2000年新年会レポート

阪本[初代]雅哉

 今年は千年に一度の2000年だそうで、でもどう考えても西暦2000年はもう2度とやってこないような気もするし、ローマ人がインド人並みに数学に優秀であれば「0」を発明していて、そうすれば今年は20世紀の最初の年だし、でもやっぱり序数は「1」から数えるから20世紀最後の年か、20世紀は戦争の世紀とか言われるくらいろくなことが無かったかもしれないから、今年からもう一回20世紀をやりなおせば2100年からややこしくなくても良いかもしれない。なんてことを考えながら、例年の通り青年人外協力隊の新年会に参加する。
 心斎橋のエーデルワイスを仕事始め前日に特別にあけてもらっての新年会も今年で何年目か調べようとしたが、甲紀10年にはまだで、13年には行なわれていたことがわかるだけ、、どうも記録は混乱しているらしい。
 これも一部で半恒例になっている、サンケイホールの「桂米朝独演会」終了後途中で強引に拉致された一般人と共に新年会会場へ向かう。

ファービーの音頭 新年会の開始は19時のはずなのだか、18時に到着するとすでにその場の全員が乾杯の練習の準備をしている。何度か練習を繰返したが、練習するたびになぜか堪え性が減少していく上に時間のたつのはとても遅い。と、突然ファービーの音頭でなしくずしに新年会が始ってしまったような気がする。もはやこのあたりで、記憶を曖昧にした方が精神衛生上良いな。
 その後の盛り上がりは例年の如くと言いたいところだが、以前はもっと盛上がっていたような気がする。と年寄りの繰り言のようなことを考えながら、でも例年記憶は曖昧なんだから比較はできないはずなのに、、、なぜ今年が最高だと言えないでいるのだろう。
 さて私はなにを言っているのでしょう。書いていてよくわかりません。
 新年会の開始を待っていた30分と違って、開始してからの時間はなぜか順調に過ぎていき、どれだけビールをワインを消費したのかが不明なままに、でも何故か途中で飲んだシュタインへーがーは水の味がした。宴会が楽しいと声がかれるのか、でもこの冬は暖かいからたいして体も疲れず余力を残して新年会は無事終了した。と、思います。
 いや、電車の都合で後に人を残して帰路についたのでもう一波乱あったのかもしれませんがそれは不明です。

