2003年キャンプレポート

馬場[低機動歩兵(希望)]貴之

◎まえがき
 えー、はじめまして。
 二年に渡って忘年会レポートを落とした馬場[低軌道歩兵]です。
 今回こそは、と03年度のキャンプ報告に取り懸かったはいいものの、“何故か”執筆が遅れに遅れ(毎日定時に、工場の敷地内の寮に帰っているのに、どうして執筆時間が1時間しかないんだろう)、このレポートも、間に合うかどうか怪しいところです(苦笑)。
 しかも、こんなときに変換ソフトをATOKからVJEに変えたりしてるし。
 ……言い訳はこの辺にして、キャンプ報告に行きましょう。

◎2時過ぎ 私一人で到着
 本来なら、キャンプの告知メールにもあったとおり、山中温泉で落ち合う筈だったのですが、メールにあった電話番号を書き写し忘れ、連絡の取りようもなく、一足先にキャンプ場に向かうはめになりました。
 もちろん誰もいるわけもなく、仕方なく、キャンプ場を一回りすることに。
 あのバンガローにいるのが甲州さん一家だろうか、とか思いながら(もちろん人違いでした)キャンプ場の奥に進んでいくと、例年人外協が利用していたらしいケビン(県かどこかのテントが建っていました)のある辺りに案内板が。
 その昔、一向一揆に追い立てられ、逃げのびた先でも移住を拒否された上新保の民の安住の地が、今、キャンプ場があるこの地だったとか。
 車で資材一式持ち込んでのキャンプならともかく、とても定住に向いてるようには見えない山奥の地で、彼らがどのように暮らしていたのか。
 まさしく甲州ファンのキャンプにふさわしい地だと確信しました。
 ちなみに上新保の集落ですが、洪水で村が壊滅し、たぶん明治政府によって村の全員が北海道へ移住したとか。
 キャンプ場の端まで行って戻ってみると、皆さんが来ていたので、そのまま荷物運びとキャンプサイト設営のお手伝い。

◎3時頃 キャンプ参加者御一行到着
 キャンプ場からバンガローへ荷物を運ぶ途中、やたら高い処から無闇に長い糸でぶら下がっているミノムシを発見。
 この時は、蓑の中に入っているのは雌の成虫で、雄を誘うためにこんなところにぶら下がっているのかとも思いましたが、このレポートをを書くために
 http://www.synapse.ne.jp/~viola-kk/2002/oominoga/2002-2minoga.html
で調べてみると、やっぱり違うらしい。その場で余計な事を言ってたら恥をかくところでした。
では何のためにあんな所に居たのかというと……
 何故?

◎4〜5時頃 甲州さん夫妻到着
 あれだけごつい小説を書くのだから、どんなごつい(体格のみならず)人かと思ったら、意外と普通の方でした。
 私と同じくキャンプ初参加の室橋さんが、上下が逆で富山県が中心の、『環日本海諸国図』や、ビーチボール地球儀など、いろいろ賄賂を持ってきて献上してました。
 私も、何か持ってくれば良かった。
 十月末とは思えない陽気とはいえ、流石に陽が落ちると寒くなってきます。
 用意してきたセーターと股引きが役に立ちました。

◎6時頃から 夕食
 夕食は、毎年恒例らしい飯盒炊爨のご飯を使ったカレーライス。
 しかし、食べきれずに捨てられるのまで毎年恒例とは知りませんでした。
 アルミホイルに包んで竈で焼いた、ホクホクの焼き芋も同じ運命をたどると聞いて、私の中のもったいないお化けが目覚めました。
 ところで、管理人さんが外灯を点け忘れたまま帰ってしまったお陰で、日が暮れるとキャンプ場は真っ暗になってしまったのですが、お陰で、自然の闇の深さを感じられる、なかなか雰囲気のあるキャンプになりました。
 コヒーレントな赤光を放つ火星も見られたし。
 みんなキャンプファイヤーから離れなかったし。
 雄大君は、原子核の周りの電子殻よろしくキャンプファイヤーの周りを走り回るし、カール君は薪をくべることに情熱を燃やす。
 情熱を燃やしすぎて熾火用の大きい薪まで燃やそうとしてましたが。
 薪をくべると煙が出る、しかし暗闇の中では見えづらい。と言うわけで(どういうわけだ)光を絞ったマグライトのビームで煙を照らしていると、突如LEDライトセイバーで斬りかかられ、そのまま切り合いに発展。なるほど、ネタというのはこうして出来るのですね。
 このキャンプファイヤーのもとで交わされた会話ですが、林譲治さんの新作の話題以外は、完全に揮発してしまいました(汗)。
 そちらの方の内容を知りたい方は、室橋さんのレポートを読んでください(苦笑)。

