石川県民の森キャンプレポート

大井[ないしょ]俊朗

 1999年10月23日

 はじめまして、大井俊朗という者です。
 今回、縁あって10月下旬に催されたキャンプのレポートを書くことになりました。人外とは無関係(いや「やねこん」で「こうしゅうえいせい土方」の売り子をしたような記憶が)なのですが、いつのまにか担当に決まっておりました。
 「暇だったらキャンプに来ない?」と誘われたのは10月の2日、ダイビングのために兵庫県香住町へ向かう夜更けのハイエースの中でした。甲州先生に間近でお会いしたのは岡山大学の学祭に来ていただいたとき以来で10年以上も経っています。当時はSF同好会の下っ端で満足にお話をすることもかないませんでした。これはチャンスだ、と思った私は平静を装って「急な予定が入らなければ」などと応えながら、内心は快諾していました。
 さて当日の10月23日、私は當麻さん(ガメラってなんのことですか?)のデミオに岩瀬さんとともに同乗させていただくことになりました。最初の集合場所の北陸自動車道賎ヶ岳SAに早めについたのでぶらぶらしていると、「それらしい方々」が続々と集まってきます。さすが青年人外協力隊。濃い方が揃ってらっしゃる。ここで初対面の方をご紹介いただきましたが、本名をお聞きしても会話では字が飛び交うのでそう簡単には憶えられません。そのあたりは追々にということで、石川県県民の森へ向かいました。
 現地に到着したのは午後3時頃でしょうか。天気は快晴でしたが山々に囲まれた県民の森はちょっと涼しい。これで日が暮れるとどうなるのか・・・。この県民の森は何度も使ったことがあるとのことで管理人さんとの意志疎通もよく、貸し切り状態ということもあって(この時期に泊まる団体は珍しいとか)準備が始まると早い。人外の方々は手慣れたものでキャンプ場までの荷物の運搬、ケビンの確認、薪の確保とどんどん進んでいきます。そのあいだもそこかしこで人の環ができて笑いがこぼれてきます。なにか懐かしいその光景に人知れず浸っている自分に気が付くと、ファンダムからかなり長期間離れていた事実に驚いてしまうのでした。
 そうそう、キャンプ初参加(でしたよね)のカーリーさんを見て、管理人さんが流暢な日本語を話す外人さんがいるこの団体は一体どういう人たちなのだろうと思ったそうです。そして「どういう集まりですか」との管理人さんの質問に「文芸サークルです。世界中にメンバーがいます」と答えたそうです。
 テントを張りはじめるころに甲州先生ご一行も到着し、作業も一気に加速します。夕食のカレーの準備がはじまり、手持ち無沙汰な私は調理場付近をうろうろするしかありません。「決まり役」をもつ”まちゅあ”さんがどんどん飯盒炊飯の準備をするのを尊敬のまなざしで見守るだけです。すでにビールが出回りはじめ、甲州先生の奥様手作りのおつまみをいただきながらさらに探して、ようやく火の番という役割を得たのでした。しかしこれがままならないもので、火の前にいたいけどお酒ももっと飲みたいという二律背反にしばし嘖まされることになります。しかし「職人」”まちゅあ”さんの飯炊きを間近で見ることができたのは有益でした。