 ところで、大晦日から年越し新年会は世間への言い訳が、、、参加は難しいかも。


2000年キャンプレポート

キャンプでなにが起こったのかについて、第10回

阪本[初代]雅哉

 キャンプも今回で記念すべき10回目。*1

参加者全員の集合写真

 だけど、その記念すべきキャンプには残念なことに例年よりも少し参加者が少なかったのは、上の参加者集合写真を見てもらってもわかる通り。
 このキャンプ参加は自由だけど、食事の手配があるので事前に参加者募集を行なっている*2のだが、今年は申し込みが少なかった。参加者が少ないのは仕事、病気、子供、金欠、自然保護、翌週への配慮など各自の色々な都合なんだけど、その結果の少ない参加者の面々を名前を眺めて、私にはひとつ不安が有った。今年の参加者はもしかしたら何度もキャンプに参加しているのに一度もテントを張ったことの無い連中ばかりじゃないだろうか*3、キャンプに行ってテントも張らずに全員ケビン(山小屋)に泊るのは情けないぞと。でも、実際にやってみたら最近のテントはとっても簡単で杞憂に過ぎなかった。
 明石−第二神明−阪神高速−西宮IC−名神高速−豊中IC−伊丹空港−吹田IC−最近あまり混まない名神高速−米原−北陸自動車道−そして集合場所の賤ヶ岳SAを12時に通過−加賀IC−山中温泉−県民の森と移動。*4
 途中の山中温泉で温泉に入り、ビール・食料品の買い出しを行なったが、建設中のダム工事現場を横目に見ながら山間を走り、石川県県民の森駐車場に到着したのは午後三時過ぎ。すでに甲州さん一家は到着(奥さんはクラブ活動の関係で遅れてくる麻梨香ちゃんを向かえに行っていたため、現地に居たのは甲州先生と舞ちゃんのみ)テントの設営に入っておられた。
 我々も遅ればせながら準備に入る。テントは先にも書いたように比較的簡単に設営完了。その間にタープを張る、ケビンで泊るほんの一部の人のために資材の運搬、っても車で行って降ろしてくるだけ。とか、“火をおこすための薪の作成”、“火をおこす+食事の支度”、“火をおこす+酒の準備”、“火をおこす+無駄に燃やしておく”などキャンプの準備の最重要課題がまだ明るいうちに終了してしまった。
 こうなれば後は酒を飲むだけ。いや、昨年ほどではないまでもこの時期のキャンプはやはり寒い。体を温める必要が有ることはキャンプ参加者の誰もが納得してくれているはずだ。
 キャンプとは言っても、車で到着、そこらに街灯がある、トイレは洋式水洗、水道もあればケビンに行けばガスコンロもある、強いて言えば携帯電話がすべて圏外になる程度。だけど屋外で過していると、夜は長くてひたすら暇、しかも外は雨が降っている、もちろん全員外にいるから寒い。ってわけでひたすら酒を飲み、食物を消費し、炭を燃やし続ける。
 ところでこの時期少し問題点がある。途中の山中温泉にも“熊出没注意、どこそこに熊が出ました”の警告が有ったのだが、ここキャンプ場は人里を離れているためさらに熊の出没頻度が高いらしい。管理人さんには「けっして一人で、夜道を歩かないように」と注意を毎年受ける。とはいってもケビンとキャンプサイトは結構離れているので過去に何度も一人、もしくは小人数で移動したが幸いまだ熊に遭遇したことは無い。キャンプファイヤー

 今年は天候に恵まれず、終始雨が降っていたため全員がタープの下で過ごすことになる。
 途中、麻梨香ちゃん登場、竜野さん登場するも、夕食に恒例のカレーを食すもやはりタープの下。
 なんとか全員がタープの下に収まることができたのは、人数の少なさが幸いしたと言えるだろう。
 いい加減腹が膨れた頃にキャンプファーヤーとなるのだが、いや今年もキャンプファイヤーも始めた。例年のごとく、用意された木材だけでなくそのあたりで余分に調達した材木も有った。
 だが、雨が強くなってくる、甲州さんは珍しく酔いつぶれて寝てしまうで、途中で切り上げ全員でケビンに避難することに。
 でもしっかりとイモだけは焼いておいたのだよ。
 ケビンでは谷本家のお嬢さん中心のトランプ大会と、酔っ払いを中心のうだうだ組に二極分化。
 トランプ大会では、「おいちょかぶ」、「大貧民」などが主催された。麻梨香ちゃんがその「おいちょかぶ」でMSGから千円、阪本家から使い捨てカイロ、竹林家からは車とマンション、竜野さんからクレジットカードを勝ち取ったことは記録しておかねばならないだろう。
 適当な時間に就寝タイムに移行。
 強く雨が降っていたため、管理人の忠告にしたがい車でテントサイトに移動することにするが、竜野さんはクレジットカードを失った傷心を癒すために雨に打たれながら徒歩で移動する。もちろん軟弱者はケビンに放置される。
 テントまで戻ると、素人が天候のことまで考えずに張ったテントの入口付近は水たまりに成っているが雨中の夜中に一人で設営場所を移動するわけにもいかずそのまま就寝。
 夜中に雨水のたまったタープが一部倒壊したり、テントの天井から雨漏れなど些細な問題は発生したが、寝ていればよくわからないので何事も無かったことにする。それよりは雨が降っているので明け方はあまり気温も下がらないことの方が有難かったかも。
 二日目も雨は強くなったり弱くなったりしながらも結局降り続いたため大半の時間をタープの下で過すことに。
 早い朝食、早目の朝食、朝食、遅めの朝食、間食、早目の昼食、昼食、遅めの昼食と食べ続け、、その間に昨夜のキャンプファイヤーの残りの木材で、勝手に余分に調達してきた木材の燃え残りを燃やし証拠隠滅を謀る。
 やがて食事にも疲れ、いつものようにお開きになりました。
 つうわけで、キャンプの宣伝。
 寒い中のキャンプも格別ですよ。特に大きいのは、夏場の野外活動を不快にする元凶となる蚊・アブ・ハエなどの虫たちがいないこと。それに寒さを防ぐのは暑さをしのぐよりもずっと楽だ。なにせ大人のキャンプではアルコール燃料がおおっぴらに使えるのだから。

