にっぽん全国人外協支部史

名古屋支部年表

五藤[広報部補佐心得]三樹

西暦       事  項     新入隊員(役職名略)
1988.10筏  ダイナ★コン(種の起源)   細野由香里
  猪塚慶彦
  山川勉
1988.11
猪塚、木村を生駒に誘う。
  木村晴美
1989.2 春期甲州祭(生駒)  
1989.4.23 名古屋茶会事件
(栄光の人外協名古屋支部発足)
1989.5.6 野田クルゼ(京都大学)
木村他、野田大元帥におごってもらう。
  五藤三樹
1989.5     杉山安子
  土屋眞
1989.7 大阪例会
 木村、山川、近鉄を止めて問題になる。
 猪塚、細野待ち合わせに遅れるも先に着く。
 
1989.8 ダイナ★コンEX  
1989.9     先山佐知子
  森本宏
1989.9.23 デザイン博(名古屋城会場)   内田英夫
  礒部秀彦
  小森康正
  鬼頭剛彦
1989.10 ダイナ★コン
デザイン博(白鳥会場)
  後藤厚志
  坂本宏之
1990.1 陰山、名古屋支部に転入(転勤)する。  
1990.8 TOKON9 SUM-PACK   安藤
  落合
  稲垣
  謎の人物(Mr.X)
1990.10 ダイナ★コン   高木
  喜多
1990.11 土屋、細野結婚式  
            (第1世代の終焉)
1991.1     茅原
1991.4     竹林

 

東京支部史

伝承者: 佐藤[開拓班]泉
安達[MARIKO・戦う殺人アライグマ20点]

 西暦19**年、外惑星東京に居住する[彼]は本星地球大阪、航空宇宙軍本部に手紙を出した。
 「外惑星(東京)にも隊員が増えてきたのではないでしょうか?お茶会でも開けたらと思いまして・・」
 [彼]の生来のDNAに刻まれた[ENKAI]はこうして発動した。
 発動した[ENKAI]は、まずプランニングから始まる。
 丁寧に書かれた[手紙]が、外惑星東京近郊に潜む隊員たちを召喚する。
 [支部]の結成の必要アイテムに[女性支部長]があった。
 [彼]は考える。
 「生けにえの羊は……誰か?」
 丁度その頃、本星地球大阪本部の例会にアクセスしたものが居た。
 「ちょうどいいかもしれないな・・・・」
 キラリと[彼]の目が光ったかどうかは記述されていない。
 かくして、第一代目の支部長は練馬区に生息する[開拓班]と決まった。
 しかし、何をするでもない、何かがなされるでもない。
 時間は流れ、[開拓班]は己が仕事の忙殺に第一代支部長を引くことになる。
 [彼]は考えた.....。
 通称「さっちゃん」なる女性が第二代目支部長となる。
 この頃既に[彼]の名は某喫茶店シャノワールにおいて変な集団の代表名と化していた。
 そしてこの頃[アメーバ]なる女性が[東京支部紙]を作成。
 また、作家谷甲州氏を共に宴を張り、かつまた、西洋の夢の国デェズニーランドや、奥多摩キャンプなどといった、作戦行動にも出た時期でもあった。
 アクティブな人材はコード[ENKAI]を活性化させ外惑星東京を活性化させた。


 東京支部について、何か書いてくれと言われた。
 冒頭には佐藤<開拓班>隊員が書いた支部史を載せてみたが、これではなんか訳の分からないイベント集団と誤解されてしまう恐れがあると判断し、極めて極私的で申し訳ないのだが、東京支部の歴史について書かせて頂いた。
 東京支部の隊員の方には不満な点も数多くあろうが、何卒御容赦頂きたい。


 一期一会との言葉があると言う。
 多忙極まる現代社会で、ともすれば忘れそうになる人と人との交流はある時は楽しみを、またある時は悲しみを私たちにもたらしていく。
 しかし、ある特殊な状況においては、笑いしかもたらさないこともある。
 そう、まさに「巡り会いは宇宙の冗談」・・・・・

CONTINUE

1.あ、あなたは!

 当時、人外協は大阪でのみ活動していた。
 会誌の作成、例会の開催、その楽しげな活動を、遥か東の彼方より指をくわえて見ていた 私が、隊長にお願いして関東地方在住隊員の名簿を送って頂いたときに既にラプラスの鬼は微笑んでいたのだと思う。(今にして思えば・・・(;_;))
 最初からいきなり宴会とは銘打てず、お茶会なる大人しげなフレーズでお誘いのDMを書いたのだが、光栄なることに谷甲州その人の御出席を得ることができた。
 同席した隊員は、その好運に身を震わせていた(かどうかは明らかではない)
 しかし、しかしである。この日は、その後の東京支部の活動に大きな影響を与える出来事が、もう一つあったのだ。
 宴会大魔王こと、OKIさんと私の再会である。(OKIさんと私との因縁については、語るも涙、聞くも笑いの物語があるのだがこれは別の機会に譲ろう)
 とにかく、OKIさんの主導のもと、ホフブロイハウスへなだれ込んだ我々は、初対面などとはとても思えないほど打ち解け、定期的な例会の開催を誓ったのであった。

2.しぶちょうやぁい!

