人外協10周年記念特別企画
さてこれからはどうなることやら

 今年の4月で谷甲州FC・青年人外協力隊(人外協)が結成10周年を迎えました。
 今回、「10周年特別企画」として、初期の頃から人外協に入隊されていた方々に、「思い出」を語っていただきました。
 また、特別に甲州先生のご家族にも原稿をいただきました。どうも有り難うございます。

 

この10年の記録

阪本[初代]雅哉

 最初に事実を述べておくと、
 人外協の例会は1988年4月に梅田の喫茶店「田園」で第一回が行なわれ、それ以来ほぼ毎月継続している。(東京、名古屋などは翌年から)月間連絡誌・甲州画報は翌5月から発行され、それいらいたった一度だけ休刊があったものの毎月発行し続けている。
 1989年11月から NIFTY-Serve のHP(特定メンバーが利用できる会議室システム)が隊員間の連絡や交流に使用され、現在にいたっている。(現在はPATIO と ML の併用)
 初期のころはSF大会や地方コン、NIFTY のFSFなどでかなり積極的に隊員の募集活動をしていたが現在は沈静化している。

 初めて谷甲州を面白いと思ったのは今から18年近く昔になる。だからといって当時の私にはファン活動を始めるなんて可能性はまったくなかった。
 何事にもきっかけというものが必要なのだ。そして、そのきっかけはかなりしてからやってきた。87年の暮れ頃に(当時はSF大会などにも参加するようになっていた)どこかで知合った誰かとどこかで「谷甲州は面白い」、「谷甲州にはまともなファンクラブが無い」などと話合っていたところ、しばらくして岩瀬さんから「谷甲州FCをつくりましょう」と電話がかかってきた。
 翌年春頃には話しもおおかた決まり、岩瀬、陰山両氏から「あんたが代表」と押付けられて「谷甲州黙認FC・青年人外協力隊」の隊長ということになってしまった。
 そうして始った人外協も今年で10周年を迎えた。10年だから特にどうと言うわけでもないが、あらためて「もう10年もたったんだなぁ」と思うと、かなり長い期間続いたものだと感慨がないわけでもない。

 私はこの10年間、取り立ててなにも苦労したり努力した覚えはない。ただただ、そのときに楽しい、面白いと思うことを思いつくままにやったり、人に押しつけたりしながら楽しんできたにすぎない。
 いまの様子を見ていると、今後もこのまま
―とは言っても、戦闘的とまで言われたことのある宴会も、ほのぼのと縁側でお茶をすするようなおだやかなものに変ってきたように、甲州画報が毎月発行されつづけるとも限らないし、アクティブな隊員が減ればただただ“有るだけ”なんて状況になるかもしれないが―
しばらく続いていくような気がする。
 ところで、10年も続いてきた功労者、
たくさん居るけど、特に名前を揚げるなら
まず長年「甲州画報」や「こうしゅうえいせい」の編集長だった岩瀬さん。それに現編集長の荻野さん。そして素晴らしい原稿をたくさん書いてくださった、林さんなどにはいくら感謝してもしたりない。
 もちろん他にも大勢(いや実は全員がそうなのかもしれない)功労者はいるが。
 あと、この10年間、甲州先生には迷惑をかけ続けたのかもしれない。SF大会で企画をする、誰かが結婚をする、などなどいろんな名目で宴会をする機会があるごとに引っ張り出し、一緒に楽しんでいると思いこんで仕事の邪魔をしていたかもしれない。
 だがまぁ、こんな外道なファンに見込まれたこと、そしてこんなファンに見込まれるような作品を書いたことの不運とでも思ってあきらめていただくしかない。
 当初は「3年でおしまい」なんて言っていたこともあったけど、今となってはまだまだ続きそうであるし。

 

じんがいむかしばなし……にならなかった言い訳

岩瀬[従軍魔法使い]史明

 モノガタリとしての民話・伝説・昔話は好きだが、個人的な昔話はあまり好きではない。特に自分のそれは。わたしはぢつはとっても根っ子が暗いので、昔のことを思い出すとたいてい反省と後悔でぐわわわわわっっとのたうち回るばかりになる。それでもしんねり個人的に反省するのはそれなりに建設的かつ必要なことではあろうけれど、あまり他人に喋って面白いものにはならない、というか、できない。
 というわけで、長年の甲州画報&こうしゅうえいせいの編集長としての楽しい裏話を期待されても、書きようがなかったりするのだった。いや、寄稿してくださる隊員と意見・要望をぶつけあいつつ、或いはいただいた素敵な記事にでへでへにたにたしつつ、紙面・誌面をつくりあげていくことは、甲州センセの肉声にしばしば触れる機会に恵まれたこととともに、もちろんとても楽しいことではあったのだけれど。
 しかしそれをさらりと巧く語れるほど、自分にとって編集長時代は過去になっていないということなのだろう。今の自分に満足できていない自分がある限り、その状況は続くのかもしれない。
 とにかく、編集長は、疲れる。堅気の社会生活を営みつつ、二百名近いシビアな読者のいる連絡紙を毎月一定の発行日に一定以上の品質で発行し、年に一度は百P以上のそれなりの品質を保った会誌を発行することを何年も続けるのは大変だ。わたしはぢつはあまり堅気とはいえない社会人だったのでなんとか持ち堪えたが、現編集長の苦労は(頼りになる妻子がいるとはいえ、妻子を抱えた社会人でもあるわけだから)察するにあまりある。本当にお疲れ様です。
 とにかく、編集長は、疲れる。しかしその疲れを癒してくれるのは、何よりも寄稿者の皆さんの反応だったりするのである。この紙面を借りて、改めて感謝させていただきたい。本当にありがとうございました。
 そして、現編集長の苦労を察してあげて、寄稿・感想を寄せてあげてください。ちょっとした貴方の一行二行の感想が、どれほど編集者を元気づけてくれるかしれない。人外協が無事元気に二十周年を迎えるためにも、どうかよろしくお願いします。

 

思いでや活動記録について

原田[事務局長]晋一

 こんにちは。
 「当時を振り返ってもらっての思いでや活動記録について」ですか。
 困りました、はっきりいってあんまし覚えていないです。
 ま、適当に書きますのであとはよろしく。