*1 ただし一年に2度開催したことがあるので、今年はまだ9年目。来年は記念すべき10年目となる。
*2 自前ですべてを用意してくるなら、当日参加してもらっても構わない。
*3 もちろん甲州さん一家は、とっても手慣れたものだ。
*4 参加者によって当然異なる、これは単なる一例。

2000年忘年会レポート

阿部 [在エリヌス郷土史研究家]和司

 12月16日午前8時――。

 眠たげなカミさんに見送られ、自宅のある宮城県仙台市を出発。(今回は、諸般の事情から、自分で車を運転して行く事にしたのです。)
 途中、東北道宮城ICの手前で、その諸般の事情である「交通費を折半する。」という密約を交わした山形在住の中谷[従軍ハムスター]さんを拾い、一路、南下する事、数時間。
 やっとこ500キロの行程を経て、湯河原町に辿り着いた時には、既にホテルでの集合時間の午後4時を過ぎていました。
 とはいえ、途中、全くの当てずっぽうで首都高ジャンクション(湾岸線ってなんだぁ!?と叫びつつ。)を経由し、小田原バイパスでは不用意に4キロの渋滞に突っ込んだり(この渋滞してる車がみんな人外協だったりして??と疑念を持ってみたり。)と、結構いい加減に走ってきた(大体、ロードマップを見てないし。)割には、随分、早く着いたように思います。
 ホテルのすぐ近くで、長野の佐野[従軍楽士]さんと落ち合い、これで今回の忘年会参加組、外聯3人衆が揃い踏み(大袈裟)となりました。
 無論、この時点でよもや帰りには一人増える事になろうとは全然想像もしていませんでしたが。

