2001年人外協キャンプ&ダイビングレポート

キャンプ&ダイビングレポート

猪塚[秘書室長]慶彦

 7月20,21日に行われたキャンプ&ダイビング。甲州先生御一家と潜ろうを合言葉に行ってきました。
 計画としては20日にダイビングを2本行い、21日はゆっくり昼ご飯でも食べながら解散というものでした。海の中の親子
 その前日睡魔には勝てず寝てしまい、翌日起きてからの準備をおこないました。そのため、予定より1時間近く遅れての出発となりました。ダイビング&キャンプだということを理解していなかったのですね。通常の倍以上時間がかかるんですね。
 そういう訳で集合場所である『ダイブセンターログ』に到着したのは集合時間ちょうどでした。
 が、その場にいたのは竹林夫妻と小宮さんだけでした。その後すぐ甲州先生ご一家とも邂逅でき、大阪組が『真の渋滞』を経験していることを聞きました。
 どう考えても予定時間の1本目には間に合いそうにないことを確認した私たちは非情にも大阪組のことを切り捨て、とりあえず潜ることにしました。
 その際、残念なことに甲州先生の奥様と娘さんの舞ちゃんがダイビングに参加できず結局甲州先生と麻梨香ちゃんとのダイビングとなりました。小宮さんは暑い中、元自衛官という利点をいかしてお留守番。どういう利点なのかは小宮さんではないので判りませんが。ライセンスを忘れて「ごめんなさい」って書いた人が若干名いたような気もしますがまぁ、たいしたことじゃないですね。

 海の中はきれいでした。ビーチエントリーでもすぐ深度が深くなるので、わざわざボートを借りるまでもないというくらいロケーションは最高でした。ただ、はやり日本海ですから塩をつけて焼くと美味しそうな魚が多いように思えたのは基本ですね。
 1本目が終わりさて2本目という時になんらかの勘を働かせて『真の渋滞』から抜け出してきた落合車が到着。今なら間に合うということで申し込みを行い、2本目を一緒に潜ることにしました。
 問題は未だに『真の渋滞』を思う存分楽しんでいる阪本車です。2本目すら間に合わないことが判りました。その時点で「翌日も潜ろう」となりました。
 と、いうわけで2本目。今度は谷家、竹林家、落合、黒川、私の7名でのダイビング。1本目はダイビングセンターのすぐ目の前からのエントリーで2本目は200mほど歩いたところからのエントリーと2つのエントリー場所があるのはうれしいところでした。ちなみに小宮さんはまたもや留守番で、落合パパの身代わりをしていたようでした。2本目から上がると阪本車の4名が到着していて、我々を出迎えてくれてました。
 翌日は通常のキャンプですとぐだぐだと昼過ぎまで食べていたりするのですが、その日もダイビングということで12時前にはキャンプ場を出ていました。この日も甲州先生の奥様と舞ちゃんは用事があるということでダイビングは参加できませんでした。今まで麻梨香ちゃんと舞ちゃんのダイビング本数が同じだったのにここで一気に4本も差がついてしまったそうです。
 この日のガイドは「センム」と呼ばれている寒いダジャレが好きなダイビングセンターの社長と女性の方でした。海中では岩が結構あり、コースはいろいろ取れるためこの日のコースは昨日とは違っていました。
 今回はフルメンバーでしたが、小宮さんは昨日と同じように落合家のパパとなりすまし家族3名で楽しく近くの海岸で遊んでいたそうです。そう言えば、2日目の1本目で通算100本目なのにてっきり忘れて2本目にお祝いをした人もいました。自分から言うのが恥ずかしかったからかも知れませんが。おめでとうございます。

 そんなこんなで2日間充分楽しんで潜らさせていただきました。
 また、甲州先生ご一家とダイビングする機会があればぜひ参加したいと思っています。えっ。次は海外?


キャンプレポート(ダイビング含まず)

小宮[退役空軍注意]一之

 7月20、21日の二日間にわたり、甲州先生ご一家をお招きした上、人外協有志によるキャンプ&ダイビングが行われました。私も参加させていただきまして、楽しいひとときを過ごすことができました。以下、そのときの模様です。

第0日
 品川発大垣行きの夜行列車で西へ。指定席がとれなかったので、結局名古屋まで立ったままで行くことに。立ったまま眠れるというスキルを持っていることが、これほどありがたかったことも少ない。

