96年新年会レポート

田中[暗号兵]正人

 今年の新年会レポートを書くことになり、参考になるかと思い手許の『甲州画報』閉じこみファイルを繰ってみたところ、95年度の大阪新年会のレポートは結局書かれないままであった。1月号の発行日付は15日となっていたが、新年会レポートは企図はされたものの(そして、いずれかの人物に発注されたものの)入稿がこれに間に合わなかったものであろうか。だとしても通例の年なら2月号へ繰り越しとなりそうなものであるが昨年に関してはそれはありえない。理由はここで書くまでもない。

…と、一見何の関係もない話題を枕にしたのには理由がある。実は本年の新年会レポートについては、私に関しては書くことがないのである。何故かはすぐに判然とするだろうが、とにかく人選としては全く不適切な私が新年会レポートを執筆するに至ったのには、また別の理由がある。その一半について説明しておくことも無駄ではないと思うので、以下にまず述べる。
 人外協(正式名称(?)「谷甲州黙認FC 青年人外協力隊」)連絡誌『甲州画報』(以下『画報』)には毎号「例会レポート」と題する日本各地で開催される「支部例会」の報告が掲載されている。これは私の知る限り(私は隊のオリジナルメンバーではないが、一応通巻号としてカウントされている全ての『画報』誌を所持しているので、その所持分の『画報』を検索した結果という意味であるが)『画報』においてもっとも古くから連載の続いている記事である(開始は2号から)。この「例会レポート」はもちろん当該例会に誰が参加し、何が話され、何が行われたかが記されたものなのであるが、そのタイトルから明らかな内容の属性の他に、一つの不文律があることは意外に知られていない(少なくとも『画報』本誌にその不文律が明示されたことはない。もっとも明示されないから不文律なのであるが)。ではその不文律とは何か。例会の常連となっている隊員には自明のことであると思うが(ただあるいはこれは大阪支部だけのことなのかもしれないのだが)、例会レポートの執筆者は可能な限り当該例会の初参加者、あるいは初参加にもっとも近いキャリアの隊員が担当する、という原則である。今ここに総ての例会レポートの執筆者と参加履歴(ただし、文中その他の現在の懲る記録から明らかに判断、または推測できうるものに限るが)との相関関係を詳細に検討しその結果を示す紙幅も準備もないが、この不文律は一応かなりの確度で守られてきたといってよい。ただし、いかなる規則にも例外は存在する。ほぼ五割の率で例会に参加し(ただし大阪支部月例のものに限り、新年会を含み忘年会、隊員結婚記念宴会およびキャンプを除く)、それを1988年秋以来7年以上続けながら一度も例会レポートを執筆したことのない隊員が大阪支部に現存する。この稿の筆者である。
 もちろん私が今回の新年会レポートを担当することになったのはそれが全ての理由ではない。それは、私に執筆依頼された隊員の名誉のためにもとくにここで強調しておきたいと思うが、とにかく種々の経緯を経て私に例会レポート執筆の任が回ってきたわけである。

 さて。
 1996年度新年会は昨年度に続いて大阪ミナミの「エーデルワイス」で開催された。本来ならここで参加者名簿、開始および終了時刻、会費、および店から出された料理のメニューと消費された酒の種類と量といった基本的なデータを報告すべきなのであるが、実は筆者の手許にはそのいずれのデータもない。冒頭で私がこの新年会レポートを担当するに「人選として全く不適切」と称したのは一にかかってこの点にある。ことに参加者のデータの欠如については致命的である。いまの時点で私が確言できるのは、私が店に着いた時刻と乾杯の行われた時刻の大まかな数字についてぐらいであろう。それぞれ午後6時半前、午後6時50分ごろである。乾杯の音頭は幹事によって行われた。だが私が書けるのはここまでである。
 では宴席の次第はどうか。定量的なデータは無理でも定性的なものは指し示すことができるのではないか。そう期待される向きもあるいはごく一部にはあるかもしれないがそれも不可能なのである。時間は判然としないが(逆に判然としないのが当たり前なのだが)、年末からの不摂生(休肝日なしの暴飲)とよる年並みがたたって、僅かな酒量で(だがその酒量も判然としない)執筆者自身が人事不省に陥ってしまったからである。ただ、これについては責めを負うのは私自身であることをここで確言しておく。宴席が開く以前にレポートの執筆を依頼されそれを承諾しているからである。にもかかわらず以上のような状態になったのは私の健康管理の失敗と義務の観念の欠如と指弾されても弁解の余地はない。例年の如く高歌放吟と談笑の嵐の中、今年はピアノと歌が店の方から提供されたというのは一つのトピックであろうが、肝心のナンバーについてもここで記することはできない。いくつか断片的に記憶している事実は存するが、順序立てて記述することが不可能なため全て省略にまかせることにする。
 宴席がお開きとなったのは午後10時半ごろであったと記憶しているがこれも確言はできない。三々五々帰途に着いたわけであるが個人的には自宅へ帰り着けたのが奇跡に近い体調であり、翌日は宿酔のため夕方まで起き上がれない状態であった。