 88年当時といいますと、ちょうど私が大阪の松屋町で丁稚奉公していたころで、ちょうど同時期に他にもSFサークルをつくったりしていた頃です。(今になるとちょっと恥ずかしい思い出ですが...)
 このSFサークル(あえて名前は伏せますが)と人外協のどっちが先に出来たかとか当時のメンバーといったいどういったきっかけで集まっていたのかという記憶はもうどっかへ行ってしまいました。他にもUNICON2だとか色々あったような気もしますが、そのあたりはさだかではありません。
 思いだそうと思い88、89年当時のテキストファイルなんかを見てみたのですが、春期甲州祭の物品リスト位しか残ってなく、ほとんど役に立ちませんでした。人外協創立のいきさつなんかはどなたかフォローをお願いします。ま、謎のまま残すというのも味なもんですが。
 そんなこんなで当時の人外協を振り返るという事ですが、当時の事で覚えていることを列挙してみると、

これぐらいしか思い出せません。

 最近はカタギのイベントの方が忙しいのでまったく顔を出せていませんが、またそのうち復帰したいとは思っています。(そう思い続けて7、8年になりますが。。。)でもね、カタギの嫁さんもらって、子供もできるとなかなか日曜日に飲みに行くのが難しいんですよ...

 

生まれる前のこと

天羽[特殊解]麻衣子

 僕の名前は「なかがわたかお」。八尾市立志紀小学校の三年生。足利尊氏の尊に、英雄の雄で、尊雄。お父さんがつけてくれた立派な名前だ。でも、人外協での僕は、別の名前を持っている。天羽ガジラ、通称ガッちゃん。
 お母さんが言うには、大阪例会に参加して「赤ん坊が生まれることになったよ」と、みんなに報告したら、誰かが「ガッちゃんだ」と言い出したとかで、あっと言う間に、僕の名前は「天羽ガジラ」ってことになっちゃったらしい。まだ、男か女かもわからないうちに、適当に名前つけちゃうなんて、無責任だよなー。
 人外協も子供隊員が増えたけど、僕が子供隊員一号だもんね。それに、お腹の中にいるうちに、名前をつけてもらったのは、きっと僕だけなんだ。えっへん。
 ちなみに、場所は「ABC」とかいう喫茶店だったそうだ。オムライスが、やたらデカくて、おいしくて、おまけにスープまでついてて、そのくせ安かったんだって。「僕も食べたいから、連れてって」って言ったら「その店はもう、ないよ」とお母さんに言われてしまった。サービスが良すぎてつぶれちゃったのかなー。人外協の例会なんかに使うから、お店の人もイヤになっちゃったのかもしれない、と僕は思う。
 大阪の例会は「大阪市立中央青年センター」で、ずっとやってたんじゃなくて、昔は喫茶店でやってたんだね。初めて参加したときは「田園」っていう喫茶店だったそうだ。ピアノが上がったり下がったりするんだって。どういうふうになってるのか、僕にはよくわかんないから、ここにも連れていってほしいと思ってる。喫茶店でアイスミルクティーを飲むのが、僕は好きだ。ケーキもつけてくれると、もっと嬉しいけどさ。
 僕のお母さんは、人外協の女の隊員の中では、一番古いらしい。「古い」って言うと、お母さんは怒るかもしんないけど。古いっていうと、歳とってるって言うのと同じ意味なっちゃうからかな。でも、前に「お母さんがいなかったら、人外協はつぶれてたかもしれないんだからね」って、腰に手を当てて力説してたから、きっと僕のお母さんはとてもエライ人なんだと思う。なんたって、お父さんに土下座させちゃったりするんだから。
 考えてみたら、僕だって生まれる前から数えたら、もう九年くらいも隊員なんだから、ずいぶん古いと思う。子供だからって、馬鹿にしないでほしいよね。僕より後に隊員になった人は、今度から僕のこと「先輩」として敬うように!

 

思いでや活動記録について

溝口[日本沈没]幸生

 あ〜。皆様ご無沙汰しておりまする。溝口でございます。もう10年になるんですねぃ。昔話をしてくれとの事なので、思い出して、少々お話します。あまりたいしたネタが無いので、いささか苦しい所ですが。
 私が入隊したのが、88年の5月だそうで...88年と言えば巷はバブル真っ盛りの時だったですね。街を歩くあの人もこの人も、ワンレンなボデコン着たおねいさんで、皆羽振りが良かった時期で有りました。確か天羽さんとこから「今度人外協ってサークルの例会に出るけど、あんたも行くかい?」と、誘われまして、それが人外協とのファーストコンタクトだった訳ですね。
 最初の例会は、88年の5月か6月のキタの喫茶店「田園」だったと記憶しています。今の大阪例会と違って、当時の例会は喫茶店のテーブルを占拠して、うだうだと色々な話をしてました。その後の宴会では、隣のテーブルの堅気の方々も巻き込んで、大盛り上がり大会だったので、最初はちょっと吃驚しましたね。
 例会の会場は、田園と喫茶ABC(今はゲームセンターになってます)が多かったですかねぇ。変わった所では、中之島公園の公会堂でも1回例会やったと思います。発送の唄はまだ出現してませんでした。
 宴会が楽しくて、それが目的で参加してましたね(苦笑)。よもやま話や、色々な行動により、周りの無関係な人たちにも、人外協はウケまくってたような気もしますが...(汗)。夏場の宴会では、さんざ飲み食い&大騒ぎの1次会が終わって、河岸を変えようと外に出ると、夏場ゆえに日没が遅くって、まだ日が暮れてないんかぁなんて、驚いてたりとかも、ありましたです。皆さんテンション高かったので、随分体力を使う宴会でしたから。
 そいえばアウトドア企画なんてのも、やってましたね(あ、今でもやってるか)。初代が「人外協はアウトドアを目指すんじゃぁ」と、おっしゃってた様な記憶が有ります。私参加したのは、奈良の飛鳥方面で行われた企画でした。当麻君にゆかりの?亀石を見たり、公園で(何故か)真剣にカン蹴りで遊んだりとか。
 あれから随分沢山の会員さんが入隊して、例会での顔ぶれも様変わりしたようですが、最初期のわけわからんパワフルな時期を体験出来たのは、幸運?でした。
 なんかホンマに皆若かったですね。飲み方も遊び方も豪快でした(あんたが一番やったのでわって突っ込みは却下)。