◎11時過ぎ 就寝
◎翌朝 6時過ぎ 起床
 寒さと慣れない寝袋に耐えかねて起きてみると、すでに起きてる方が居たので、そのまま朝食の準備を手伝うことにしました。
 昨夜、キャンプファイヤーに情熱を燃やしていたカール君が、すっかり竈の番人に。 もしかして、危険な火遊びを教えてしまったのではないでしょうか。
 火をおこしていると、カール君共々、竜野さんにSAS特製のコンロで焼いたベーコンエッグを頂きました。どうもごちそうさまでした。

◎7時頃 朝食
 メニューは、甲州さん夫妻持参のパンと、各種カップスープ、ゆでウインナー。
 この後も食べ続けることになる、と言われていたので、控えめにはしていたつもりですが、それでもパンが2〜3個、ウインナーが……たくさん。
 この時期は昼夜の温度差が大きいですが、皆さん暑くなったらしく、脱いだ上着でテーブルが埋まってしまっていました。
 私もセーターと股引きを脱ぐため、一時バンガローに戻りました。
 しかし、そんな中でも子供たちは元気ですね。
 忍者ごっこをして走り回ったり、川に水遊び(!)に行ったり。
 私はとてもついていけないと思ってたんですが、亜美ちゃんがキャッチボールをしているとき、後逸した球を回収している(前日、二度に渡ってボールを川に流していたので)と、いつの間にかキャッチボールの仲間にされてしまい、そのまま球遊びに興じてしまいました。

 ※この時、亜美ちゃんの鼻面にボールをぶつけてしまいました。ごめんなさい。

 流石に寄る年波には勝てず、10時頃ダウンしてしまいましたが。

◎12時頃 昼食
 いよいよバーベキュー大会の始まりです。と言っても、ずっと何か食べていたような気がしますが。
 もったいないお化けの命ずるままに、昨日の残りの焼き芋をバーベキューコンロの中に放り込んだりしていると、迷惑メールの代名詞となった、かのSPAMが。
 一口食べてみると、缶詰めにもかかわらず、干物に匹敵する塩辛さ。
 そりゃ、こんなもん送りつけられたら迷惑でしょう。
 これをおにぎりの具にすることを思いついたのは誰でしょう。 試してみると、けっこういける、と言うか、味が判らないうちに飲み込める。

 ※そこまでして食べなくても。

 もったいないお化けフル稼動で、残ったご飯を全部焼きおにぎりにしたら、見事片づきました。
 焼き芋の方は、うまい片付け方が思いつかず、結局残ってしまいましたが。
 その後、一休みしてからキャンプの撤収。
 帰る直前に頂いた甲州さんの奥さんお手製のケーキは、本当においしかったです。

◎3時頃 解散
 その後、道に迷いまくって、結局帰りついたのが10時過ぎになったのは秘密です。

◎感想
 キャンプに参加するのは初めてでしたが、特に戸惑うこともなく、まったりとした一日をすごせました。
 その分皆さんに負担がかかってたのでは無いかと気が気じゃありませんが。
 次回への課題は、防寒対策ですね。今度は新聞紙でも持ってきましょうか。