第1日
 鈍行列車を乗り継ぎ、ようやく武生に到着。北陸だから涼しいだろうと思ったのですが、朝の9時だというのに、気温はすでに30度オーバー。駅の近く(でもないか。少なくとも炎天下を歩きたくなるような距離ではなかった)でレンタカーを借り、ダイブセンターへ。どうでもよいようなことですが、しっかり書いておきます。武生のレンタカー屋は高い。某大手チェーンの5割増の料金を取られました。これなら福井まで足をのばして、そっちで借りればよかった。どうせ青春18切符だから鉄道運賃は変わらないんだし。まあ、下調べが不十分だった私が悪いんですが。
 少し時間が早すぎたので、食事をとったりしながら、12時少し前にダイブセンターログに到着。ところが竹林ご夫妻しかいません。聞けば、大阪組は名神高速の事故渋滞で、到着がいつになるか見当もつかないとのこと(帰宅後確認したところ、東京版の新聞にもしっかり載っているほどの大きな事故でした。幸い死傷者はいなかったようですが)。しばらくして猪塚さんが到着しますが、甲州先生ご一家(部活の舞ちゃんをのぞく)はさらに遅れて到着(実はスピード違反で福井県警に捕まっていたのは内緒。毎月0のつく日は取締強化日らしい。福井県内で自動車を運転するときは要注意)。
 甲州先生ご一家が持参されたいなり寿司と太巻き(美味しゅうございました)を食べながら、今後の予定について話し合い。大阪組の到着を待っていたらいつになるかわからないということで、甲州先生ご一家(ただし幸さんは舞ちゃんを駅まで迎えに行くため不参加)、猪塚さん、竹林ご夫妻だけ先に1本目のダイブへ。Cカードを忘れた人は一筆書いて署名捺印とかスタッフの人にいわれていたんですが、どうしてみんな指紋押捺の方法にやたらと詳しいんだろう? ちなみに私も正しい指紋の押し方は知っていますが、どこで取られたのかは内緒。キャンプ場
 私はダイビングはしないので、とりあえず荷物の番&仮眠。なので、海の中で何があったのかはわかりません。ダイビングのレポートは、たぶん他の方が書いてくださると思います。
 1時間弱で、ダイビング組があがってきて、相前後して、部活を終えた舞ちゃん、隊長ご一家、黒川さんが到着。初代ご一行はまだ高速の上のよう。結局、まだ到着していないメンバーは1日目のダイビングはあきらめ、2日目にもダイビングの予定を組み込むということに。ちなみに初代様は今回が記念すべき100本目のダイブということで、かなり悔しがられていたとのこと。
 しばらくしゃべったりした後、ダイビング組はこの日2本目(遅れて到着の大阪組は1本目)のダイブに向かいます。私は管理人さんが帰る前に受付をする必要があるということで、一足先にキャンプ場へ。
 このキャンプ場、管理人さんがかなりアバウトでございまして。受付の用紙に人数を記入する際、私が指を折りつつ人数を思い出そうとしていたら「ああ、適当でいいよ」レンタルのテントを3張り借りたのですが、これが請求書に載っていない。まあ、安く上がる分にはいいか。
 しばらく待っていると、初代ご夫妻、林さん、それに非隊員の大井さんがキャンプ場に到着。荷物を下ろしたり、テントを張ったりしているうち、日も傾き、ようやくダイビング組も到着。
 普段の秋のキャンプだと、ここでカレーを作ったりするらしいのですが(私は秋のキャンプは未経験なのでよくわからない)、今回は時間が余りないので、バーベキュー主体のメニュー。アルコール燃料も配られましたが、翌日もダイビングの予定があるということで、みなさん深酒は謹んでおられたようです(当社比)。
 火を囲みつつの話題など。

 いつもの秋のキャンプでは、深夜まで騒ぎ続けるらしいのですが、やはり翌日を気にしてか、日付の変わる頃にはお休みになったようです。

第2日
 朝からだらだらと食事。幸さんと舞ちゃんはやはり部活の関係で一足先に帰宅。麻梨香ちゃんはやおら物理の宿題を始めます(この模様については、初代様がMLに流していますので、そちらを参照してください)。
 昼食は人外協キャンプ名物(らしい。何しろ初参加なのでよくわからない)の流しそうめん。流しそうめんをやった水道の脇に「生水は飲まないでください」という札が転がっていた事実は、無かったことにされたようです。
 そうめんをつつきつつ

流し素麺 そうめんを食べ終え、資材などを撤収。再びダイブセンターに移動します。
 ダイビング組(ほぼ全員だが)、特に前日潜れなかったメンバーはいそいそと準備。落合のぞみさん、それにこのみお嬢さんは近くの海水浴場へ。私も黒川さんから海パンをお借りして、海水浴場へ。海水浴場といっても、防波堤の内側で、なんだかプールで泳いでいるような感じでした。一応外海とはつながっていて、魚なども入ってきているのですが。ちょっと泳いだだけですっかり疲れ果ててしまい、体力の衰えを実感。鍛え直さなきゃなあ、と思いつつ、帰宅してからも全く運動していません。まあ、そんなもんです。
 海水浴場から戻ってきて、ぐったりしていると、そのうちダイビング組も戻ってきて、しばらく歓談(この席、および前日のバーベキューの席で、対外聯作戦に関する指令を受ける。内容は、×ぷれすその他で明らかにされる日もあるかも)。
 このあと、ダイビング組はこの日2本目のダイブへ、落合のぞみさん、このみお嬢さんは「越前カニミュージアム」へ向かい、私は一足先にその場をあとにして帰路についたのでありました。

 という訳で二日間、実に楽しく過ごすことができました。ダイビングの方にも参加できればもっと楽しかったんでしょうけれど。ダイビング、始めようかなあ?(耳抜きできないから苦労しそうだけど)


私の公約・渋滞の中で

阪本[初代]雅哉

 もし上の二つを公約としている候補者がいたら、私は迷わず投票するだろう。たとえその候補者が社民党や公明党、いやたとえ自由連合に所属しているとしても。参議員選挙のまっただなかの休日、かすかに聞えてくる候補者の連呼する意味のないお願いを聞きながらぼんやりとそんなことを考えていた。