 

思いでや活動記録について

足立[開拓班]泉美

 谷甲州という作家を知ったのは、本屋で平積みになっていた当時ハードカバーで発行されていた『カリスト戒厳令』だったと思う。何の気無しに手にとって、読んで面白かったので即座に購入したのは覚えている。もともと、私はSFファンというよりいわゆるコミケというものに参加したりする漫画/アニメ系ではあったのでSFといってもハインラインだのアシモフだのといった古典(?)を読んだ程度のSF読者であった。しかし、谷甲州は面白かった。
 SFマガジンは立ち読みですませていたのだが、ある日、谷甲州のファンクラブの隊員募集がのっていた。その刊は確か購入したと思う。入隊募集の案内先の住所が覚えるには難しかったので、本屋でメモをとったのでなければ、購入したはずだとおもうのだが、記憶があいまいでよくおぼえていない。

入隊当時の思い出>
 何の用事だったか忘れてしまったが、初代隊長である阪本氏に用事があって電話をした時のこと。多分、陰山隊員であったろうが「はい、地球防衛軍です」と開口一番に言われてしまい。「こりゃあ、凄いな」と内心うけた覚えがある。

谷先生と東京支部の思い出>>
初代東京支部長選出>
 選出といっても、当時、私と和泉「あめーば」隊員しか女性が東京支部にはいなかった。いつの東京例会の時だっか忘れたが飲み屋で東京支部長の話がでて、SFさんの反応というのを熟知している和泉「あめーば」隊員が脱兎の如く逃げ出したのだ、知らぬ私は奥に座っていて、なんか変だと思ったときには一瞬遅く、安達隊員だか沖田隊員だかの「とりおさえろ!」の言葉に反応した東京支部隊員によって、文字どおり「補縛」されてしまっていた。特に何かをしなければいけないという事ではないが、「う〜んやっぱりSFさんって凄いなあ」とおもってしまった。

谷甲州先生の思い出>
 よっぱらった谷甲州先生といのは、なかなか大変である。別にすけべになるとか、酒乱になるとかいうわけではない。ただ、酒がはいると、オートジャイロに狂いが生じるのかもしれない。

 沖田隊員の顔というのは、谷先生によると「政治家みたいな顔」というのらしい、なので、政治権力というものに何かしら含む物が当時の谷先生にあったのかどうかわからないが、例会で酔っ払って誘導するときに沖田隊員はとても便利であり危険であった。「おきたあああああ〜〜〜おきたはどこやああ〜〜〜」と叫ぶ谷先生に「あそこです、あそこあそこ!」と闘牛の牛の前の赤いマントの如く居場所を教えると、そちらのほうに向かってあるいていってくれるのである。沖田隊員も、ゆっくり歩いていてはどつかれる可能性があるし、かといって見失うとこまるので、数M先を駅にむかって歩いてくれるのである。ただ、問題点は沖田隊員と後ろ姿が似ている人というのは結構いて、「沖田〜〜そこかあああ」と無関係の方向に歩いていってしまうのを周囲が「違います違います、沖田さんはあっちあっち」と誘導するというのが昔、例会で谷先生が酔われた時に時々あったことである。

谷甲州先生のお嬢様方の思い出>
 綾瀬のお住まいから引っ越される折に、御手伝いをさせて頂いた。多分、数年後だったかと思うが、人外協のキャンプで谷先生ご一家と再会したときに、お嬢さんのどちらかに「おぼえてる〜?」とおききしたら、ジャカルタだったかネパールだったかの土地を上げられたのにやはり先生の御嬢さんだと感心した事を記憶している。

 他にも色々あるが、まあ、印象にのこった物を一つ二つという所であるし、過去よりも未来ということで、これにて御容赦。

 

人外協との十年

木下[らざるす#4]充矢

 今回の原稿依頼を阪本初代隊長から頂いて、まず驚いたのが私の入隊時期。一九八八年六月から人外協に籍を置いていて(置いてただけ、という話もありますが)、今年でもう十年にもなります。個人的には、ほぼ社会人としてやってきた期間と重なります。本当に早いなあ……。
 その間、宴会での甲州先生も交えての隊歌斉唱など、愉快な思い出はたくさんありますが、私の場合、一番思い出深いのは、やはり「異常兵器カタログ」です。カーリーさんや陰山さんの目を見張る活躍は、今でも記憶に残っています。そして、甲州先生の計らいのおかげで『火星軌道一九』(ハヤカワ文庫JA)の解説にまで紹介をいただき、カタログの端っこを担っていた拙作の異常兵器まで紹介の誉れにあずかったことは忘れ得ぬ思い出です。
 例会にはずっと不義理を重ねてきた私ですが、人外協メンバーも多く運営にたずさわったコンタクト・ジャパン2への参加(私は一参加者でしたが、あれほど合理的かつ効率的に運営されたコンベンションは他に知りません。人外協組織力の威力を目の当たりに見る思いでした)や、宿・ブース確保で個人的にお世話になった一九九七年の日本SF大会「あきこん」で人外協メンバーの皆さんに接し、会報のあの方が今ここに! と、いささかの緊張を覚えたのは、まあ因果応報、といったところでしょうか。
 この十年、人外協にも谷甲州作品にも、そして日本SFにもさまざまな変化がありました。人外協において初期から大きな役割を果たしてきたネットワーク通信も、初期のNiftyホームパーティからパティオ、メーリングリスト、ついにはホームページ開設と、飛躍的な進歩を遂げました。しかし、不良隊員として脇から見て(ちょっとだけ参加もして)いて、人外協ファン活動のバイタリティの高さは、草創期からいささかの変化もないように感じます。これからも、青年人外協力隊がヴァルキリーのように怜悧で、ハスミ大佐のように大胆不敵で、そしてエリコのように破天荒な活力に満ちた活動を繰り広げることを願ってキーを置きます。

 