 上述の如き文章が人外協の活動記録としてどれほどの価値を有するものかは諸賢の判断に委ねられるところではあると思うものの、課された仕事に関して不本意な文章しか草し得ないのは慚愧に耐えないところである。まことにもうしわけないことでした。


戦いすんで、夜は明けて

天羽[司法行政卿]孔明

 えぇー、あけましておめでとうございます。
 本年もあいかわりませず、どうぞよろしくお願い致します。

 ところで、昨夜の人外協新年宴会に参加されたみなさん、色々と楽しゅうございましたですなぁ。(^_^)
 宴会がひらけた後、みなさん無事に家に帰りつかれましたでしょうか?
 どうもおみうけした所、そうとうに酔っている方が何名かいたもようでしたが・・・。
えっと、かくゆうわたくしも、アルコール度数50度もあろうかというようなウオッカをはじめ、昨夜はずいぶんと呑ませていただきました。
 酔った勢いとは恐ろしいものでございます。わたくし、見ず知らずの一般客の方と御一緒に、「ざぶとん」なるトランプゲームに興じてしまいました。同じプレイヤーの中に、森岡浩之がいた事が、唯一の救いであったでありましょうか・・・。
 又、同じく酔った勢いで、沖田かつ子様より、新作落語を一本書いてくれと頼まれてしまい、いとも簡単にその依頼を受けてしまいました。おぉ、わたくしにそのような大役がつとまるのでしょうか? でもまぁしかし、たとえ酔った席とはいえ、受けてしまったものはしかたがない。おれも男だ! やるときゃやらねばならぬ。万全を配して書かせていただきましょう!
 ところで、宴会所のエーデルワイスを出たのが夜の11時。店の前にて騒がしくしていた所、通行中の酔っ払いの一人が、「うるさい奴らやのぉ」と言ったのを聞いたのは、はたしてわたくし一人だったのでありましょうか? まっ、酔いどれ人外協に怖いもの無しかもしれませんが・・・。さてその後、わたくしは、他有志数名とともに心斎橋の蕎麦屋にてうどんじゃの蕎麦じゃのを食し、その後それらのメンバーとも別れ、わたくしは一人JR難波の駅へと向ったのであります。
 この時、時間は11時55分。ちょうど終電一本前の0時06分発の普通奈良行きが止っておりましたので、その電車に無事乗込む事ができました。あぁそれにしても、この後恐ろしい出来事がわたくしを襲う事になろうとは、いったい誰が予想したでありましょうか? ともかく電車はJR難波を離れ、一路我が家のある志紀駅へと向ってはしりはじめたのであります。
 ここで、このJR大和路線の駅名を列挙しておきましょう。