 2001年7月20日――大阪中央卸売市場(仮称)に一台のトラックが停車していた。時刻は午前4時少し前、東の空がわずかに白みはじめてはいるが世間はまだ寝静まっている頃だ。だが市場はすでに喧騒の中に有った。
 その喧騒の中、トラックは誰の注意を引くこともなくゆっくりと走り出ていった。
 運転手の五熊久也(仮名)は名神高速の吹田ICを目指して特に急ぐ様子もなくトラックを走らせている。
 吹田JCTは大阪市の北に位置し名神高速道路、中国自動車道、近畿自動車道が交わり、京都、大阪、神戸をむすぶ交通の要所である。そのため交通量が多く付近に渋滞の発生も多い。特に大阪から京都へ向かう名神高速上り線は天王山トンネル付近や京都南出口付近の渋滞が日常化しており、休日ともなると行楽地へ向かう車で十数キロの渋滞は珍しくなかった。
 五熊の運転するトラックは吹田ICから名神高速道路に入ると京都を目差すコースをとった。
 数日前、五熊は上司から極秘の指令を受け取っていた。
 指令の内容は
 「7月20日、関西から北陸方面に向かう車を阻止せよ。」
という簡素なものであった。当然ながら内容に関する理由は一切知らされなかった。
 この指令を受けて五熊は悩んだ。
 たった一人で“関西と北陸の車による交通を完全に遮断する”ことは不可能だ。関西と北陸を結ぶ経路は多く、対象となる地域があまりにも広すぎる。さらには広い範囲の交通封鎖を完全に実施することは危険があまりにも大きかった。
 だが、「指令の実施は不可能である」と断わる、または実行者の増員を求める、などは彼の将来の夢の実現にとってマイナスの要素が大きすぎる。そう考えた五熊はたった一人で指令を遂行する方法を模索した。
 指令では車の通行を阻止する理由は知らされていない。そのため交通を阻止する真の目的は不明だが、決して“完全な遮断”を目的としているわけではないだろう。とすればもっとも交通量の多い何ヶ所かの道路を効率的に通行不能にすれば良い。それに真に“完全”を求めるなら自分の知らないところで誰かが他の指令を実行しているかもしれない。そう判断して実行計画を建て始めた。
 五熊の運転するトラックは順調に走り、30分足らずで京都まで到達したとき周囲に車はまったく存在しなかった。
 この日は連休の初日ではあったが、さすがにこの時間はまだ車の数も少なくそのため予定通りに京都まで到達したものの、周囲に乗用車が存在しないのは五熊にとって予想外の事態だった。
 トラックの中の時計では4時31分(後の警察の調べによると、午前4時23分)に、京都東ICを通過したとき、
 「いくら早朝とはいえ、連休の初日だぞ。乗用車が走ってないなんて。」
と、愚痴りながらも周囲を見渡した後、大きくハンドルを切り始めた。
 まず中央分離帯に乗り上げトラックを横転させたあと、積荷を高速道路上にばら撒きながらトラック本体は上り車線を横断しガードレールを突き破り併走する一般道路に落下。トラックで道路を封鎖し、また積荷をより広い範囲にまき散らした。
 横転したトラックの運転席から離れながら、周囲を見廻し、五熊はおもわず叫んだ。
 「なんやこれ。ただの冷凍鶏肉やないか。氷らせた塩酸はどうなったんや。」
 当初の計画では前後を走る行楽地へ向かうであろう乗用車を事故に捲き込み、衝突炎上させ多数の死傷者を出す。さらにトラックは一般道路を封鎖し、積荷である塩酸を周囲にまき散らして復旧作業を遅らせる予定だった。が、どうやら昨夜、大阪中央卸売市場(仮称)にトラックを準備したあと出発するまでの間にすりかわってしまったらしい。
 大きく計画が狂ってしまった。
 しかし、この段階でのやり直しはきかない。状況を確認し、頭の中ですばやく計画を修正しながら次の実施に向けて現場を離れた。

 当面の目標は賤ヶ岳SAに午前10時、最終目的地の越前にあるダイブセンター・ログには12時に到着。当日は連休の初日で途中渋滞が予測されるため1時間以上余裕を見て、また渋滞前に京都を抜けることを意図して午前6時半に明石を出発する。
 明石から出発する阪本・林合同チームは上記の予定を立てたときに、勝利を予感していた。松原から行動を開始する落合・黒川チームは午前7時に出発、茨木の大井チーム(構成員一名)はどちらかのチームが吹田ICに接近した時点で行動を開始することになっていた。
 神戸より西から北陸方面へ向かう経路は主に二つ考えられる。ひとつめは山陽道から中国自動車道もしくは第二神明道路から大阪(吹田)を経由し、名神高速道路から北陸自動車道へ向かう方法。もうひとつは舞鶴道を北上し日本海側まで到達してから一般道路を北陸へ向かう方法。そして名神高速道路などで大きな渋滞が発生している場合以外は通常前者の方法をとる。
 阪本・林チームが行動を開始した2時間前には京都東付近で事故が発生していたが、その時点ではまだ事故の情報は流れていなかった。西宮付近まで到達したとき始めて「京都東IC付近で事故渋滞」の情報が掲示板に流れる。予測よりも早い時間に渋滞が発生したことにあわてながらも、まずは名塩SAに立寄り情報収集にかかる。
 どうやら連休の初日に京都東−大津間でに事故を起こした馬鹿者が居るらしい。しかしたった8kmの渋滞にすぎない、渋滞が本格化するまでに京都付近に到達できれば余裕を見てある時間で、いや少しくらいの遅刻なら途中で取り返しもつく。そう判断し当初のコースを急いだ。また大井チームに行動開始を繰り上げるように連絡する。
 名神高速に入り茨木を経過するが特に渋滞している様子はない。渋滞は早々に解消したのかと楽観したが、その直後天王山トンネル(一方が閉鎖されていた)あたりからやはり車の流れが悪くなりだした。とはいえ、天王山トンネル付近の流れの悪さは当初の計画から折り込み済みの事態にすぎない。
 このとき他のチームに連絡を取ってみる。てっきり先行していると思っていた落合・黒川チームは近畿自動車道吹田ICの料金所渋滞にまきこまれたため2kmほど後方に、大井チームは1kmほど後方に位置していた。念のために小松の谷本チームと名古屋方面から行動を開始した竹林チームに「少し遅れるかもしれない」と状況を連絡する。
 渋滞している道路、特に高速道路というのは不思議なもので複数の車線のうち一方が流れても残りは流れなかったりすることがよくある。だからといって無理に流れている車線に移るとしばらくすると元の車線が流れ出す、などということもあるので運が悪いと常に流れない車線に居ることになってしまう場合もある。
 当初は車の流れに一喜一憂しながら時折車線を変えたりしていたが、渋滞が長引くにつれだんだんとただ前の車が動きだすのを待ち、少し前進する。なかなか解消しないばかりか、桂川PAを目前にしたあたりからほとんど動かなくなってしまった車の停滞の中にいるとだんだんと無気力になってくる。
 この渋滞は裏になにか有るかもしれない、早くからその可能性を疑い始め、この先どれくらいかかるかわからないと判断した林の意見にしたがい、少し早い位置から無理矢理、桂川PAへ進入をはかる。
 もちろんPAに入ったからといって、問題はなにも解消されない。目的地は渋滞の彼方であり、一旦高速道路に入った限りは渋滞の中を抜けていかねばならない。だがほんのひとときの休憩は阪本・林チームに先へ進む気力を与えた。
 本線への合流、驚いたことにPAに入り休憩した方がそのまま本線にいた車よりも先行している。多くの車がなるべく前に出て合流しようとして無秩序に混乱しているのを避け、少し手前から走行車線、追い越し車線とすばやく侵入し、混雑しているあたりをすり抜ける。
 ほんの少しほくそ笑む瞬間だ。