改元と天安門の頃

当麻[二代目兼ガメラ]充弘

 今、テレビで言っていたのですが、来年で天安門事件から10年だそうですね。そういえば人外協の最初の頃に天安門事件ネタの替え歌(陰山さん作)も良く歌ってましたね。
 人外協の最初の頃・・・みんな若かったですね。当時は「田園」という喫茶店で例会をやっていました。一次会から非常に盛り上がっていて、陰山さん、阪本さん、天羽さんの三人がネタを繰り広げていました。あまりの盛り上がりに店員さんの態度が冷たかったため、後に例会場所を「ABC」という喫茶店に変更しました。二次会ではさらに盛り上がっていました。横で合コンをやっていた集団の女の子が、こちらの方が面白いからと完全にこちらを向いてしまって男性陣ににらまれたこともありました。(でも、こちらの方が腕力が強そうに見えたのか、絡まれたりはしませんでした。)
 ただ、隊員数が少なかったため、人数の揃わない時は本当に揃わなくて、最少では3人ということがありました。当時の例会の話題でも如何にして隊員数を増やすかというのが多かったですね。その状況を根本的に変えてしまったのが土屋(旧姓細野)由加里隊員の入隊でした。彼女の偉大なところは、「宴会で酔っ払っているどさくさに入隊申し込みをさせる」という手法を確立させたことでしょう。当時の年会費が1000円ということもあり、爆発的に人数がのび、「細野以前」「細野以後」という言葉までできました。
 現在では画報の発送は大阪例会で「発送の歌」を歌いながらやっていますが、当時は阪本隊長(当時)が自力でコピーと発送を行っていました。人数が少ないあいだはこれで十分やっていけたようなのですが、人数が100人を越える頃に「さすがに一人ではしんどいから例会でやりたい」という話になったのだと思います。阪本氏の代わりに発送をやったことがあるのですが、一人で両面コピーを100部刷って、詰め込んで発送をするというのは仕事量としてはかなり大変でした。
 画報といえば、当時はイラストを描ける人の絶対数が少なく、ほとんど全てのイラストを陰山さんが描かれていたように思います。で、陰山さんが都合が悪い時などに、締め切りの3日ほど前に岩瀬さんから私の下宿に電話がかかってきて、「当麻君、これこれこういう話があるんで、イラストすぐに描いて」と言われることがよくありました。現在、人外協のホームページで過去の画報が見られますが、私の下手なイラストがやたらと多いのはそういう理由です。今見ると赤面するようなものがたくさんあるんですが、今から書き直すことは出来ませんかねぇ・・・でも、異常兵器カタログなどのネタがとても思い付かない私の描いた「貧弱な相互作用とたくましい相互作用」が、「巡洋艦サラマンダー」のあとがきの異常兵器リストに加えていただいたのは、ちょっとラッキーだったかなと思います。
 アウトドア人外協というのもやりました。第一回は発案者の原田氏の住む、奈良県橿原市(私や阪本氏、森村氏の実家もあり、「人口比率で世界一人外協率の高い市と言われていた)で行われたのですが、空き地でひたすら「だるまさんがころんだ」や缶蹴りをやり続けるというものでした。主催者の原田氏は、本気でこれだけで終ろうとしたのですが、このためだけにわざわざ岐阜からやってきた人達のために、あとで飛鳥観光をしました。その後も奈良公園の探索(中野氏が隊費を立て替えて、一頭の鹿を隊員にした)なども行いました。
 その後、私は1990年に就職し、1992年からつくば出向になって東京例会に参加するようになり、昨年(1997年)再び大阪に戻ってきたのですが、この5年で例会はだいぶ変わりましたね。メンバーはそれほど替わっていないようですが、既婚者が増え、例会では子供が走りまわるようになりました。二次会でも周りの大学生たちの大騒ぎを横目にしみじみと(とは言い過ぎか)飲むようになりました。こうやって発足当時を思い出すと月日の流れを感じます。
 隊員の子供が大きくなってきたら、子供連れのアウトドア人外協でもやりますか。

 

思いでや活動記録について

安達[MARIO・戦う殺人アライグマ20点」]裕章

 人外協が設立10周年を迎えるということです。私が今年30歳になりましたから、人生のほぼ1/3を人外協隊員として過ごしていることになります。考えてみれば、凄いことです。
 人外協というサークルをはじめて知ったのは、当時通っていた学校の図書館で見た「SFマガジン」誌上においてでした。久しく目にしていなかった、骨太のハードSF作家、谷甲州のファンクラブということで、すぐに入会案内を取り寄せたことを覚えています。 入会当時、まだ例会は大阪でしかおこなわれていなかったのですが、足立泉(当時は、まだ佐藤さんでしたが)隊員、沖田隊員の呼びかけで東京でも例会を開くことになりました。
 当時は私も学生でして、一番のヒマ人ということで連絡役を仰せつかったのですが、東北支部も信濃支部もなかった時代ですので、案内状を松本や群馬まで出したことを覚えています。
 このころは、甲州先生も東京・足立区にお住まいになっておりまして、お仕事の都合さえ合えば例会に参加してくださいました。
 東京郊外の河原でバーベキューをやったときには、ご家族連れで参加していただき、とても楽しいひとときを過ごすことが出来ました。沖田さんが道に迷って結局合流できなかったり、帰る直前になって土砂降りの雨に降られたりしましたが、今となっては良い想いでになっています。
 そういえば、みんなで香港に遊びに行ったこともありました。なんとも運の悪いことに、旅行の2日目に父親が脳溢血で倒れたという知らせを受けた私は、急きょ帰国せねばなりませんでしたが、初代隊長は現地でコンピュータを買い込んだりしていましたね。
 今日、この原稿を書くに当たって、そのころの日記などを改めて読み直してみたりしたのですが、どれもこれも、とても楽しい思い出として鮮やかによみがえってきました。
 このような素晴らしい仲間が集うことが出来たのも、甲州先生のキャラクターに負うところが大きいと思います。さらには、阪本さん、当麻さん、落合さん、と受け継がれてきた隊長の個性によって、その時代にあった人外協が育まれているのだと思います。
 10周年は一つの区切りであることは確かですが、今後の活動をよりいっそう活発に、さらに楽しいファンサークルとして長く続けていくことが出来れば嬉しいことです。
 現在、東京支部の例会は参加する人も固定化してしまい、その数も決して多くはありません。一時の賑やかさを知る者としては寂しいかぎりではありますが、それぞれの時代にふさわしい例会活動を考えることによって、例会に隊員を呼び戻していきたいと思っています。 願わくは、20周年記念誌も出せますように。

 