 ※夜露で湿気ると思う。

 本当は、カメラを持ってきて、乏しい記憶の代わりにすれば、レポートの作成も、もっと楽になったんですが……
 その前に撮影技術を用意しないと。

#それにしても、どうして使い捨て懐炉を持ってくることを思いつかなかったんだろう。


2003年キャンプレポート

室橋[きまぐれ検索官]真

 毎年恒例の人外協秋のキャンプが今年も10月25日(土)〜26日(日)の2日間にわたって石川県県民の森で行われた。
 私は午後3時20分頃着いたのだが、すでにキャンプ場ではテントの設営が始まっていた。「この時期にキャンプする人は滅多に居ない」という事前情報を信じていた私は、先にテントを張っていた家族連れに「人外協ですか」と尋ねて、不審な顔をされてしまった。
 設営、食事の準備が整ったところで、全員の自己紹介が行われた。25日からの参加者は谷甲州一家、フィリピンから来たカール君、磯崎さん、大井さん、落合親子、小宮さん、阪本夫妻、清水一家、竹林夫妻、竜野さん、中谷親子、花原夫妻、馬場さん、室橋の25名。
 カレーを食べながら、甲州先生が「週刊ブックレビュー」に出演する話のほか、ダイビングや、銃剣術や、介護や、ヨーロッパの小国の話などなどを続けているうちに、キャンプファイアーへ。引き続いて話は延々と続き、隆盛君はその周りをえらい勢いで何回も走りまわっていた。
 キャンプファイアーの途中で早々と酔いつぶれた小宮さんを寝かせるため、竜野さんと2人してバンガローに運んだが、バンガローの鍵を持っていた竹林幹子さんが近くにいなかったので、あちこち探しまわって、やっと管理事務所の先の林道を、我谷ダム側から歩いてくる竹林さんを見つけた。竹林さんだけでなく、知らぬ間にキャンプファイアーから消えていた他のメンバーも一緒にいた。
 今回、林道の我谷ダム側は工事中ということで通行止めになっているので、県民の森に入るには今立町側から入るしかなかった。聞くところによれば、昨年も同じように通行止めだったらしい。しかも翌日花原さんから聞いたところによると、地元の警察もこの通行止めを知らなかったという。山の中の道路で、警察も知らない工事中通行止めが、1年以上にわたっているとすれば、秘密の何かがその先に在ることを疑わなければならない。
 人外協で秘密のものといえば、秘密基地にちがいない。昨年の『画報』には「はやしじょうじひみつきち」が掲載されていたし、「こうしゅうひみつきち」の写真が公開されたこともあった。人外協は秘密基地を作る団体なのである。その人外協が毎年同じ場所でキャンプをしているからには、近くに秘密基地があって当然である。
 私は今回初参加なので過去のキャンプについては知らないのだが、キャンプの目的のひとつはここにある秘密基地での秘密作業であるのだろう。その基地に入るための鍵を、バンガローの鍵と共通にしてあるため、メンバーはバンガローの鍵を持ち歩いていたに違いない。
 その後、またキャンプファイアーを囲み、語り合っていたが、少しずつテントやバンガローに引き上げていった。最後まで残っていた阪本さん、落合さん、大井さんも、午前1時頃に雨が降り始めたので、引き上げていった。

