出来。一部に強烈なお焦げができていたが、みなもりもりと食べるので、少なめに炊いたご飯は足りなくなって、保険で用意していたうどんで、カレーうどんにアレンジされて、ようやく皆のお腹を満足させたのだった。
 結局、まちゅあが参加しなくてもご飯が炊けることが判明したのが、今回の経験をした参加者が来年もくるとは限らない。
 というわけで、飯盒でご飯を炊くことに自信のある方は是非参加して頂きたい。(厚遇保証つき)。
キャンプファイヤじゃなくて花火だ お腹も満足して、冷え込みが厳しくなった頃にキャンプファイヤーに移る。
 酒がまわった連中は昔懐かしい人外協ではおなじみの替え歌を歌ったり、花火をしたり、天体観測をしたり、キャンプファイヤに燃料を追加したりしながら夜は更けていった。
 やたらとキャンプ場の上の道を車が飛ばしていた。どうも全面開通した山道を迷惑野郎が走りに来るようになったらしく、その音は深夜まで続いていた。どうか私の前ではないところで事故でも起しますように、と願いながらシュラフに入った。
 翌朝はテントの外の話し声で目を覚ます。いつも朝一で起きてくるのは竹林夫婦である。
 お湯が沸かされ、ウインナーがゆでられ、パンがどさっと出てくる。寒さに震えながらもめいめいカップにスープを作ったりしてパンをかじる。8時すぎるとキャンプ場の管理人さんが車でやってきて声をかけてくれた。
「寒かったでしょう。薪、もってきてあげようか〜」
「いえ、大丈夫です〜(まだあるもん〜)」
「昨夜はねぇ、新潟で大地震があったんだよ。そっち方面に帰る人いない?高速道路も通行止めだよ〜」
「えええええ??????」
 そう、新潟県中越地震だった。ラジオのスイッチを入れるとNHKのラジオが震災地の状況を放送しているが、被災地の範囲や様子そして高速道路がどうなっているか、などいまひとつわからない。関西や名古屋に帰るメンバーは影響ないだろうことは予測できたが、関東方面から来ている甲州先生のお嬢さん方の帰りが心配になる。
「山を下りてみないことにはわからないねー」
と言っていたところに甲州先生の奥様幸さんが朝刊をもってキャンプ場に現れた。阪神大震災並の激震だったようで、みなびっくり。
 しかしながら、とりあえずキャンプを続行する。
 朝食からおやつらしきものまでを食べ終わりそのままバーベキューに突入かと思いきや、初代が
「散歩にいくぞー」
と言い出す。
散策、散歩、山登り ふと見ると甲州先生のお嬢さんの舞ちゃんと、MSG隊長は行かない。ま、いっか何人か留守番いるよね、と私も残ることにする。
 散歩組はキャンプサイト近くの展望台に続く山道を昇っていった。私たちはといえば、テントを干したり昼寝したりとのんびりと過ごしていた。と、1歳の恭也を抱えた、のぞみが息を切らせて降りてきた。どうやら赤ん坊連れにはきつい山道だったらしい。
「めっちゃしんどい!赤ん坊連れでは無理よ〜このみは絶対泣きながら帰ってくるでぇ。」
ぜぇはぁーと座り込んでしまった。
 しばらくしてゆかちゃんを抱いた當麻前隊長、新人隊員笠井くん、Nina妻、幸さん、麻梨香ちゃん、そして麻梨香ちゃんのお友達みずきちゃんに手を引いてもらってご機嫌のこのみが降りてくる。
 この一行もそれぞれに上着を脱いだり、あるいはさらなる高見をめざして進んでいったメンバーの上着を預かったりしていた。當麻前隊長はゆかちんをおろして、しばらくまっすぐたてない様子。泣きながら降りてくるに違いないと予測されたこのみは大好きなみずきちゃんを独占できて大満足だったらしい。
 さらに30分ほどしてから、ようやく頂上制覇組が降りてきた。足元はどろどろ、汗だく、明日以降の筋肉痛が心配されるような一行であった。
 後から聞いた話では當麻家長男友規くんが、途中の高見では絶対納得せず、泥濘んだり道が崩れている箇所も強行走破して、展望台まで到着したという。
 そこでしばらく休憩した後、さあ帰ろうかとすると友規くんが
「まだ道が続いているー(途中での撤退を良しとせず、うずうずしていたらしい)」
「俺はエベレストまではようつき合わんぞ。絶対降りる!」
初代対友規、この勝負はとりあえず友規が年長者に勝ちを譲った形になった。
 ただ竹林旦那が
「富士山くらいまでならつき合ってもいいぞぉ」
とのたまったそうな。是非10年後くらいに実行してほしいものである。
 ようやく全員が下山してきたので、バーベキューを始める。
 今年は海鮮バーベキューがメイン。干物の魚や大きなホタテ・サザエなどかなり豪華な内容。別テーブルではタコ焼きも焼かれた。かつては具にアーモンドチョコやらっきょうを入れる闇たこ焼きという故事もあったのだが、高騰するキャベツをタコ量にあわせて用意したので、まっとうなタコ焼きだけに終わった。
 そして最後に甲州先生ご夫妻お手製の焼きそばでバーベキューを締めくくり、撤収。
 キャンプ場の駐車場で記念撮影をしたあと、解散となった。このみはすっかりお気に入りとなったみずきちゃんとお別れするのがとても残念そうだった。
 さて、来年はどんなキャンプになるだろう。来年はまた熊注意なのか、来年の登山はどこまでいけるのか、飯は誰が炊くのか。刮目して待て!(ていうか、飯盒炊飯の得意な方、是非参加ください!)。




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