思いでや活動記録について

林[艦政本部開発部長]譲治

 青年人外協力隊は1988年4月、昭和最後の年に結成されました。初代隊長の阪本氏によれば私が入隊したのは同年6月だそうで、社会人になってからの大半を人外協の人間として過ごして来たことになります。人外協は大阪で産声を上げた――大阪ですよね?――わけですが、当時私は札幌に住んでおりました。それがどうして設立の二月後に入隊できたかというと、これには多くの偶然があったのであります。
 1998年の今日では、作家谷甲州の名前はすでに多くの人が知っている。どれくらい知られているかといえば、本を読まない私の妹でさえ谷甲州の名前は知っていたことからもその知名度がわかる。じっさいいまなら町の小さな本屋でも谷甲州の著作の二冊や三冊はすぐに目にすることができるだろう。
 だが1988年当時はいささか状況が違った。いまの日本において、いやしくもSFを読んでるような人間の中で谷甲州を知らない人間は捜すのが難しいくらいであるが、10年前はそうではなかった。少なくとも札幌ではそうだった。
 いまから思えば魔がさしたとしか思えないのだが、じつはその頃の私はあるSFのローカルコンのスタッフをしていた。名目だけは事務局長であるが、ローカルコンの多くがそうであるように、事務局は一人しかいなかった。まぁ、ようするに雑用ね。
 私自身は甲州という名前で奇想天外に「137機動旅団」で新人賞を受賞した頃から知っていたが、これはむしろ例外的だったらしい。スタッフにファンタジー系の人が多かったこともあり、「ゲストに谷甲州を呼びましょう」と言っても他のスタッフからはあまり積極的な反応は返ってこなかった。もっとも事務局権限でゲスト依頼の手紙は出していたのだが。
 ある日曜日、スタッフの家で打ち合わせをしていると、その家にたまたまSFマガジンの新しい号が置いてあった。何気なく眺めていると、「谷甲州ファンクラブ・隊員募集」の案内が出ているではないか。この時の感動はどう説明すればわかってもらえるだろうか?これはTVシリーズのインベーダーの中で、デビッド・ビンセント(ロイ・シネス:声は露口茂)が初めて自分と同じようにインベーダーの地球侵略を目撃した人達と出会った時の心境に匹敵するものがあった。
 自分以外にも谷甲州ファンがいたというのは、嬉しくもあり同時に驚きでもありました。しかし、SFマガジンの案内が阪本氏の住所だけだったなら、たぶんファンクラブがあるという驚きだけで終わっていたかもしれない。
 運命のいたずらか、この少し前、私はパソコン通信というものを(FM7という8ビットマシン。スペックを書いても今時の若い衆は信じてくれまい)はじめており、NIFTY-Serveにも加入していた。そしてSFマガジンの案内には住所の他に阪本氏のIDが記載されていたのであった。いま考えるとあの時期にIDなど持っている人間は非常に珍しい存在で、その珍しい物を持っている二人の人間が接触するなどというのは、(珍しさ)×(珍しさ)くらい希な偶然なのであった。私はその日のうちにメールを阪本氏に送り、入隊手続きを済ませることができた。後に聞いたところでは、当時メールで入隊を申し込んだのは私だけだったという。
 しばらくして「甲州画報」が送られて来た。送られて来たのは創刊号で人外協そのものができたばかりのファンクラブであることが察せられた。が、しかし、ともかく津軽海峡を超えた遠くの土地では、何か楽しいことをしているらしいことはそれから毎月送られて来た紙面を見ていてわかった。「遠くへ行きたい」と思った――じっさい後に行っちゃうんだけどね。
 いまでもそうだが当時の画報の後ろにも原稿募集とあった。いまだから正直に言うのだが、あの時は谷甲州のファンクラブのようなマイナーな存在が長続きするとは信じられなかった。じっさいそうした視点で見ると、画報の寄稿者は阪本氏とか陰山氏、岩瀬氏などと限られているのもとても危険な兆候に見えて来る。
 そこで短い文章を書いてメールで寄稿した。原稿はパソコンのエディターで書いていた――このころすでにMAC+を購入していたはず――ので阪本氏にメールで寄稿できるのは「とても楽」だった。もしもメール入稿が出来ない環境であったなら、寄稿しなかった可能性は高い。出版社の中にはいまだにメール入稿ができない会社もあることを考えると、甲州画報というのはけっこう先進的な紙面作りをしていたと言えるかもしれない。
 そんなこんなで1988年10月20日発行の甲州画報第6号の話になる。この号で「闇討ち一号」の原稿が掲載される。いま読み返すと書き直したい部分も多々あるのだが、ともかくこれが異常兵器カタログの第一号となった。
 じつはこの時の甲州画報を見て私は驚いていた。
「あっ、俺が思っていた闇討ち一号より格好良い…… 」
 異常兵器カタログは幸い谷甲州先生にも好評だったが――これもいまだから言うけど、「ファンの親睦を深めるための会報に戦争賛美とも受け取れる兵器の原稿とは何事です」と抗議が来ることも心配していたのであった。同じ頃BBSでそういう手合いのメールが来てたので――これは半分以上は陰山氏のイラストに負うところが大なのであった。自慢ではないが、原稿を書いている人間のイメージよりもイラストの方が格好良いのだから。とくにヒドラのデザインなどは美しくさえある。
 しかしながら、この闇討ち一号の原稿を書いていた時には、異常兵器カタログを書くなどとはまったく考えてはいなかった。一つには谷甲州という作家が構築した独自の世界をファンであるからといって勝手に使う事へのためらいがあった――というような殊勝なことをこの私が言って、果たしてどれだけの人が信じてくれるかおおいに疑問ではありますが、本当なのよ。
 ただこれが画報の連載のようになったのもの多分に偶然が左右している。じつはその次の月に送った原稿もたまたま類似の物であったため、三回目も書くことになり後は延々と続く結果となっていたのでありました。私としては、あれくらいの物を書く人間はきっと沢山いると思ったのだが、どうもそうでは無かったようで、私以外に書いた人は極少なかった。これはいまだに不思議である。
 80年代末から90年代初頭にかけて、航空宇宙軍史の新刊数に比例するように人外協の隊員も増えて行った。その結果、各地に支部が出来るようになる。人外協における支部長は女性という鉄の戒律はこの時期に生まれた物であるが
――ただ人口の移動というのは面白く、98年現在、三人の支部長が首都圏に住んでいる――例外が一ヶ所あって、それが北海道だった。なんと北海道には人外協の人間は私しかいない時代がけっこう続いたのである。
 私も画報で読むところの例会に参加したとは思ったが、一番近い東京例会に行くためには海峡を渡り、1000キロも移動しなければならない。そこで支部を作る事にした。ローカルコンのスタッフの女性の一人を支部長にして、北部方面支部というのを89年かその辺に設立する。ようするにですねSFの話ができる宴会をしたかったという、それだけの目的です。北部方面支部という大層な名前にしたのは若干の理由がある。北海道にも熱心なSFファンはいるのだが、広い大地にまばらに散っているためで、面倒だから大体の方角を示すに留めたのである。
 この支部そのものはすでに無いのだが、友人によるとこの時代の人脈の交流はいまだに続いているそうなので、それなりの意味はあったのだろう。
 とまぁ、当時の話をするとだいたいこんな物でしょうか。人生にとって人外協とは何か?という命題はそもそも適切な命題であるかどうかの判断も難しいだろう。ただ一つあきらかなこと。私は現在、文章を書いて生活しているが、もしも10年前のあの時に、阪本氏にメールを出していなければ、今日の私は無かったに違いない。