 トラックを横転させたあと京都北部での作戦を終えた五熊は、不充分だった名神高速道路の交通遮断の仕上げを行なうため再び京都市内へ戻っていた。
 京都南から名神高速へ入ると、渋滞を長引かせるため、渋滞の中でときおり路肩を走向して少しでも他の車より前に出ようとする輩を挑発して渋滞のなかでさらに事故を発生させた。
 だが、そこで五熊の乗った車も渋滞の中で進まなくなってしまっていた。たかが冷凍鶏肉とトラック一台の事故処理にかなり手間取ってしまっただけだが、自ら発生させた渋滞は五熊の予想を上まわっていた。
 しかたなく、彼は車をその場に乗り捨て徒歩で次の実施地点まで向かった。その結果、それ以降の行動予定に2時間程度の遅れが発生してしまった。

 京都南まで1.5kmの案内が1kmになるのに1時間以上かかるようになると、またすぐに無気力がぶり返して来る。
 しばらくして、京都南まで500mの案内が出たころ、ふと気がつくと一番左側の車線、走行車線よりも左側、路肩を走向し出口に向かう車が少しづつ流れている。
 その流れの中に、最後尾にいたはずの落合・黒川チームが高速走行に見切りをつけ出口へ向かっていくのが見える。
 落合・黒川チームに続いた方が良いのかもしれない。そう思った阪本・林チームだったが、追い越し車線に位置し、さらに車がまったく流れていないため車線を変更することもできないまま機会を逸してしまった。真の渋滞の一例
 それでも30分以上かけて走行車線に移動し、京都南出口に近付いたとき急に車が流れ始めた。
 所々にオーバーヒートかバッテリーか、動けなくなった車が止まっているため必ずしも快調ではないが、それなりにスムーズに流れている。
 ついに事故処理も終り、渋滞解消か。そのとき京都南出口付近にいた車のドライバーの大半はそう期待しただろう。高速を降りる案は一蹴されそのまま先へと進む。が、およそ2kmほど進んだ時点で通常の渋滞程度の流れとなり、そのまましばらくたってまた流れが止ってしまった。
 当然ながら京都南出口はすでに通り過ぎ、選択肢は前の車が進んだら車間を詰めるを繰り返す以外に無い。
 「『何者かの悪意』が働いているのは間違いない。でなければ、出口を出ようとした瞬間に一時的に車の流れが回復し、取り返しがつかなくなってしまった状況で渋滞に戻るなんて偶然があってたまるか。」
 それまで真の渋滞の中にあっても、車内に渋滞を予測した備えも十分にあったおかげで比較的おとなしく車を走らせていた阪本・林チームだったが、悪意の存在を確信した後はそうはいかない。
 なるべく左側の車線に位置し路肩、登坂車線、路線バスの停留所、などなど少しでも道幅が広がると真っ先に飛出して距離をかせぐ。道幅が減少する手前ではすばやく追い越し車線まで移動し混雑に巻き込まれない。
 だが、如何に姑息な手段を弄し、ほんの少しの距離(時間に換算するとそれでも数時間)稼いだとしても、真の渋滞を抜けるには永遠とも思える時間が必要だった。

 「渋滞の原因になる事故を起こした、運転手を渋滞現場に『私が事故を起こし、渋滞を引き起こしました。』と首から看板でもさげて立たせておく。」べきだ。
 いつ抜けるのか予測もつかない渋滞の中で出た結論だった。
 真の渋滞の中で原因となった運転手が現場近くに立っていたら、後続の運転手全員が故意に引いて行くだろう。数千台の車に引かれれば数時間後には遺体など無くなってしまう。最初に引いた、もしくは数度目に引いた車の運転手による殺人だが、遺体が無ければ事件そのものがチャラだ。
 だが渋滞は残る。

「名神高速殺人事件」

 名探偵ポアロが事件を見事に解決。
 現場に到着するまでに渋滞でイライラさせられたポアロは、 残ったシミのような痕跡をホイールスピンさせたタイヤで完膚なきまでに消し去ってしまう。

by T.Ochiai

 