キャンプの状況 翌日(26日)は、朝食の後、昼食までの腹ごなしということで、上流に向かって十人ほどのメンバーと散策をした。そのうち何人かは「ケビンまで競争だ」と言って猛然とダッシュして走り去っていった。私を含む残りのメンバーはゆっくり歩いていった。ケビン前で走り去ったメンバーと合流し、炭焼き小屋まで歩いた後、キャンプ場に引き返した。
 昨日到着時に管理事務所に寄ったところ、「白山のツキノワグマ」という熊対策のパンフレットがおいてあり、「接近遭遇してしまったら」などと、事故を防ぐための注意事項が詳細に書かれていた。今回のキャンプでは熊には遭遇しなかったし、何人かに聞いてみたが、ここで熊を見たという人はいなかった。しかしパンフレットがある以上このあたりに熊が生息しているのは確かなのだろう。
 私は今回初参加なので過去のキャンプについては知らないのだが、かつてキャンプで熊に遭遇したこともあったのではないか。遭遇したとき、一般の人々ならばパンフレットどおりに逃げるだけであろうが、熊の生態や狩りの方法、マタギの作法についても熟知している人外協のメンバーが逃げるだけのはずはない。熊を仕留め、皮を剥ぎ、肉や熊の胆(胆嚢)など必要な部位にしかるべき処置を行いとりわけた後、作法に従い丁寧に葬ったのにちがいない。ケビン前にはその作業に使った何かが残されていたので、ダッシュしたメンバーはそれを新参者の私の目に触れぬよう隠したのにちがいない。熊に遭遇したのは今回引き返した炭焼き小屋より上流側のどこかなのだろう。
 さて、バーベキューや焼き秋刀魚を堪能した後、午後2時頃から撤収作業を開始。終了寸前に小森一家(3名)が到着し、記念撮影をして解散となった。


2003年忘年会レポート

阪本[ツアコン]礼子

 まだ忘年会には早かろうといわれようと、幹事の私はこの日が都合が良かったんだから仕方ないじゃないか、という11月29-30日、土曜日は全国的に大雨という悪天候のなか人外協の忘年会は行われた。今年は遠き神代よりの国造りの島淡路島の北端に宿をとり、参加者が三々五々集ってきた。
 集団渡航ツアーに参加するため、明石駅に午後3時に集合してきた一部参加者は車と徒歩に分かれて、淡路島に向かうたこフェリーの港に向かった。一人遅れてきた小宮さんは先行した私たちに追いつくべく、新幹線を使用し、さらには明石駅からタクシーを使うという暴挙(明石駅からフェリー乗り場まで徒歩7〜8分)を経て、たこフェリーに乗り込んできた。
「そんなの小宮さんじゃない」
「雨の中匍匐前進してやってきてこそ、小宮さんだぁ」
などと責めている間に、船は明石港を出発した。明石海峡大橋を通過して約15分で淡路島の岩屋港に到着する。途中淡路島に近づいたところで、今夜泊まる淡海荘の前を通過すると、先に宿に到着していた中矢さんが手を振っているのが見えたので、甲板にいた私たちも手を振り返すという暖かい光景もみられ、岩屋港まで迎えにきてくれた新米隊員の大井君の車に分譲する。

タコフェリー
中矢さんに手を振る集団渡航の一行達
写真では豪雨は省略されています。

 荷物などをおいて、早速風呂に。ここの風呂は明石海峡大橋を望む展望露天風呂で、眺めがよい。しかし橋の全景はあいにくの雨にけぶっていた。5時くらいから男性部屋ですでにビールなどがあけられて、しかもまだまだ新婚初心者の花原さんのもってきたツマガリのシュークリームやミルクせんべいやら食べるなど、この後の宴会で負けになることを恐れない隊員たち。
 宴会は明石海峡大橋がよく見える宴会場で。鯛・ヒラメ・伊勢海老の舟盛りや鯛の宝楽焼などの料理、立ち並ぶビール、追加されるお銚子。はるばるチリから参加した小野塚さんのイラクではなくイクラにまつわる鬼気迫る逸話から、なぜかいきなり「1トンでもにんじん〜♪」と歌い出す竹林ぷうちゃんなど、宴会は大いに盛り上がった。
部屋に戻ると早速宴会の続きが始まる。冷蔵庫のビールを飲み尽くすのはもちろん各自が食べたいものを持参しているため、テーブルの上は様々なものが並んでいた。中でも佐野さんの持ってきた長野名物ざざむし・おかいこ・いなご・蜂の子は果敢に挑む人、おそるおそる1匹だけつまむ人、「いやぁ」と背ける人など様々。私もざざむしに挑んでみたが、最初は「お、いけそう」と思いきや、あとからなんともいえないえぐみのような物が口の中に残って、思わずチョコレートを口直しに食べてしまった。チョコレートはいい面の皮、か?なんともいえない珍味であった。
 そんな中、仙台からやってきた阿部さん夫婦の持参したずんだ生クリーム大福は絶品だった!だだちゃ豆のずんだと生クリームがふんわりとしてとても美味。満腹でなかったら、私は3個くらいいける〜と思う。おもわず帰ってきてからURL(井ヶ田)を探し問い合わせをして早速取り寄せの注文をしてしまうくらいであった。
 夜遅くまで宴会がつづいたものの、皆さん年をとって無茶な飲み方をしなくなったためか、朝食時につぶれている人はいませんでした。もっとも、鬼頭さんだけは行方不明となっており、仲居さんらに指名手配され全館あげての探索が行われていたりしました。
 ここまで書いた時点でチリから忘年会レポートが届いた。どうやら宴会の席で依頼したらしい。せっかくなのでそちらへスイッチ、