 

青年人外協力隊の人的確保術(ネットワーク編)

猪塚[秘書室長]慶彦

「酔ってたかって人外協は増える」

 これは『こうしゅうかるた』(こうしゅうえいせいに収録)にあるフダの一つであるが、青年人外協力隊(人外協)がどのように隊員数を倍増させていったかを如実に語っている。
 人外協の活動は、その設立当初からさまざまな媒体を利用しながら大きくなっていった。
 一番大きな媒体としては、SFコンベンションの酒場、である。
 その勧誘方法は「エリア88」方式と言えば察しのよい方はこれ以上言わなくてもわかっていただけると思う。(一面では真実)
 そしてもう一つの媒体としてネットワークによる勧誘というものがあった。
 人外協は設立当初よりネットワークによる意志疎通をはかっていたという先進的な組織でもあった。これは上記の全国各地のSFコンベンションで隊員の倍増を行っていったため、リアルタイムに連絡する手段を模索した結果と言ってもよいだろう。甲州画報の掲載までのタイムラグが、最大二ヶ月であることを考えてもらえば分かると思う。
 その連絡手段としては八十九年十一月よりNifty-serveのホームパーティ(HP)を設置、隊員勧誘の場としてFSF(SFフォーラム)のRT(リアルタイム会議室−チャットとも言う−)が(知らぬ間ではあったが)あった。(現在Nifty上にはHPは存在せず、PATIOにて対応している)RTとは自分と人が打った文章がリアルタイムに画面に現れ、その文章を通して会話を行うものである。通信代のかかる井戸端会議のような・・・・分からないかもしれないな。
 私がNifty-serveに入会したのが’九十年五月である。
 その頃のFSFのRTは毎週日曜日の二十一時からの定例RTしか行われていなかった。私は、人外協のみんながRTをやっているという噂を聞きつけ意を決してRTに入ったのであるが、ちょうど飽きた頃に入ったらしく、知り合いはほとんどいなかった。(二ヶ月くらい恐くてRTに行けなかったため、誰もいなくなってしまったかも知れない)
 数少ない知り合いに当時のSYSOPである神北氏がいたため、寂しさを感じることもなく、のんびりとRTを行っていた。そしてのんびりとRTにはまり出した頃に忘れてはならない人物が出て来たのである。
 それが「猫目」と「むらさき」である。(実際には「猫目」氏の方が私より先にRTに来ていたと思う)
 Nifty-serveではハンドル(ペンネームのようなもの)を使ってもよいことになっているため上記では性別が不明であるが、妙齢の女性である。
 彼女達も思いっきりRTにはまっていった。
 そして・・・・彼女達は人外協への勧誘もRTと同じようにはまっていった。
 女性であるということは勧誘にはとても有利なのかも知れない。男性にとっては言うまでもない、女性にとっても、である。そして私はその勧誘振りを尻目にぼぉ〜〜っと世間話を続けていた・・・・ハズである。
 そしてあまりの勧誘の激化ぶりにSYSOPから「人外協と三回言ったら落ちなければいけない」と宣言されたほどである。(表立った勧誘はダメということ)その後、「***」と伏せ字を使いながら地下に潜り勧誘を続け、ついには隊員数が’九十三年には千人に・・・・どう見ても嘘だな。
 まぁ、そういうわけで勧誘が沈静化した頃には毎日FSFのRTに行くと人外協の誰かが必ずRTをしている、と言った状況が出来上がっていた。
 RTに10人以上いて、その時の人外協率八十%というのはザラであった。当時のメンバーでNiftyへの課金(NTT代は除いて)で月何万もかかっていた人がいたほど、盛り上がっていたと言ってもいいだろう。交わす内容は世間話である。
 ただ、前述のHPより、よりリアルタイムであったため、急いで決めなければならないことがあった場合などは、必要な人を探し易くて、とても有効に使っていた。(ただ、急に決めなければならない事のほとんどが「遊び」に関することであったが)

 さて、時は移って現在であるが、「猫目」「むらさき」の両氏とも結婚され、RTをやるような状況ではなくなり(「猫目」氏はアメリカで暮らしている)、さらにインターネットなるものが台頭し人外協もWebを持つようになったせいなのか、昔のように人外協率を誇るような事もなくなっているが、まだRTはやっている。毎日、何時間もいるようなツワモノはいなくなったが、タイミングさえ見誤らなければ結構私達を見つけられると思う。ヒマで仕方ない時、眠れない夜などは久しぶりにRTでもどうだろうか?