2001年人外協キャンプレポート

大井[海坊主・キングオブダイブ]俊郎

 なにやらいつのまにか参加が決まっていた大井です。一昨年につづきよらせていただきました。
 さて、関西方面からの参加で、JR茨木駅でひろってもらうことになった私は集合時間の1時間前に現着し、駅前で妖怪根付をしこんだりしておりました。ミスドで朝食をすませ駅に戻ると、なんと時間前に全員揃っております。30分は遅刻することを折込んでいたようですが、ずいぶん予定より早く出発できてしまいました。これは以前では考えられない出来事だそうで、すると人外協でも 2001/9/11 以前と以後では同じではいられないということなのでしょうか。
 JR茨木でランデブーしたのは阪本号、花原号の明石からの車2台とそれに便乗する磯崎さん黒川君と私の3人でした。阪本号に私、花原号に磯崎さん黒川君がのって北陸にむけスタートしました。
 夏の悪夢もふっとぶ爽快なペースで名神を抜け北陸に入ると、予定より2時間ちかくもはやめに第一合流地点の賤ヶ岳SASAに到着してしまいました。遅めの朝食をお手製弁当でとっていると、ほどなく愛知方面から竹林号が到着。しかし落合隊長の車がなかなか来ません。携帯で連絡をとるといまにもエンジンが爆発しそうだとの緊迫した返事が帰ってきました。SAに息もたえだえで到着した落合号でしたが、ここでは修理ができないと断られ敦賀ICで一台だけ降りて修理ができるサービスショップを探すことになりました。
 休憩も終わり、隊長車と分かれて本隊は一路加賀ICへ。花原車の運転は、MTは教習以来ではないかという黒川くんが運転するそうです。どうかご無事に.・・・。
 しかし、すぐに問題は発生しました。前方で事故ありの情報。これはひょっとして、夏の災難の続きか・・・。事故渋滞が発生し、阪本車のなかは嫌な雰囲気になります。今回もまたなぞの犯罪組織がわれわれの北上を阻止しようとしているのでしょうか。そういえば落合隊長の車の異変もおかしい。やはり裏になにかあるのか・・・と私はひとり陰謀説を検討します。このままこの車にのっていて大丈夫なのだろうか・・・。しばらくして渋滞が解消しはじめ、大破した事故車をやりすごすとき、阪本氏が「今回は勝ったな」とちいさくつぶやいてにやりと笑うのを私は見逃しませんでした。人外協はいったいどんな組織と戦っているのでしょう。私は恐ろしくてその問いを口にできませんでした。
 どうやら落合車も無事に修理ができたようで、加賀ICに降りるころにはなんの問題もないかに思えました。しかしそうはうまくはいかないものです。一般道に入るなり花原車に重大なトラブルが発生しました。あっというまに後方の視界から消えてしまいました。あわてて連絡してみると(携帯電話ってほんと便利ですよねえ)、運転手の黒川くんの左足がおもうように動かないらしいのです。また何かの工作なのかと不安がよぎりましたが、なんのことはない。単にクラッチ操作に不慣れでエンストを多発して遅れていたのでした。そんな状態でも花原さんは容赦なく黒川くんに運転を強いているようです。阪本・竹林車は先に山中温泉に向かってひと風呂浴びることにしました。
 時間に余裕があるということはとてもいいことです。ゆっくりと温泉にはいりながら、いまさらながらに思いました。いつもこうならいいのに。あの時も、この時も。この原稿さえ時間ぎりぎりなのです。どうして人は、いや私は・・・・。やめましょう。
 後から遅れてきた花原車組も温泉に入る時間は充分にありました。黒川くんがやつれて痩せてみえるようでしたが、たぶん気のせいでしょう。
 キャンプの食料品は山中温泉のスーパーでいつもそろえているんですね。そこで小宮車と合流しました。荷物がたくさん載りそうな車です。今夜はもちろん!カレーです。そしてバーベキュー用の肉をプリオンも恐れずに大量に買い付けます。アルコールはとにかくビールです。ケースではなく種類を豊富にしたいということで6本パックをどっさり買いました。4台の車にわけてもいっぱいいっぱいです。
 これで準備は完了。キャンプ場へ出発です。