 閑話休題――。忘年会開始前の図

 車から荷物を降ろし、今回の会場となっているホテル城山のロビーに3人連れ立って入っていくと、ホテルの係員の方が、にこやかに近づいて来ました。
 そして、こちらが口を開く前に、
「人外協の方ですね。5階のお部屋で、幹事の方がお待ちです。」
と、有無を云わさず、奥のエレベーターへと誘導されました。
「ま、まだ、何も言ってないのに・・・。」
「見るからに、SFさんっていう風体だったのかね?」
と3人で顔を見合わせつつ、指定された階でエレベーターを降り、すぐ右手の奥、人の声がする方の部屋へと入って行きました。
「どうも!」
 部屋の中に声を掛けながら、一歩足を踏み入れた私の視線は、たむろする人々・・・ではなく、別の所に釘づけになってしまいました。
 既に集合時間は過ぎています。が、宴会は確か6時からの筈。
 しかし、既にカラになった缶ビールが数本、瀟洒な和室の中央に置かれた卓袱台の上に転がっているではありませんか。
 (あ、もう始まっている???)
「やぁ、どうも。」
 今回の幹事、東京支部の坂野[いっちゃん]さん(数少ない初対面じゃない人でもあるので。)にまずは挨拶をし、続いて皆さんに自己紹介。
「あ、どうも。外聯の阿部です。」
「おお、キミがあの・・・。」
 こうして「あの」呼ばわりされつつ、その場におられた方々に、一通りご挨拶を済ませ、部屋割りを教わった後、まずは温泉に浸かりに行く事にします。
 湯河原まで来て、温泉に入らなくてどうする?
 などというご大層な懸案ではありませんでしたが、何せ500キロ運転して来たのです。
 腰痛持ち(持病なんです。)の身としては、これから始まるであろう修羅場の前に一度体調を整えておきたかったのです。(これも大袈裟な物言いですね。)
 佐野さんと連れ立って、階下の大浴場へ向かいます。沖田さんを始めとする数人の方々と行き会いますが、どなたがどなたなのかはちっとも判りません。
 まぁ、良いや――。
 とにかく、一風呂浴びて、すっかりリフレッシュしたところで、再度、宴会前のご挨拶にさっきの部屋に戻ります。
 さっきより、空いてる缶ビールの数が増えている。
 先程、大浴場ですれ違った方々がすっかりくつろぎながら、私を迎えて下さいます。
「初めまして。外聯の阿部です。」
「おお、外聯だ!外聯だ!外聯だ!」
 早くも酒の肴にされている事に気が付きながらも、下げた頭を戻すと、卓袱台に陣取っている2人のオッさ・・・いや、人物と目が合ってしまいました。
 ニコヤカな笑みを湛えながら、こちらを見ている二人が、かの阪本[初代]さんと竹林[Nina]さんであろう事は、初対面にも関わらず、すぐに直感で判りました。(画報に度々掲載された小森さんの似顔絵のお陰です。あれは・・・とても良く似ています。)
 早速、外聯主席代行職にある中谷さんが、職場に届いたものを横流し(極秘)して持ってきた”お歳暮”を差し出します。
 しかし、熨斗紙には、送り主が書かれていない事を目ざとく見つけた阪本さんが、主席代行にちゃんと描くようにと詰め寄ります。
 しかも、
「主席(代行)なら、”ガイレン”の”レン”の字くらい何も見ないで書けるよね。」
と申し添える事も忘れてはいません。流石です。
 たちどころに筆ペンが用意(こういうのが、すぐ出てくるのが・・・。)され、一同が見守る中、なんと!主席代行はサラサラと”外惑星聯合”と見事に書き切ったのでした。(そんな事もあろうかと、ちゃんと書き取りの稽古をしてきたのだそうです。)
 かくして、外惑星聯合主席代行から、人外協本部≒第三勢力?へとお歳暮が手渡され、この歴史的な茶番・・・いや、会見は無事終了したかに見えました。
 だが、しかし――。
「あ、そうそう。じゃ、これをお返しに――。」
 そう切り出した阪本さんが目配せをし、それを察した竹林さんがニヤリと笑う・・・という一連の怪しげな動作の後、傍らから出てきたのは、一本のウイスキー壜でした。
 反射的に受け取った私は、その瞬間にまんまと嵌められた事に気が付きました。
 何故なら、そのウイスキー壜には、何やら秘密めいた(笑)割り箸袋が、輪ゴムで止めてあったからです。
 訝しげに思いながらも、その箸袋を外し、開いてみると、手書きのメッセージが書いてありました。

 ――2000.1年の忘年会は任した。落合(哲)