忘年会報告

小野塚[shine]真

 いつの間にか、忘年会のレポートはわしが書くことになっておった。来年ソウルで行うであろう忘年会の幹事もわしらしい...。なんか陰謀を感じるわけだが、まぁ、忘年会レポートである。

そんな小宮さんは小宮さんじゃないやい
 時は2003年11月29日。東京は朝から雨(まぁ、全国的に雨だったらしい)。6時に出社、仕事をチョコチョコやって(うーん8月以降、土日も区別なく働かせられているのに、給料が上がらない)、11時頃、東京駅へ。
 東京駅で小宮さんに電話する。
「いや、新幹線乗り遅れちゃって・・・」と小宮さん。「?」新幹線って乗り遅れるものなのか?と疑問に思いつつ、のぞみのチケットを買う。
 新幹線に乗り込むと発進の音楽が 「びぃ~あんびしゃ~す」になっていた。とりあえずビールを飲んで爆睡。新神戸でこだまに乗り換え、西明石へ。JR西日本の音楽は「いい日旅立ち 西へ」だった。
 明石に着くと改札の前に初代、ツアコンさん、阿部さん夫妻、佐野さん。馬場さんも到着済みの事だが、どっかに行ってしまっている。
 ツアコンさん、いきなりわしの腹をさわり『やせてないじゃん』と、きついことを言われる。また太り始めたしなぁ...。
「小宮さんは新幹線に乗り遅れたらしく」と報告をすると、皆さん口々に
「何で小宮さんは鈍行でこないんだ!」
「小宮さんが新幹線に乗るなんて事はない!」
「夜行バスでくるんじゃないの?小宮さんだし」
 みんなにワイルドな人と思われている小宮さん...。
 どうも、馬場さんが見当たらないのだが、ツアコンさん、佐野さん、わしはフェリー乗り場に移動することに。阿部さん夫妻、馬場さん、初代は初代の車で来るらしい。
 で、雨の中をフェリー乗り場まで行き、道すがら小宮さんに電話する。
「今、明石です」
「うーん、じゃぁ初代に拾ってもらいなよ、初代に電話してみぃ」
 フェリー乗り場で佐野さんがいった。「まさか、小宮さん、タクシーで来たりしないよね?」
 そこにやってくるタクシー。いや、タイミングよすぎるし...。まさか小宮さんじゃないわね、と思ったら小宮さん、タクシーに乗って登場。
 みんなにフェリー上で、「おまえなんか小宮さんじゃないやい!」と言われておる小宮さんでありました。