キャンプのカレー キャンプのカレーってどうしていつもこんなに美味しいんだろう(勿論、作る方々の腕がいいからなのですが)と、「三食カレー一週間でもOK」の私も大満足のカレーをみんなで貪るように食べ終えてもまだ午後7時頃です。当然あたりは暗闇に覆われてしまいましたが、夜空は快晴。見上げると木々に囲まれて小さなキャンパスのようにも見える天上には星が満ちています。つい一年前まで田舎に引っ込んでいた私には懐かしい夜空でしたが、私は海辺の生まれ。山は勝手が違います。気温はどんどん下がっていき、飲んでも飲んでもはしから酔いはさめていきます。その間にも「天羽さん行方不明事件」が勃発し(山に入って忍者の修業をしていたとか)飽きることはありません。いつのまにかキャンプファイヤーにも火がはいって、みんなで炎を取り囲みます。そしてみんなで手をつないで歌を・・・歌う訳はなく、本格的な宴会に突入していきました。もうこのあたりから時間の感覚がおかしくなって(単に酔っ払っていただけかも)気が付くとキャンプファイヤーの炎も下火になり、また寒さとの格闘(痛飲ともいう)がエスカレートしていきます。夜空には満月に近い月が登り煌々とキャンプ場を照しています。その月光のもとで終りを知らぬように延々と続く宴はサバトの様相を示しはじめ、私には本物の「人外」の集団のただ中にいる気さえしてきました。
 しかし、火が完全に落ちてしまうと山の夜気は本格的に襲ってきます。冷気で体の芯まで冷えてゆくのに絶えきれず、テントへケビンへと三々五々と散らばっていきました。まだ午後11時前だったと思います。私はケビンに泊まることにして、まだちょっと飲もうとお酒を確保してケビンに向かいました。ケビンは天井が高く立派でしたが、それでも風が入り込まないという程度で寒いことに変わりありません。そこでケビン組の當麻さんやNinaさんとしばらく飲んでいましたが、日付が変わるころにはさすがに気持ちいい酔いが眠気を誘ってきて、ようやく寝袋に潜り込んで就寝したのでした。キャンプ場のほうではまだ宴会が続いていたそうです。人数が減ったぶん過激になったようで、その時間のことはみなさんあまり口にされませんでしたね。
 翌朝、というよりも夜明け前の午前4時頃にはたと目が覚めてしまいました。体内時計が4時間睡眠に慣れているせいですが、そこから再び眠ることはかないませんでした。酔いが完全に覚めてしまって体が冷えきっており、もってきた衣類を全部着込んで寝袋に入っても十分な暖気を確保できませんでした。ツーリング用に買った安物の寝袋では山には対応できません。もし来年初めて参加される方がいらしたら、しっかりした寝袋を購入されることをお奨めします。
 さて、寝袋の中でまんじりともせず寒さと戦って時間をやり過ごしているとようやく明け方になりました。お腹も空いてきてたので身支度をしてケビンを出て、キャンプ場に降りていくとすでに朝食の準備が始まっています。そこで私はまた火の番につきました。
 甲州先生の奥様が用意されたホットドッグを焼きはじめると、ちょうど時間を計ったようにみんなが起きだしてきます。そしてここから朝食、ちょっと遅めの朝食、早めの昼食、本格的昼食と絶え間ない食事の時間がはじまったのです。噂には聞いていましたが、本当に延々と食べて飲むんですね。朝食が終わったころに少しのインターバルがあったぐらいです。その時間はひとまず空腹が満たされた幸福感にひたりながら、みんなで日なたぼっことなりました(本当に日光にあたって体温を上昇させるウミイグアナの群れのようでした)。
 早めの昼食のあと、私は腹ごなしにキャンプ場近くのハイキングコースを一人で登ってみました。入ってすぐに「熊に注意!」の立て札があるのにはすこしびびりましたが、まだ紅葉の気配のない木々に囲まれているとそんなことはすぐに忘れて無心に登ります。しかし日頃の運動不足でそう遠くはない分岐点でそれ以上の行程は断念しました。その分岐点では木々の切れ間から下界の一部を垣間みることができ、晴れ渡った空と緑の世界にかすかにこだまする「人外」の笑い声に、私はこのキャンプに来て本当によかったと思ったのです。
 心残りがあるとすれば、甲州先生とあまりお話できなかったことでしょうか。今年のSFMを2月号から積んだままにして「果てなき蒼氓」を読めていなかったのが心のすみにひっかかっていたのか、ちょっと身を引いておりました。ああ、もったいないことを。これではまた来年参加するしかありませんね?