 ご多忙の為、不参加だった落合[MSG]隊長からの勅書でした。(箸袋に殴り書きって辺りが・・・。)
 二の句が継げず、私は改めて文面を注視したまま、その場に立ち尽くす事、数秒・・・。あ!
 「2000・・・1年???」
 そんな先の事ならなぁ・・・。( ̄ー ̄)
 などと本性を出し掛けますが、流石は人外協。
 その場で火急的速やかに改暦が行なわれ、来年(つまり今年。)は「忘年会暦2000.1年」という何だかよく判らない採択がなされてしまいました。
 ま、それをそのまま、受けるのも何となくアレだったので、外聯的には「2000と1年」と読み換えて、これを受諾(膝を屈するとも云います。)する事にしたのでした。
 そういう訳で、今年12月の人外協忘年会は、外聯の主催で、東北で行ないます
――トホホ。
 何だか、本部の方々に翻弄されるためだけに、東北くんだりからやって来たような気が・・・などという個人的述懐はさて置かれ、時計を見れば、もう6時。
 場所を3階の大宴会場(変則的な間取り)に移し、ようやく、甲紀21年度人外協忘世紀会の幕が切って落とされたのでした――。
 さてさて。
 「じき、介護保険の払い込みも始まろうかと云うこの歳になって、よもや、まだ!人外協が存続していようとは夢にも思ってもいなかった!」
 と云う阪本さんの激白、いや開会の辞(?)の後、イキナリ宴もたけなわ状態へ一気にヒートUP!
 かと思いきや、中々どうして、皆さん穏やかに談笑しつつ、酒を酌み交わしてらっしゃいます。
 が、そこはやはり人外協。
 坂野さんが順番に、本日の参加者25名をご紹介していたその時!
 誰かが気が付いてしまったのです。
 「外聯が端っこに並んでるぞ!」
 たまたま、テーブルの端に、私、その向かいが佐野さん、背中合わせで中谷さんと並んで座っていただけなんですが、「ネタが無ければ作るだけ!」というお歴々揃いです。
 早速、これまた偶然、中谷さんの向かい側に座っていた花原[まちゅあ]さんが、”犠牲”になってしまいました。
 「そうか!あの一列は外聯か!」
 その一声が座中からあがった瞬間、花原さんの運命は決まってしまったのでした。
 そこで私もつい、駄目押しの一言!
 「代行!印璽を花原さんに!」
 訳も判らずに、中谷さんから印璽を受け取ってしまった花原さんは、かくして、外惑星聯合代表部第2代主席に就任してしまったのでした。(外聯規則:印璽を手にした者が主席。)
 しかも、翌日、しっかり印璽を部屋に置き忘れたまま、チェックアウトをしてしまうという素晴らしい逸話まで残して下さった花原さん。貴方は、押しも押されぬ立派な主席であらせられます。どうか、これからも素晴らしい逸話を生み出して行って下さい。(合掌)
 さて、外聯主席が決定される一方で、実に様々な話題が飛び交っていた忘世紀会ではありますが、私は聖徳太子ではないので、その全てをここに網羅する事は出来ません。
 どうしても気になるという方は、素直に忘年会に参加して、ご自身でお確かめ下さい。(笑)
 と、締め括ってしまってもアレなので、以下抜粋。
 鬼頭[不死身のエンジニア]さん(確か)がPalmを取り出したのをきっかけに、沖田[宴会大魔王]さん、竹林さん、島田[おねえさま(はーと)]さん、神北さんが宴会そっちのけ(?)で、Palmの品評会をやっておられたのを傍らで眺めながら、人外協だなぁとこの日、何回目かの根拠薄弱な感慨にふけったりしているウチに、取り敢えず、一次会はお時間となってしまいました。
 その後、間髪入れずに、5階の部屋の方で、持ち込み、買い出しガンガン!の二次会に突入です。
 年季が入っているせいか、実に対応がスピーディ。
 役割分担が暗黙の内に決まっているのでしょう。
 アッ!という間に買い出し部隊が出動し、酒肴類の現地調達が完了しています。
 と、ここで小宮[空軍注意]さんが、持参したボストンバッグから何やら縄状の物を取り出し、「これを是非、主席代行に――。」とのたまわれました。
 元自衛官の小宮さんらしく、それは儀礼用制服に取り付ける飾緒と云うもの(あの肩口に掛かってる縄飾り?ですね。)でした。
 ああ、ビックリした。
 いきなり縄を取り出して、ナニをするつもりだ、この人は???と思ったものですから。(笑)
 いや、失礼しました。
 早速、中谷さんが、小宮さんに付け方を教わりながら、”浴衣の上に”取り付けます。(おいおい。)
 この後、花原主席も飾緒を”浴衣の上”に取り付けてましたが。って事は、外聯高官の儀礼服は、”浴衣に飾緒”と云う取り合わせで決まりなのでしょうか?
 しかも、何故かお二人とも浴衣、左前で着て来るし・・・。
 さて、二次会もドンチャン進んで行きます。
 やにわ、阪本さんの「僕たちが夢見ていた21世紀はこんなモンじゃなかった!だから来年からは閏20世紀をやるぞ!」宣言が発布されたり、「スペースカウボーイ」の話しから始まった偏った嗜好の映画談義。何故か、皆さん熱心に聴いて下さった私の携帯業界裏話など。(しかも、何故かお茶を啜りながら。)
 一部屋の中に車座が三つくらい出来た状態でのクロスオーバー気味の話題でしたので、もう全然把握できてません(こればっかり)が、でも、これだけは間違いありませんでした。
 た、楽しい――。
 殆ど初対面であるにも関わらず、実に気さくな方々ばかりで、心底、盛り上がった一夜でありました。
 何せ、ホントウに下戸である筈の私が、ついつい酒を飲んでいた位ですから。(まあ、往年の武勇伝もお聴きはしたのですが、あまりにアブないので、ここでは割愛しますね。)
 草木も眠る丑三つ時、流石に全員、寄る年波には勝てず・・・いや、明日も早いからね、という大人の判断で散会し、各々の部屋に戻って就寝となりました。
 その後、布団と部屋の人数が噛みあわず、ウロウロしていた不幸な方もおられたようです。(合掌。)
 翌朝、斜向かいに寝ていた花原主席の目覚し時計で眼が醒める(でも、花原さんは爆睡したまま。)と、中々に麗らかな良いお天気でした。
 町内会の餅つき大会を仕切る(笑)為、沖田さんが早々にご帰宅の途につかれ、続いて、親戚の法事の為、小宮さんも礼服姿でご帰還されましたが、残った方々は、10時30分のチェックアウトまでウダウダしたり、温泉に浸かりに行ったりして過ごされておりました。
 でもって、チェックアウトの後は、恒例(なのかな?)のオプショナルツアーという事で、今回は、湯河原町の隣り、小田原、小田原と云えば提灯!と主張する一派(フロイト派)の抵抗も空しく、場当たり的に小田原城を見学に行く事になったのでした。
 電車組と車組に分かれ、ホテルを出発。
 途中、愛車が渋滞に巻き込まれて、出遅れた鬼頭さんの到着を待・・・たないで、みんなトットと小田原城址公園の天守閣前広場に向かいます。(汗)小田原ダンジョン案内図