虫はうまいか、すっぱいか
 旅館に着くと、既に大井さん、竹林夫妻、花原夫妻、島田夫妻が到着済み。
 しばし歓談である。歓談と言えば聞こえはいいが、まずは林譲治著「記憶汚染」の品評会である。(わしはこの時点で読んでいなかったので、良く分からず)
 ただ、強烈な結論として「この作品は80年代に神林が書いていたら傑作だったんだよな」と言うのが、記憶に残っている。あと、附箋入りの文庫本。
 みんなでフロ。狭い露天風呂を我々で占拠してしまう。
 風呂上りはビールである。
 佐野さんが持ち込んだ「信州キワモノ佃煮シリーズ」をみんなで食す。ざざ虫、イナゴ、蚕、あと蜂の子だっけ?これはこのまま食えるとか、酒が一緒なら食えるとか、言いたい放題だったように思います。結局、何品かは手がつけられず、そのまま信州にお帰りなったように思うのだが...。
 阿部さんが受けたクレーム「携帯電話のメモリーを消去した為、大事なメールを受けられず、会社を首になった。だから生活を保障しろ」(この話は阿部さん、クレームマニュアルとか書いてください)の話から「社長をだせ!」(宝島社刊川田茂著)の話に飛び火。
「撮影旅行で撮影に失敗したのは、カメラノせいだ。オーストラリア旅行の費用をかえせ」とか、世の中色々。
 中小企業に勤める私にとっては社長が出て行くのは日常茶飯事なので、うーんである。
 そんなこんなで、鬼頭さん到着。
 うんでもって、なぜ携帯各社は電波時計を導入しないか!なんて話をしてましたな。
 で、6時30分。宴会突入。

宴会だ!宴会だ
 鯛の蒸し焼きは美味しかったです。お刺身はまぁまぁかな...。
 鯛のハラスをつかったお茶づけはうまかったです。
何を話したっけかなぁ...と思い出しますと、
 日本ブレイク工業の社歌
 バカ日本地図
 なぜ外人にゆっくり話してくれと頼んでも「あなぷる」になってしまうんだろう「アン アップル」
 あとなんだっけ???誰かにイクラを1MT送ると言う約束をしたような気がするが...気のせいであろう。
 みんなお酒が弱くなったなぁ..と言う感じでした。
 うーん、この日、H−2Aは宇宙開発機構での初打ち上げに失敗と言うニュースが走り、なんでだぁ!と言う声がすごく上がっていたのでした。てこともあったなぁ。

こんな状態で4年も
 朝起きて、初代、カークさんと昨日の宴会場所に朝食をとりに行く。我々を除く全員が集まっていた... とおもったら、鬼頭さんがいない。誰にも言わず帰ってしまったか、鬼頭さん?それとも海におぼれたか?仲居さんも心配してくれて、色々探してくれたのですが、おらんのです。鬼頭さん。
 食事が終わる頃に、鬼頭さん登場。一人でお風呂に入っていたとの事。みんな、心配していたんだじょ、鬼頭さん。
 朝食を終わってまたしてもニュースが走る。イラクで外務省職員が殺される。
 まいったなぁであります。
潜水艇 チェックアウトして、明石海峡大橋のたもとへ。
 潜水ポットがあり、これに何人が入れるかとか、これが大人のやることか?って感じで明石海峡大橋の橋の下でたむろ。
 それから、車4台(初代号、花原号、竹林号,大井号)に分乗し阪神大震災の震源地へ。
 しかし、淡路島、確か兵庫県。兵庫県と言えば甲子園があったり、神戸があったり、都会のイメージだが...信号が一個もない。ホントに、兵庫県か?淡路島。
 で、震源地の野島断層にいくと、そこには何故か風車が。
 この風車については各車で
「いや、風車はけしてエコロジーじゃないと」とか、「アレは地球の自転を加速するマシン」だとかいっとたらしい。
野島断層 で、震災記念館へ。阪神大震災で元となった、野島断層に屋根をつけ、天然記念物として保存しているとの事。この断層を、後から来た別の組に追い越されること数回、時間をかけて堪能したのでありました。
 断層の横に一軒家が当時のまま残っていたのですが、阿部さんの
「いや、全く、あんなに食器類やら散乱した状態で、よく四年も住まわれたモノですね。」の一言に納得する一般のおばさんたちがおりました。もっと尾ひれをつけてほしかったすよ、阿部さん。
 鬼頭さんも『ここに家を建てれば、あと2000年は地震はこない』なんて飛ばしておりました。