 県民の森に到着し、まずみんなでやったことは駐車場で画報の折込作業でした。たいへん天気がよくて日向で作業していると暑くてTシャツ一枚でも充分なほどです。静かなキャンプ場の一隅でわいわい騒ぎながら画報を折っている光景は異様でしたが、そんなのはいつものことなんでしょうね。たしかさきほど駐車場に入ってきたばかりの車が、誰も降りずにそのまま出て行きましたが・・・。
 そうこうしていると甲州先生、落合車の到着です。折込作業も終わり、手分けしてキャンプの準備に入ります。みなさんてきぱきとやるべき作業を進めていき、不慣れな私はなんだか身の置き場がありません。ようやく得た仕事はケビンの掃除でした。簡単そうなのでさっさと済ませてしまおうとケビンに向かいましたが、ドアを開けて言葉を失いました。床一面に虫の屍骸が落ちているのです。少し前にバルサンを炊いておいたらしいのですが、こんなに虫が、しかもカメムシのみが死んでいるなんて。よくみると死にきれずに蠢いているやつもいます。バルサンのものではなくカメムシ特有の臭いが断末魔のごとく部屋の空気を汚しています。「今日はテントで寝ようかな」などと弱音を吐いてしまいましたが、阪本さんに背中を押されて掃除をはじめました。とにかくこのカメムシの屍骸を外に捨てること。箒で掃き集めては捨て、集めては捨てを繰り返します。が、つぎつぎと天井から弱ったカメムシが落ちてくるのです。ちょっとよそ見をしていると足の下でいやな感触を味わうことになります。気が遠くなりながらなんとか掃除をすませて広場に戻ると、すでにビールが振舞われていました。夕食の準備を横目で見ながら、手のあいた人たちで宴会がスタートしました。宴会の開始
 日がかげりはじめると急速に気温が落ちていきます。それでも冷えたビールを飲みつづけていると、待望の(私だけ?)カレーの完成です。とにかく食べます。おいしかったです。しかし、たった2杯でお腹が一杯になってしまいました。ビールと酒の肴のせいです。「ここでお腹が一杯なんて、もう負けはきまったようなものね」と某女史が勝ち誇ったようにおっしゃいましたが、どうして「勝ち負け」という言葉がよくでてくるのでしょう、人外協は。
 その後のことは記憶があやふやです。とりあえず飲みつづけたことは確かです。いつの間にかキャンプファイヤーがはじまり、みんなで火を囲んで踊り狂ったような・・・。甲州先生のお嬢さんとそのご学友の方々のリクエストに応じてアニメソングの大合唱をしたり、とりあえずまた食べつづけたりしていたようです。
 気がつくとケビンで寝袋に入っていました。すでに朝のようで起きて広場にいくと、ちょうど朝食の準備がすすんでいました。今朝も(私は)カレーです。一晩おいていっそうおいしくなっています。とりあえずお腹一杯になるまで食べました。負けでいいんです。カレーがおいしければ。朝の宴会宴会の終り

 しかし人外協のキャンプの本番はそれからでした。一昨年参加して判ってはいたのですが、カレーに目がくらんでました。後悔してもあとの祭り。えんえんと続くバーベキューのはじまりです。とにかく焼きます。牛肉が、牛タンが、蟹が、秋刀魚が、ホタテが、椎茸が、その他もろもろが焼かれていきます。ここの部分は10年前と変わらないのではないでしょうか。とにかく食べつづけます。
 変わったことといえば花原さんが午前中に起きてきたことぐらいでしょう。黒川くんというドライバーを確保したので帰りの運転が楽になるという予測が彼をかえたのでしょうか。花原さんはさわやかにビールを飲んでいました。
 私といえば苦しくなったお腹をおさえ、「次回はカレーはほどほどにしよう」などと考えるしかないのでした。


2001年忘年会レポート

阿部 [在エリヌス郷土史研究家]和司

 21世紀最初の忘年会は外聯が幹事です。
 一体、誰がそんな事になるなどと予想していただろうか?
 少なくとも、外惑星聯合が人外協内叛乱組織として産声をあげた当初は、そのような事態は想定してはいなかった。何故なら、本家に対しての傍流、我々は自ら異端である事を前提に生まれた者たちだったからだ。(大嘘。動機なんて後付け。)
 だから、本当に幹事を押し付け・・・あわわ、拝命した時は慌てふためき、うろたえまくり、そして妙に浮き足立っていた。あれよあれよと準備期間は過ぎ、仕事絡みで懇意にしている旅行代理店を通じて、会場となる宿に正式な予約(仮予約は、ず〜っと前に入れといたけど。)を入れたのが、忘年会当日の一週間前。
 あ〜もしよう、こ〜もしようなどと云ったデート前日の若造のごとき夢見がちな目論見は、やはりデート当日の若造の思惑と同様に見事に崩れ去り、はたと気が付けば、何の具体性も持ち得ぬまま、その日の朝を迎える事となってしまっていたのだった。