 

第一回アウトドア人外協

木村[でいぶ]晴美

イラスト版レポート

 

思いでや活動記録について

内田[従軍バイト]けい子

 今にして思えば、よく体力がもったものだなぁ。深夜1時すぎ、夜な夜な集まって来るいつものメンバー。

 あの年はSF大会が不発で、なんとはなく何人か集まってRTでうっぷんを晴らしていたっけ。
 「RTならSFな話が毎晩できる、気分は毎晩SF大会だぞーー!!」そのうち、何かやろうという話も出てきて「RT大会」なるRTマラソンのイベントをやってみた。イベントの翌日、全部終わった終わったと思いつつも、試しにいつもの時間いつもの場所にいってみると、そこにはいつものメンバーがいたのである。
そんなRT三昧のある日、谷甲州のファンと名乗る人物がRTに現れた。今までファンダム活動も経験がないという。さっそくみんなで寄ってたかって人外協を紹介し…。例会にやってきた人物は「いまいち、影がうすい…」と表現されるほど大人しいキャラクタであったらしい。が、人はわからないものである。その後は皆さんご存知の通り。

「辞めちゃえぇー!辞めちゃえぇ〜!!」
の掛け声とともに伝染病のように「こんな会社辞めてやる」症候群が蔓延していったときもありましたねぇ。かくゆう私もそれに感染したくちですが。(あ、ちゃんとシーズンにはインフルエンザもうつりましたよ、RTで!ハイ)

 以来、今に至るまで人は入れ替わりつつもFSF深夜のRTは続いているのだが、始めた一人(くれぐれも仕掛けたのではない!!)としてはここまで続くとは夢にも思わなかった。
 思えば、CRTの向こう側でずいぶんと多くの人の人生が変わっていったよなぁ(こっち側のあんたはどーなんだ!!)。願わくは、おおむね良い方へであったと思いたいが……。

 

鴨の恩返し

沖田[かもねぎ]かつ子(東に渡った鴨)

 この物語はふぃくしょんです。
 実在する団体、個人等とはまったく関係がありませんので、ご了承ください。

 昔むかし、西のはずれの大きな村に一羽の鴨が住んでいました。鴨には仲のよい猫の友達がいました。猫はおとなしい鴨を誘っては、北や東の大きな町へ遊びに行きました。
 ある時、鴨はたった一羽で海を渡り、山の祭りに参加しました。いろんなところから、たくさんの動物が参加する秋のお祭りです。 猫も一緒に行く予定だったのですが、急に都合がわるくなったのです。
 山の広場に動物たちが集まり、奇声を上げて、、、気勢を上げて祭りは始まりました。小さなグループに別れ、お話したり、毛並みを自慢しあったり。夜も夜行性の動物たちで賑わい、朝になると、なぜかトドやマグロが道端に転がっていました。
 鴨はあっちへパタパタ、こっちへパタパタと飛びまわり、祭りを眺めていました。疲れて休もうと、あまり高くない木の枝へ止まっていると、声をかけてくるものがいます。振り替えると、そこには毛並みはまあまあだけれど、癖の有りそうなきつねと、人(?)のよさそうなたぬき、愛敬のある小柄なパンダがいました。
 「ぼく達はお祭りが好きで、みんなでいろんなお祭りに参加してるんだ。お祭りが好きなら仲間にならないかい?」きつねが言いました。きつねは肉食なので、ちょっと迷いましたが、笹しか食べないパンダが一緒なので、鴨は仲間になることにしました。村に帰って、鴨は猫にも仲間になるようすすめました。
 鴨と猫はきつねやたぬきの住む町へも遊びに行くようになりました。きつねも、カエルやコアラをつれて、西の村の近くの温泉へ遊びに来ました。
 やがて、鴨は仲間たちからきつねについての悪いうわさを耳にするようになりました。鴨がきつねたちに初めてあった時、きつねは一緒にいたパンダで金もうけを企んでいたというのです。けれどパンダには大きなジャイアントパンダの保護下にあったため、きつねは計画を断念したのでした。そして、今のきつねの狙いが鴨の友達の猫であることを聞き、鴨は慌てて猫に忠告しました。
 手後れでした。猫はまわりの動物たちの声に耳を貸そうとはしません。それどころか、きつねの住む街へ移り住んでしまったのです。
 動物たちは、猫がきつねの罠に完全に落ちてしまったと思い、悲しみました。
 それからしばらくして、動物たちは妙なことに気がつきました。きつねが日に日に丸くなってゆくのです。体はもとより心まで丸くなっているようなのです。
そして、動物たちは罠にかかったのが、猫でなくきつねであることを知ったのでした。

 