 広場はちょっとした動物園になっていて、象やら日本猿やらの檻が随所に配置されていました。
 適当にそれらを見ながら待っていると鬼頭さんがやっとこ到着。全員揃った所で、メインの天守閣見学へと向かいます。
 で、天守閣へ登る石段の手前で足を止め、案内板を見入る事、暫し。
 やがて、一同、”Odawara Jo Tenshukau”というローマ字表記の下に書かれた” Odawara Castle Donjon”という英文に、眼を止めました。
「ふ〜ん。天守閣ってダンジョンって云うんだぁ。」
「ダンジョンねぇ。向こうのお城とこちらじゃ目的も意味も違うんだなぁ。」
「展示物のツボの中とか探して、武器取らないとね。」
と、ダンジョン談義に花を咲かせながら、石段を昇り、現在は博物館となっている天守閣〜Donjon〜へと向かいました・・・。
 ――今、念の為、英和辞書を引いてみました。
 すると、全く同じ発音で、別の単語”Dungeon”ってのが・・・。(泣)因みにこっちは『城内の土牢』。
 そうなんです。
 ”Donjon”と”Dungeon”って、同音異語だったんです。勿論、RPGなどで云うところのダンジョンは”Dungeon”の方である事は云うまでもありません。
 果たして、誰が”確信犯”で、誰が”天然”だったのか?それは小田原城天守閣だけが知っている事でしょう。(ご参考までに私は後者です。シクシク。)
 しかし、片や天守閣。片や土牢って、英語圏の人の考える事は判らん・・・。
 などと行数を稼いでいる内に、一同、天守閣の展示物もすっかり観終わり、最上階で小田原市街のパノラマとお土産漁りをひとしきり堪能した後は、またブラブラ歩きながら、城内を散策。
 レンタルのお姫様装束と鎧武者装束が、やけに安い事に感心しつつ、思いっきり迂回して、お堀端のお蕎麦屋さんへ入っての昼食タイムとなりました。
 この時も、みんながすっかり食べ終わっているのに、花原主席の”穴子天丼”だけ来なかったりと、すっかり主席らしい逸話を残しておられましたっけ。
 この後、JR小田原駅前で解散し、各々家路へと着いたのでした。
 勿論、花原主席は、先述したように、ホテルに置き忘れた印璽を取りに戻られました。
 何しろ、うっかりホテル関係者が触ろうものなら、第3代主席が誕生してしまいますからねぇ――。
 てな訳で、今回の教訓とお浚いです。

 それでは12月に東北でお会いしましょう!




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