 難波・今宮・新今宮・天王寺・東部市場前・平野・加美・久宝寺・八尾・志紀・柏原・高井田・河内堅上・三郷・王寺・法隆寺・・・・・奈良へと、続いていくのです。

 さて、先に書きました通り、通常わたくしめの下りる駅は志紀駅です。ただし、家そのものは志紀駅と柏原駅のほぼ中間にあるため、柏原駅にて下りても、充分に帰りつく事ができます。さらに最悪、高井田の駅でも、無理すれば歩いて帰りつく事はできるのです。
 ところがわたくし、八尾駅まではちゃんと起きて本なんぞを読んでいたのでございますが、あぁ次の駅だなっと、気を許したのが間違いの元。ついうかうかとそこで眠ってしまったのであります。はっと気がつくと、車内アナウンスにて、「次は河内堅上です」なんぞと言っているではありませんか?! おぉ、驚きであります。
 河内堅上駅というのは、大阪と奈良の県境にある小さな無人駅です。そこからは、到底歩いて帰れるような場所ではございません。
 しかしわたくし、無謀にもこの駅にて下りまして、陸橋を渡って反対方面行きのホームのへと行ったんです。しかし、なんと恐ろしい事に、反対方面行きの最終電車は、0時06分に出てしまっているのです。奇しくもこの時間は、わたくしが難波にて電車に乗った時間であります。そして、現在時間は0時35分。はてさてどうしたものかと考えていますと、わたくしと同じように陸橋を渡ってくる一人の人影。見れば25才ぐらいの男性であります。わたくし思わず、「兄ちゃんも乗過ごした口かえ?」と聞いたのでありました。と、やはり彼も柏原で下りる所をつい寝過してこの駅で下りてしまったとの事。戻りの終電が無い事をつげると、彼はがっくりと肩を落としてしまいました。
 さて二人で、この後如何しようかという話になりました。
 幸い、我々の乗った電車は最終一本前でしたので、このあとまだ一本、王寺行きの最終電車が0時59分にやってきます。これに乗って王寺まで行けば、さすがにタクシーもひろう事ができるでしょう。又そのさい、二人で割り勘にすればタクシー代も安くはなるでしょう。しかし我々二人は、それをしなかったのです。
 なんとこの彼が、友人の車を呼ぶので、どうぞそれに乗って一緒に柏原まで帰りましょうと言ってくれたのであります。ありがたい、ありがたい・・・。
相談の後しばらくして、最後の望みの最終電車は王寺に向けて出てしまい。わたくしとその彼の二人は、彼の友人が来てくれるのをむちゃくちゃ寒いホームにて待つ事になったのです。
 あまりの寒さに堪えられなくなった二人は、ホームにあったたきぎ用のドラム缶に、自動販売機の後ろにおいてあったダンボールを入れて暖をとったのです。その後しばらくして、無事に彼の友人と名乗る人物が現れて、1時40分にあったかい我が家へと帰りつき、お風呂に入って眠る事が出来たのです。あっ、もちろんたき火の火は、最後にちゃんとお水を掛けて完全に消化しておきましたよ。
 みなさんも、このように駅を乗り越してしまうほど呑むのはひかえましょう。
さて、今日もこれから呑み会へ、行ってきまぁーす