99年忘年会レポート

坂野「いっちゃん♪」肇

 今回の長浜忘年会であるが、まずは如何にして私がいくことになったかを語らずばなるまい。
 忘年会直前になっても自分が参加申し込みをしたのかどうか覚えがなく、私の手元に参加のご案内が舞い込んだことに端を発する。
 って大げさには言ってみたが、単に20周年に参加するって言ってしまった気もしてたので、幹事の天羽さんにどうなっているのって聞いたところ「来るだろ」って言われてしまっただけなんですけど。(天羽さんすみませんでした)
 さて、本題の忘年会に話を戻すとしよう。いきなりだが、送迎を受けられる時間には遅刻をかましてしまった私としては、残念ながら、駅から宿泊施設でも有る宴会場へ向かう光景を述べることもできない。結局、宴会の前の語らいの途中から参加したのですが、まだ、夜のスパートへのウォーミングアップと言った所であった。しかも、後から知ったところなのですが、もう長浜の周辺をこの日の内に事前調査を(飲み食い中心?)した方もいたようである。そして6時になり、宴会場に移り宴会開始。参加者は開始時には16名で、食事に遅れた方が1名、食後に到着の予定の方が1名であった。
この参加者の7・8割以上が、まぶだちの会員であったり、また、ファーストコンタクトのメンバーであり、人外協、まぶだち、FCJの合同忘年会である事がここで明らかになり、のべ約40人の忘年会として大々的に開催される事となった。
 食事はさすが近江牛の産地と言うべきか、牛刺しなどをからはじまり、最後は牛肉の鍋物までとたいへん良いものであった。。また、この鍋物の後にご飯が出てきたたため,終わった鍋にぶち込みおじやで閉めるかたもちらほら確認された。
 宴会場からもどってきて、再スタート。日本酒やら、スコッチやら、ワインを囲んでの宴会となる。ワインは小野塚氏寄贈のチリワインであり、この白が一番早くなくなったような記憶があるような気がする。
 飲みながら(酒に飲まれながら?)もロボットコンテスト地方大会まで起きているとの気合を入れる人が多数居りました。が、実際に25時まで起きていたのは5名に過ぎなかった。
 まずは第三勢力のプロパガンダに始まり、第三勢力による外聯の弾圧が行われたようである。やはり、アンダーカバーにない、もしくは、外交官特権を持たないエージェント一人では窮地に追い込まれるのは致し方ないところといえよう。しかし現地において、本家、元祖、正統派、?(あれ、大元の勢力ってなんだっけ?)からのステートメントが行われなかったことについては、今後、多数の憶測を呼ぶこととなるであろう。
 さらに、今回も有りました、PDA・モバイル談義(展示会?)。余談では有るが、人外協で根強い人気のLX200が出てこなかったのは今回が最初のような気がする。
 さらに時が過ぎ、天羽氏の真珠のはなしから始まる公演会の様相を呈し、真珠の見分け方や人造真珠と天然真珠の違いからマルチ商法までの講義が行われた。
 そして、いつの間にやら時間もたって、ロボットコンテスト関西地区の放映時間になっていた。地区大会で関西の8チームぐらいが参加してトーナメントを行ったのだが、なんと、全ての試合で1点も入らなかったのである。同点の場合には電力消費が少ないほうが勝ちであり、また、行動に失敗してファールゾーンに触ってしまった場合には減点と言うルールから、だるまさん最強説が謳われたほどである。これを見た阪本氏はいたく悲しんでいたのが印象的である。
 そして、これを見終えた後、精神的ショックを隠しきれない我々は、須らく布団についたのである。
またその後、私が確認できた戦果は
 日本酒、撃沈1,撃破1。ウイスキー、撃破1。ワイン、撃沈2であった。
さらに、いつのまにか撃破が撃沈になっていたような気もする。
 そして翌朝、多数の方が朝風呂に行かれる中、寝ぼけていた私は風呂の単語が認識できていなかったようである。その後、ばらばらに食堂に集合し朝食を採った後、昼間の行動についての打ち合わせなどを行った後、旅館を後にした。このとき、急ぎの方はそのまま別行動とし、あとは市内観光の後集合し、一緒に昼食を採る事となった。また、この日にまちゅあさんが海外に行かれるとの事ですでに朝早く旅館を後にしていた。空港までの道のり、乗り過ごさずに無事到着できるかを我々一同が心配したことは言うまでもない。
 市内観光ではいくつかのグループに分かれた。私は長浜城や鉄砲博物館をまわったのだが、ショッピングの後、おそばを食べてから昼食に来た方々もいた。昼は、ドイツ料理っぽい店で、地ビールとともに食事となった。そして、そのまま解散となり、今に至る。




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