思いでや活動記録について

落合[いまいちキャラクターが薄かったMSG兼隊長]哲也

 さて。人外協10周年という事でありますが、まずは10年間の会報・年会誌の途切れる事なき発行と例会・宴会の継続に対し、関係各位に感謝と賞賛を送りたいと思います。ようホンマに、ねぇ。まぁ、なんというか。
 ××周年記念というと、当初の頃を思い出して昔話をし、次なるステップへ決意も新たに云々という風な事をやるのが普通ですが、現職隊長である私は青年人外協力隊設立から2年4ヶ月後に入隊した新参の輩であったわけで、私が例会会場に顔を出したときには、既に入隊の儀式も宣誓も無く、秘密の握手等の特徴的風習もなくなっており、さほど特異な組織ではありませんでした。ただ、漲る力と芸の技が目をみはるばかりであった事を思い出します。
 設立当初にどのようなドラマが、どのような深慮遠謀渦巻く大活劇が展開されていたのかは諸先輩方の思い出話に譲るとして、ここでは一人の青年が人外協という“シャフト”のような存在に触れてから現在に至るまでを、ほんの少し綴ってみましょう。
 てな書き方していたら肩が凝るので後は適当にいくざんす。
 まぁ最初はびっくりしましたね。何がって、俗にSFさんと言われる人たち(俗に言わんか・・・)と一度も接触した事が無い人間が、よりにもよって人外協の宴会に参加しちゃったんだから、まぁ、ハマるか裸足で逃げ出すかのどっちかですわな。もちろん、ハマったからこそ、ここでこんな事を書いてるわけなんですが。それまでは、SFの人たちのイメージってのは、あじましでおの不条理日記に出てくるような風体の野郎どもで、しかもNIFTYで知り合ったとなれば、そこに青白いヲタクなネットワーカーの雰囲気がラップして、相当な状態を覚悟しておりました。でも宴会初参加したら、日記に「今日は負け」と書きたくなるようなナニが展開されてしまったじゃぁありませんか。今も私の役職名に残る「キャラクターの薄い」という形容詞。ま、当時の「いまいちキャラクターの薄い」という評価が、自分のバネとなり、明日への活力また励みになったんだなぁ。なんて思うわけはないけど、「あ。こら負けたらあかん」と、当然の事ながら思いましたね。あ、そこで「なに変な事を思って」と感じてる人。間違えてます。人間、なんにしろ「負けたら負け」です。勝つ必要が無い事であっても、勝利という結果が出ないものであっても、負けちゃだめなんですな。このへん判らなければ負けになります。はい。判らなかった人はもう負け。次はがんばりましょう。
 あ、それとですね。女性が多かったってのもかなり驚かされた事の一つです。女性が多い。女性含有率30%以上。ぐらいだったかな?(今だと「主婦が多くてびっくり」って感じですか。わはは)しかもその女性陣も人外協宴会で人外協騒ぎしてるわけですよ。でもって人外協座りしながら人外協食いして人外協飲み。SFさんに対する認識がガラっと変わりました。ええ、それはもう見事に。(その後SF大会なんかに顔を出すようになって、人外協が変なんだという事に気づきましたが)
 で、当然の事ながら、そんな騒ぎの中で人外協は隊の本質的な活動もちゃんと行ってます。つまり、谷甲州の熱心な読者を一人増やしたという。あ、すんません。そうです。人外協に入ってから谷甲州を読みました。でもワシ的魂にがっちり食い込む「本格SF」に出会えた事は、実際のところ人外協に入隊しての最も大きな成果でした。うん。SFが好きで本が好きだったけど、まだまだ食わず嫌いというか、情報収集能力が低かったんですな。そんな時に出会った人外協は、まさに情報流。闇の宇宙の深淵を超えて伸びる、シャフトのような存在だったわけです。おお。なんか冒頭に書いた文と繋がったぞ。人外協の宴会でびっくりして谷甲州読んでにっこりして、それでこの雑文は終わりか。いやいや。もうちょっと。
 こんな出合いをしたら、抜け出せなくなるぐらいのめり込んでしまうのは必定ですわな。身軽だった当時は毎月第4月曜は会社休んだりするのは当たり前でした。第3日曜が例会だったから。宴会終わったあと、帰る方向が家と逆だったりよくしたなぁ。(初代隊長んちに行ったりとか)
 ああ。いかん。昔話は思い出話。思い出にひたるのは、それは負け。そう。この雑文を書き散らしながら、当時のパワーを、エナジーを、体にもう一度蘇らせて・・・(いや、その。別に年老いたりしてはいないんだけどね。ちょっと太ったりしたけど)もういっちょうやったろうかあ!と、こうならんといかんわな。
 もういっちょどころか、体力続くかぎりやりましょう。来年1999年は谷甲州作家デビュー20周年だし、気合い入れてお祝いして、もっと甲州先生にSF書いてもらうようにラブコールを送って。

 頑張れ!肝臓!

 

甲州先生のご家族より

谷本麻梨香(14歳)

 青年人外協力隊が結成されて、10年たったと手紙で読みました。おめでとうございます。
 わたしはいつも、10月になると、毎年恒例のキャンプが楽しみです。なぜかというと、やっぱり、みなさんに会えるということや、何よりも遊んでもらえたことです。なんかいろんな遊びも教えてもらえたし、去年の10月にはテスト勉強の問題を教えてもらいました。とてもうれしかったです。ありがとうございました。
 小さい時、子供はわたしと舞ちゃんの2人だけだったけど今は歩ちゃんとかもいて前よりも、ますますにぎやかになってきて、また、これから楽しみがふくらんでいくように思います。今度からはわたしが歩ちゃん達の遊び相手になれたらいいなぁと思います。
 これからもまた、よろしくお願いいたします。

谷本舞(12歳)

 私が、人外協の人達にあったのは、幼稚園のころ。まだ、ほんの小さなころ。まだこの人達がどういう人かもわからない小さなころ。
 ただわかっていることは、いい人で、たのしく、おもしろい人達がいるということだけだった。
 でも、大きくなるにつれて、だんだん分かってきた。「てっちゃん」や「さーちゃん」ほかに「のぞみちゃん」や「こうすけさん」などいるが、顔はわかっても、名前がわからない人がいる。名前が分からない人すいません。でも、顔を思いうかべたら、たくさんの人が思いうかぶ。
 私は、お父さんの本をちょっとしか読んだことがない。人外協の人は、全部かかさず読んでいると思う。そして、学校の先生までも、全国で出されている本でも読んだことがあまりない。今は、もう12才。今度は13才になる。12才になったから、スキューバダイビングの免許もとれた。だから、お父さんの本も、少しは、読んでいかなきゃいけない。わかっているけど、読んでいない。
 もう、12才で中学生なのだから、ちょっとずつ読んでいこうと思う。それから、お父さんの本をずっとこれからも読んでください。私もちょっとずつ読みます。

谷本幸

 人外協結成10周年おめでとうございます。主人が今日あるのも人外協の皆さまのお陰です。ここまでささえてくださった皆さまに心よりお礼申し上げます。
 愛想がなく、お世辞も言わない、口数が少ない主人ですので、皆さんと県民の森でキャンプをした当初は、次から声がかからないのではという不安もありましたが、回を重ねるうちに人外協の皆さんが親戚・家族のような存在になってきました。子供達も一年に一回皆さんにお会いできるのを楽しみにしております。今年は2回も会えると喜んでいます。
 私は、主人の本を初めて手にしたのは、私たちの結婚式の引出物として、「惑星CB-8越冬隊」と「エリヌス-戒厳令-」のこの2冊だったと思います。この本を読もうと努力したのですが、気がついたら15年という月日が過ぎてしまいました。SFは読めなくてもせめて他の作品を読まないと主人に申し訳ない気持ちになり、最近は、谷甲州の本を毎日読んでいます。なかでも「天を越える旅人」は、主人公のミグマと未来・過去・現在へと共に旅をしたラマ僧にでもなったような気分を味わいました。長い年月がかかりましたが、主人の本にやっと興味を持つようになりました。これからも主人のことをどうぞよろしくお願いいたします。
 この10年間、こうしゅうえいせい、甲州画報に携ってくださった皆様、本当にお疲れさまでした。まだ々続きますが、お体に気をつけ、お仕事、家庭に支障のない程度にこの会を盛り上げていって下さい。




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