石川県民の森『人外境』の宴

西東 万里

 1996年10月12日土曜日、雨

 「谷さんのファンクラブは、ジンガイキョウというんだぜ」
 水城雄がそう言ったとき、私は頭の中で、自動的に「人外境」と変換していた。文字に伴い、おのずとイメージが生まれる。
 九五年の石川県民の森におけるキャンプが、隊員諸氏との初対面だった。このときは、谷親方(FBOOKでの谷氏の尊称)に片道四十五分をかけてわざわざ迎えに来ていただくという、だいそれた真似をしくさってまでの、とんでもなく顰蹙な参加である。
 人外境の人々は”意外”にも親切であたたかかった。食事も豪華である。人外境というからには、住居地区から離れた(火星の)荒れ地に、ほそぼそと食をつなぐような生活をしているに違いない、と思いこんでいた私には、大きな驚きだった。
 そしてあいかわらず、人外境と脳内で変換したまま、今年のキャンプを迎えた。
 一九九六年十月十二日土曜日、雨。
 駐車場で、顔合わせ。なんとなく見覚えのある顔がちらほら。昨年は誰のお名前もうかがう機会がなかったのだ、名前がまったく出てこないのはお許し願いたい。
 全員がそろったので、キャンプサイトへ移動。
 谷家のタウンエースを、キャンプサイトにほど近い駐車スペースにいれ、荷物を出していると、沢蟹が道路を横断しているのを見つけた。「わあっ」と駆け寄る子どもたち。微笑ましい光景だ。
 そこへ、他グループの車がのぼってきた。大人の「あぶないよ」の声に、子どもたちは素直に道端に寄った。
 目の前で惨劇は起こった。
 沢蟹はみごとにタイヤの下敷きになり、「ぐちゃ」という音をたてて潰れた。この事件で、まりかちゃんがひどくショックを受けていて、繊細さを強く印象づけられた。人外ならざることである。
 悲しみをのりこえて、キャンプの支度を始める
 なんといっても雨中キャンプ、設営はとってもめんどくさい。
「これは雨がたまらんようになっとるんや、なっとるんやが・・・・・・」
 といいつつ谷親方が張っているターフには、やっぱり雨水がたまるのであった。確かに、屋根に水をためない工夫があったのだが、それでもたまってくるほどの雨量だったのだ。その後、某嬢がたまった水を指でつついて、ざばっと落下させ、数名の被害者が出た模様。
 ターフの下のテーブルには、次々と荷を解かれた食料が並ぶ。
「おおっ・・・菊姫の吟醸がっ」
 多摩からはるばるバイクでのりこんだ竜野さんは、魔法のポケットを持っているらしく、菊姫やら五平餅やらをばらばらと出してくる。
 酒については、さすがに人外境というべきか、養老の滝をテレポートさせたかのごとく、尽きず登場するのがすごい。
 夕食のメインメニューはカレー。炭火で作るカレーは、ひたすら時間がかかった。当初の予定では、チキンカレーとビーフ(ポーク?)カレー、子どももOKの甘口カレーができるはずだったようだが、途中で肉が混乱して、よくわからなくなった。礼子さん、のぞみさんほか調理を担当されたみなさん、本当にごくろうさま。薪割り担当のけいさんも。炭火作り(笑)のカレーは、とにかくうまい。
 まちゅあさんらが中心となって、飯盒でご飯を炊く。炭火がまんべんなくまわらず、出来上がり時間がすれ、判断に苦しむ背中に、哀愁がにじむ。
 かたわらで、カレーを作る女性陣に遠慮をしつつ、そろりそろりと飲みはじめる面々。
 日が暮れてしまうと、完全に宴会モードに突入。依然、カレーは調理中である。
 水場から離れたターフの下では、牛タンやウィンナが焼かれはじめた。次々とあけられるビール。ここで生ウィンナを争って、骨肉の争いを繰りひろげる某母子。そうするこうするうち、カレーの配給が始まり、お子様たちはカレーに気をとられたので、ようやく落ち着いた大人の時間が始まった。
 特筆すべきは、ソース焼きおにぎりと、カマンベール・チーズ・フォンデュ。前者は単なる醤油間違いで、はっきりいってマズイから、今回限りを強く望むが、後者はぜひ恒例メニューにしてほしい逸品。金網の上に、表面に切り目をいれたカマンベールチーズを包み紙のまま乗せ、じっくり温める。柔らかくなってきたら、白ワインをいれ、伸ばして、フランスパンをつけて供する。誰の提案だったか、女性だったのは確かだ。
 ここのメニューに花を添えているのは、女性メンバーの斬新なアイディアや細やかな配慮だ。野営地での朝食のパンが、まさかきれいな紙ナプキンを敷いた籐のバスケットに盛られて出てくるとは思うまい。そうだ、昨年これを目にしたとき、人外境という変換は誤っているということを悟るべきだったのだ−−−。
 あらかた食べおわると、小雨の降るなか、強引にキャンプファイア開始。ガソリンをぶっかけて燃やすので、臭い。
「もうお腹いっぱい」
 と口々に言っていたはずなのだが、ホイルに包んで火の中に転がしておいたいも類は、ぜんぶきれいになくなった。
 キャンプファイアらしく、山の歌なども歌われた。しっかりお約束を踏襲するあたり、どうして”人外”とは思えない。
 夜は更けてゆき、そろそろおひらきの時間−−−と書いてはみたものの、実はまだ九時すぎである。始まったのが早かったので、食べ尽くすのも早かった。
 火が消えるころには、しつこく降っていた雨もあがり、ケビン組は暗闇をとぼとぼ歩いて、少し上にいったところのケビン山女(私はてっきりヤマオンナと思っていたが、翌朝となりのケビン名「岩魚」を見て、ヤマメと知った)へ。荷物を運びいれると、さっそく二次会が始まったが、激不調だった私はロフトですぐに寝てしまったので、詳細は不明。「子どもといっしょじゃないか」と初代氏にからかわれたが、実は(自分でも知らなかったが)病気のせいだったのだ。キャンプの翌週、胃潰瘍と十二指腸潰瘍になっていたことが判明した。みなさんも、疲れや痛みを感じたら、無理せず早寝してしまいましょうね。
 翌朝は晴れた。ありがたい。
 朝食にはもちろん、ナプキン敷きバスケット入りロールパンが登場。メープルバターや、あんず、こけもものジャム、手作りのいちごソース、ヨード卵(?)使用の見事な黄色の卵ペーストなどが添えられ、熱々の「早起きは三文の得」ボイルソーセージが山盛り。ペニンシュラホテルの紅茶缶もちらっと見えたりして、いったいここはどこ?の優雅さなのである。
 食後、湿ったイスをひなたに持ちだして干す。しばらくすると、シートから湯気がたちはじめた。まわりの杉の幹や地面からも、ほやほやと湯気がたちのぼり、なんだか妙に愉しい気分になてくる。
 前日が雨だったからなおさらだろう。晴れた日曜日はなにをやっても愉しい。
 ひなたぼっこをしたり、バドミントンをしたり、なごやかな午前を過ごす。そうこうするうち、禁断症状が出たのか、ビールが持ち出され、昼の支度が始まった。一歳になりたての荻野家の姫君・あゆみちゃんも、すっかり雰囲気に慣れたのか、ぐずりもせず愛敬をふりまいている。彼女は、典子さんが忙しいときはちゃんと寝る、乳児の鏡のような赤さまであった。
 恒例の焼き肉大会では、お待ちかねの骨付きソーセージ、なぜか秋刀魚、といったスペシャルメニューもついて(未確認だがお好み焼きも作られたようだ)、やきそばでしめる充実した内容だった。Ninaさんご夫妻らがまめに立ち働いてくださった姿が思い出される。
 ひたすら飲みつづける面々の横で、元バドミントン部の荻野さんにご登場願ってのバドミントン大会も、勝手におこなわれた。
 キャンプは撤収作業があるのが、なんとなくものがなしいが、晴れてくれたおかげでたいして難儀もせず、速やかに終わった。
 駐車場で再会を約し、解散。かくして、食べ尽くし、飲み尽した二日間が終わる。
 その二日間のレポートを書くべく、数週間後に参考のため「甲州画報」を夫人にお借りしてはじめて、私は人外「協」だったことを知った。−−−釈然としないが、結局”人外”なのだなあ。