 12月8日(土曜日)天気は晴れ。

 若干、山形方面の天候に不安はあったものの、まずまずの日和。
 人外協公式イベント初参加となる(一部では幻と云われた)配偶者の人を車に乗せ、一路、山形へ。(本当は飼っているフェレットをペットホテルに預けに行ったので、かなり寄り道、回り道してます。)
 チェックインの30分前、14時30分に今回の忘年会会場である山形県南陽市の赤湯温泉「いきかえりの宿 瀧波」に到着。嗚呼、自宅から会場までが近いって素晴らしい。秋のキャンプの時なんて片道7時間以上掛かってたものなぁ。(泣)
 ま、それはさておき。聞けば、既に竜野隊員が到着しているとの事。
 「早いなぁ。」
 「あ、でも、すぐにお出かけになられましたよ。何か火傷の薬を買いに行かれました。」
 私はいまだかつて”怪我をしていない”無傷の竜野隊員とお会いした事がない。
 何故だ?竜野隊員は何故、いつも満身創痍なのだ?去年の忘年会では松葉杖ついてたし、秋のキャンプでもバンソウコウ貼ってたし。何故???などという私の個人的な疑問もさておき。
 取り敢えず、他の隊員さんが到着する前に、宿の人と簡単なスケジュールの確認と部屋割りの打ち合わせをする。この宿では、こうした折に歓待の意味で”お薄”(抹茶)が振舞われるのだが、果たして皆さんは飲めましたか?(最初の隠しイベントね。)
 そうこうしている内に、佐野隊員から電話が入り、今しがた駅に着いたとの事。配偶者の人には部屋で待機して貰い、早速、最寄駅であるJR赤湯駅まで車で迎えに行く。
 ここの宿、唯一の欠点は、最寄の駅からちょっと距離(2キロ)があるという点なのだ。歩こうと思えば、歩けない距離ではないが、何せ、冬である。ましてや東北。途中、天候が急変し、猛吹雪となって、遭難でもされたらコトだ。(大袈裟。)
 赤湯の繁華街を抜け、駅に辿り着くと・・・。
 「あれ?竜野さん?」
 火傷の薬を買いに出た筈の竜野隊員と佐野隊員が連れ立って、駅から出てくるではないか。
 「いやあ、薬屋探して歩いていたら、こんなトコまで来ちゃって。」
 聞けば、怪我も大したものではないとの事。
 久々の再会の余韻もそこそこに宿に取って返し、幹事部屋に入って談笑していると中谷隊員(外聯主席代行)が到着。早速、この日の為にと自ら吟味された銘酒の数々やら、『こうしゅうえいせい3V』に掲載されたエリコのお手製フィギア、PS2のソフトなどなどが部屋のテーブルの上に広げられて行く。殆ど、中谷隊員が持ち込んだモノで宴会が成立してしまいそうな勢いである。(大袈裟。)
 一体全体、何が何やら・・・。と思う間もなく、次のお迎え時間が来てしまう。
 鬼頭隊員、中村隊員、猪塚隊員を迎えに、再度、赤湯駅に。中村隊員と猪塚隊員は初対面だったので、頼りは面識のある鬼頭隊員だけだったが、案の定、中村隊員と猪塚隊員を間違えてしまう。(申し訳ないです。)
 時刻も3時を過ぎ、この辺りから怒涛のチェックイン。
 空路、仙台空港に降り立ち、レンタカーで山形入りした阪本初代ご夫妻、竹林隊員ご夫妻、林隊員、花原隊員(外聯第2代主席)、キャンプに続いて参加の大井さんご一行が、こちらの心の準備が出来ぬ間にやって来て、嵐のように露天風呂(何しろ男性は午後8時までしか入れない。)を目指した(その後、一時間は戻って来なかった。)かと思うと、島田隊員、中矢隊員、馬場隊員、小野塚隊員が迎えの車を待たずにフロントに出現し、見る間に幹事部屋は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す・・・訳もなく、何だかうやむや(そもそも、この到着順や人物の相関関係だって、結構あやふや。違ってても見逃して下さい。)で穏やかな雰囲気の内に、時間だけが過ぎていくのであった。
 その間、持ち込んだPS2で「真・三国無双」大会が始まり、「無双乱舞!」の掛け声が飛び交っていた事は云うまでも無い。(他にも『機動戦士ガンダム連邦VSジオン』とか『ジオニックフロント』とか。まぁ、色々・・・。)
 流石に遠方から来ていただく関係で、結構、時間ギリギリの到着という方(坂野隊員)も居られたので、忘年会開始は当初の予定より一時間遅れの午後七時。既に各部屋の冷蔵庫の在庫はアルコール類を中心に消えてなくなり、手の付けられない酔っ払い集団と化す前に、無事、宴会場にて開会。
 会場入り口に掲げられた「谷甲”洲”FC青年人外協力隊」の垂れ幕に容赦のない突っ込みが入り、初代を初めとするお歴々が「さんずいは要らないんじゃぁ!」と挨拶に出向いた支配人にニコヤカに迫る場面もあったが、まぁ、それはさておき。
 和やかに、何はともあれ和やかに、忘年会は幕を開けたのだった。
 開いてしまえば、後は野となれ、山となれ。(幹事としては極めて無責任な発言である。)
 一番最初に参加表明をした!と幹事に宣告された中村隊員に、記念品と称して、花原隊員から”外聯主席乃印璽”が手渡され、めでたく第三代外聯主席(外聯規則:印璽を手にしたものが主席。)が誕生する一幕あり、カラオケマシンが設置されているにも関わらず、アカペラでアニメソングが熱唱される一幕(時節柄、大変不穏当な替え歌も歌われていた。)あり、初代はマイクを壊すわ、幹事(って私だけど。)は暴走(しかもシラフで。)するわ、仕事の都合で宴会に間に合わなかった小宮隊員の料理は食い散らかされるわで、もう何が何だか。
 昨年度の忘年会の折に出された「牛タン食べたい!」という竹林幹子隊員のリクエストを、米沢牛(このご時世に)のステーキを出す事で煙に巻き、飲み放題の名の元で、増大していく酒消費量を見なかった事にしながらも、2時間に渡る大宴会は終わりを告げ、そのまま、幹事部屋(既に有名無実化。後にゲーム部屋と呼ばれていた。)で怒涛の2次会兼ゲーム大会へ雪崩れ込んでいくのだった。
 仲居さんのご厚意で持ち込まれた一次会の残りのお銚子十数本は「あ!」と云う間に消えてなくなり、ズラリと並んだ一升瓶やら何やらが空になっていき、横たわる屍体と化す人(Nina(仮名)さん)まで出る始末。
 遅れてチェックインした小宮隊員も皆のペースに追いつこうとピッチを上げていたようだったが、幹事の責任は果たしたとばかりに、私は一人でのんびり温泉に浸かって、居合わせた宿のオジさんと世間話をしていたので、その間の事はよく判らない。
 帰って来てみると、ゲーム部屋は足の踏み場もない程、人々がタムロしており、文字通り、私の座る隙間などなかった。そこで、束の間の安らぎとニコチンの禁断症状を和らげる為に、喫煙者専用の部屋(ゲーム部屋は禁煙。)へ赴いてみると、何やら佐野隊員と猪塚隊員がニコヤカに穏やかに「修羅な話題」を展開していたのだった。(別に二人が修羅だったのではない。話題が修羅だっただけである。)
 まだ子供な私には到底ついていけそうもない話題だったので、大人な二人に引き摺り込まれる前に、脱出。再度、ゲーム部屋への再突入を試みる。(進入角度を間違えると燃え尽きてしまう事は云うまでもない。危険の伴う作業である。)
 しかし、一度離脱した人間にとっては、途中から入っていっても何が何やらさっぱり判らない。かと云って迂闊に相槌でも打とうものなら、それこそOUT。
 命は取らぬが、言質は取るぞが信条(笑)の人外協である。
 そんな私の緊張を知ってか知らずか、ふと見れば、ウチの配偶者はすっかりこの情景に馴染んでいる様子。
 まぁ、それはさておき。
 この後、中谷隊員の持ち込んだ映画「パルハーバー」のDVDで真珠湾奇襲攻撃のシーンをピックアップし、皆で突っ込み入れまくって、その挙句に阪本礼子隊員に「外まで響いている!五月蝿い!」と怒られるわ、同じく中谷隊員(しかし、一番”お土産”持ってきてるなぁ。)が秋葉原で入手したPC用ゲーム「先行者」の起動を試みるわで、怒涛の二次会は深夜まで果てしなく続いたのであった・・・。