隠れた掘り出し物
 阿部さん、佐野さんは姫路城へ。我々は本土側の明石海峡大橋のたもと(アンカレイジパーク)へ。
 まずは地上40数メートルの橋の展望台へ。
 床がガラスになっていて真下が海になっているので、そこで飛び跳ねたり、あのキャットウォークを歩いてみたいとか。
 その後、欄干の鉄塔にトップに取り付けられたTVカメラを占拠して、色々な角度で橋を見て盛り上がっておりました。
明石海峡大橋 エレベーターで地上に降りてくると、TVモニターで橋を建造する為の風洞テストや構造材のテストに関するビデオ映像が流れており、みんな釘付けです。
プロジェクトXもどきっていうか、まんまプロジェクトXなんですが、いやぁすげぇ。
 これがビデオじゃなく、DVDなら買ったのにねぇと竹林さん。
 さて、後から思うとこれがメインイベントだったなと勘違いをしてしまいそうな「橋の科学館」であります。
 最初、売店で記念品を物色していると、パイロットロープのキーホルダーや、ケーブル素線、ケーブルストランドみたいな、役に立たないが食指を動かされる品物が目白押しでした。
 10数名で展示室に入っていくと、初老の方が近づいてきてご説明しましょう、と言ってくれました。後で知ったのですが、この方は『橋のマイスター大塚さん』で、明石海峡大橋の土台の基礎工事をされた方でした。
 大塚さんのご説明が非常にうまく、また〔当たり前のことですが〕技術的質問にも的確に答えていただいて、ほんと、好奇心刺激されたです。
 風洞実験用に作られた全長40mの模型は1億円で、これの実験のために筑波に風洞設備を新設したとか(ちなみに4mの模型は数百万)、ケーブルは一本棒を集合体にしたもので、普通のケーブルのようによったものではないとか、阪神大震災で長さが1mくらい伸びたとか、ほんと興味深く、見学させてもらっちゃいました。
 橋のマイスターは大塚さんのほかにも4人おられるので、次回は島田さんの説明が聞きたいな、と思う小野塚でありました。
 そんなこんなで今年の忘年会は終了であります。
 さてさて、来年の忘年会は韓国ソウルと言うご希望が出ています。韓国で会いましょう。
 あと、お約束のいくら1トンは現在手配中です。年末までには常温宅急便で届けたいと思いますので、お待ちください。阪本さん、竹林さん。


 約束のイクラ1トンは一月後に到着しました。しかしイクラも1トンとなると宅配便やが自宅まで配達してくれないので、営業所まで引き取りにいくことになり、、、正月も近いので我家で消費しきるのは諦めて帰省先に900kg程度は押し付けてくることになるやもしれません。


明石海峡大橋に関しての注意事項

阪本[初代]雅哉

 今回の忘年会では明石海峡大橋の淡路島側と本州側の両端のたもとをおとずれた。
 ところで、この明石海峡大橋はよく明石大橋と呼ばれることがあるが、明石大橋は国道2号線で明石川を渡るときに通過するごく普通の橋である。(ちなみに現在(2003.12)橋の掛け替え工事中)
 明石海峡大橋という名前のせいで勘違いしている人も多いが、この橋は神戸市と淡路島(たぶん北淡町)の間にかかっているので明石市とは直接はなんの関係もない(と思う)。
 しかし、たとえばJR明石駅を降りるとそこに“吊り橋をイメージした図”と“海峡の町”と書かれたものを目にする。この事実から明石の誰かもこの誤解を助長する作戦を取っている可能性はある。
 いや、まぁ、神戸も明石も地元の人間以外にはそんなにたいした違いはない。私だって子午線のそばに住むようになるまで、東灘と元町の間の山と海の隙間以外のどこまで神戸市が広がっているかなど気にしたこともなかったし。
 だいたい明石海峡大橋を明石大橋と間違えて呼んでも、誰も勘違いしないだろう。というか、明石大橋を呼称したいときに困ることになるが、そんな機会は生涯訪れることはないだろうから別にどうでも良いか。




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