96年忘年会レポート

五藤[宇宙軍広報部長補佐心得]三樹

 忘年会レポートである。いまはもう、2月。97年も始まって1カ月以上たとうとしているのに忘年会である。

 記憶というのは、時と共に去りゆくもの...。あの忘年会の後、岐阜で1回、名古屋で1回の忘年会それに宜野湾と大阪でそれぞれ1回の新年会をしてるから、5回も前の宴席のことなど覚えていられようか。
 そんな遥か彼方へ過ぎ去ってしまった忘年会のレポートをしろといわれても、出来るかどうかわからないけど、編集のPONKI隊員に約束してしまったからしかたがないのである。もっとも、今回の忘年会の幹事、上野隊員によれば忘年会の席上でレポートの依頼は受けていたらしい。だが、当時の僕の心はすでに年末年始の南の島でのバカンスへ跳んでいってしまっていたのであった。
 というわけで、忘年会である。たしか一昨年の、前回の忘年会忘年会の席上で−たしかあれは三河の吉良町、ホテル浦島のことだった−上野隊員が、

「次回は草津で・・・」
「アニソンの歌えるコンパニオンを呼んで・・・」
「ビル・ゲイツも呼んで・・・」

などという風に計画をしていた。しかし、何故か今回の忘年会は刈谷の猪塚隊員の所有する、通称「スキー工房」で行われることになった。この間にどのような計画の変更があったかは不明である。
 とにもかくにも96年11月30日、僕は午後2時頃に車で岐阜を出発、長良川を南下し弥富で陰山隊員と合流した後、特記事項もないまま5時頃には刈谷のスキー工房に到着した。今回の参加者は木村隊員、陰山隊員、鬼頭隊員、久保隊員、猪塚隊員、上野隊員、岩瀬隊員それに僕(順不同)の8人であったと思う。なにせ忘却の彼方の出来事だから。それにしてもいつもの人外協名古屋宴会と殆ど構成人員が変わらないのは何故であろうか?
 一次会はスキー工房の近所にある「サガミ」で行われた。中部地方では中村玉緒が怪しげなテレビコマーシャルをやっていることで有名である。もちろん、でてきた料理、鍋物、はちゃんとしたものだった。ここで2時間ほど順調に酒と食料を消費し、2次会会場へ移動。この時点で、タクシーでカラオケボックスへ移動することが提案されたが、なんとなく却下された。この後はスキー工房で深夜まで酒を飲んでいたのだが、残念ながらあまり覚えていない。
 明けて1996年12月1日、忘年会は大過なく終了し、我々は帰途についた。以上が1996年11月30日から12月1日にかけて開催された、青年人外協力隊公式忘年会の全貌である。
 刈谷から名古屋へ向かう途中、鬼頭隊員の駆るシトロエンAX(GTiに非ず)と僕の運転するフェアレディーZ(積算15万キロまであと一歩)の間で同乗者を巻き込んでの壮絶なバトルが繰り広げられたのだが、それはまた別の話である。




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