 明けて12月9日(日曜日)、天気はちょい雪混じりの晴天・・・。いや、曇りだったかも知れない。
 もう一つの隠しイベントである朝食タイム。とは云え、実は部屋に備え付けのパンフなどでバレバレだったが。
 午前7時30分。あれだけ夜中まで騒いでいたにも関わらず、意外に皆さんスンナリと起き出し、揃って朝食会場である宴会場へと向かう。やはり、年寄りは朝に強・・・。
 設えられたテーブル席にめいめい座ってお茶など啜っていると、宿の人たちが会場の真ん中で景気良く餅搗きを始める。
 そう、ここの朝食は搗き立てのお餅バイキングなのだ。お雑煮、あんころ餅、きな粉餅、ずんだ餅(うぐいす餡の餅。一応、仙台名産。)、納豆餅などなど思い思いに食べたいだけ食べる趣向となっている。私個人は、関西人の隊員諸氏が意外に納豆餅を食べている事に、人知れず驚嘆していた。(納豆を食べる関西人を目視したのは、これが生まれて初めてである。かく云う私は、何故か朝だけは納豆が食えない。)
 やがて、前回、下見会で密かに話題になっていた会長挨拶が始まった。何が話題かというとこの会長さん。恐らくは毎日、毎朝、この席でお客さん相手に挨拶をしている筈なのだが、全然、不慣れな感じというか、何を云っているのかよく判らない。にも関わらず、こちらを歓待している事だけは確かという雰囲気だけで、延々、話しまくってくれる。暖かい人柄だけが先行している感じなのだ。目の前の餅と格闘している泊まり客は、勿論、誰も聞いちゃいない。しかし、会長は気にすることなく、話しを続ける。しかも、かなり強い山形訛りで。下見会と合わせて、都合2回聞いたが、話しの主旨は最後まで謎のままであった。
 まぁ、それはさておき。
 朝食後、部屋に帰ると、またしてもいつの間にやらPS2が起動しており、「無双乱舞」の叫び声が轟いていたが、まぁ、それはさておき。
 仕事の関係で、何人かの隊員さんが帰途に着くというので、赤湯駅まで送って行き、残ったメンバーでオプショナルツアーへと出発。
 帰る際に、玄関先に並べられた靴の傍らをふと見ると、「谷甲州FC青年人外協力隊」を”略した”と思しき「谷甲州様」の名札が・・・。(甲州さんが集団でやって来た訳じゃないんだから。)
 それにしても、とうとう最後まで「人外協」の名は正確に称される事はなかった。トホホ・・・。
 さて、気を取り直して、門前で記念撮影(先月の画報表紙参照。)を行なった後、初代たちのレンタカーと私の車、中谷隊員の車に分乗し、宿を出発する。
 目指すはお隣りの高畠町出身の童話作家「浜田広助記念館」である。
 本当は、家族連れの隊員さんの参加を想定してのプランだったので、一抹の不安はあったが、総勢17名の「大人」な方々にも意外に好評だったので、まずは一安心。(いや、皆さん大人だったので、敢えて不平を云わなかったのかも知れないが。)
 殆ど貸切状態のスライド上映室で「りゅうのめのなみだ」「泣いたあかおに」を堪能していただき、子供の頃のピュアな心を取り戻した(後日、ML上では汚れた大人(笑)として突っ込みが入り捲くっていたが。)後は、大人のピュアな心を取り戻して貰う為に同じ町内にある「高畠ワイナリー」へ。
 お座なりな工場見学(どうせ、日曜日は稼動していない。)を足早に済ませ、試飲コーナーでワインを(常識範囲内で)飲みまくる。本来であれば、この後、昼食を取って、解散。となる予定だったが、飲み足りないという一部の声から、急遽、車で30分ほど行った先にある米沢市内の日本酒の酒蔵博物館へ足を伸ばす事になった。
 決め手は、ここにも試飲コーナーがある・・・だった。
 とは云え、ここの酒蔵博物館は、昔ながらの古式ゆかしき造り酒屋の様子をきっちり再現しているので、意外に見応えがある。(ホントか?)
 思い思いに見学し、ひとしきり試飲も済ませ、良い心持ちになったところで、別室の上杉鷹山展示室を意図的に無視して、博物館の人のお奨めの近所のお蕎麦屋さんで昼食。リーズナブルなお値段の割に美味しかったのが、ラッキーだった。
 その後、蕎麦屋の前で解散し、めいめい帰宅の途に着いたのだった。

 しかし、今回のツアーが、実は、かつて幹事夫婦が新婚旅行の際に辿った行程を使い回していただけだったという事実は、参加者には最後まで知らされないままであった・・・。
 でも、その割には、途中、曲がる道を間違えたりしたんだよなぁ、俺・・・。(泣)




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