 定期的な例会の開催を決めた我々は支部の独立を決定した。
 すでに名古屋支部は木村<でいぶ>隊員を支部長として独立を果たしており、東京としても自治権の確立を目指していた。
 そこで必要とされたのが支部を率いる支部長の存在である。
 当時の東京支部に在籍していた女性隊員(支部長は女性に限るという不文律はこの直前に東京へ伝えられていた)は和泉<あめーば>隊員と佐藤<開拓班>隊員の2人であった。
 なにがどうなったのかは記憶にないが(^_^;)、佐藤隊員を支部長に、和泉隊員を副支部長に据えるということになり、本人の了解も得ることが出来た。
 ここに至ってようやく東京支部は名実ともに独立を果たすことができたのだった。
 ところが・・
 支部独立を記念すべき最初の例会に、佐藤支部長が欠席。
 加えて参加者はたったの4名というなんとも東京支部らしい幕明けとなった。(^_^;)
 このときのツケを佐藤支部長は「第一次支部長押え込み事件」として後世の歴史家に記される事件で払うことになるのだが、これはまた別の物語である。

3.宴会は続くよ、何処までも。

 支部としての体裁は整ったが、実質何をしてよいのやらは見当もつかないうちに「谷甲州、野阿梓、神林長平作家生活10周年記念パーティー」が東京で開催されることになり、大阪をはじめ多数の隊員が上京することになった。
 この事態を重くみたOKIさんをはじめとする東京支部首脳陣は「対策本部」を設置し、本郷「朝明館」にて収容キャンプ・・もとい合宿を企画、実行した。
 この合宿により東京支部は大阪本部より認知されたと言っても過言ではないだろう。
 「まぁSFさんだから・・・」と言って暖かく馬鹿騒ぎを見守って下さった朝明館の女将さんに、心からの感謝を捧げたい。(^_^;)
 この直後、仕事上の多忙を理由に、佐藤<開拓班>隊員が支部長を辞任、後任を進藤<今朝のだヒダヒダ飛騨の酒>隊員が引き継ぐことになる。
 しかし、イベントに味を占めた面々は、そんなことにはお構い無く、野外バーベキューや東京ディズニーランドツアーなど、立て続けに企画を立案、実行する。
 この時期を東京支部の第1次黄金期と後世の歴史家は分類する。

4.新たなる夜明けを求めて(^_^;)

 こうして現在の東京支部の基礎は築かれた。
 現在の東京支部は定期的な支部報を発行するわけでもなく、月に1度の例会を重ねるだけが活動内容となっているが、そろそろ打開を目指して活動を開始する時ではなかろうかと私個人は思う。
 そのために必要な人材は既に揃ったと私は信じる。
 天の時、地の利、人の和を得、東京支部は更に活発な活動をしてゆくだろう。

5.おまけ「趣味の東京支部特集」

シャノワール
  • 東京支部の集合場所。
  • 「第3土曜日のアダチ」はこの店にとって決して良い響きではない。最近、制服が変わった。(結構可愛い)
ホフブロイハウス
  • 東京支部が良く利用する店。新宿花園神社の横にある。
  • ポテトパンケーキは絶品。
戦う酒のみ
  • OKIさんの自称役職名
心のサンドバック
  • OKIさんの役職名(命名 佐藤隊員)
触り魔
  • OKIさんの役職名(命名 甲州先生)
金づる
  • OKIさんの役職名(命名 東京支部一同)
支部長
  • 東京支部に限っては完全な象徴支部長のはずだが、なぜかやってくれる人がいない。
不定期刊甲州画報
  • 東京支部支部報。そろそろ出さねば。
谷先生首相官邸襲撃事件
  • 沖田が悪い。
第1次支部長押え込み事件
  • あ〜、なんちゅうか、忌まわしい記憶である(^_^;)。
春の嵐
  • いつまで続くことやら(^_^;)
きれいどころ
  • 東京支部は貴重な財産を失ったのかも知れない・・・
  • キャサリン、幸せにねぇ!
イベント屋
  • 東京支部においての最大限の蔑称(^_^;)
どん底
  • 2、3度例会に使用しただけでSF関係者の匂いを覚えてしまったマスターの居る店。
人外協東京宿舎
  • 中野隊員の私宅である。ここで夜明しをしたことのある隊員は数多い。
雪風邪
  • 東京支部の若頭、大喜戸隊員の誇る生物兵器。感染すると1 週間は寝込む羽目になる。
  • 電話回線を通じて伝染する恐ろしい病気。
イベント屋ギルド
  • OKI氏を中心とした組織らしいが、真相は謎。

 

北部方面支部正史

林[私が歴史だ]譲治

【その時代背景】

 歴史的に言うと1988年から89年初頭にかけてすでに名古屋支部独立がなされていたと言われている。人外協の歴史を調べる場合もっとも権威あるとされる甲州画報によればすでに89年5月21日発行の第13号において,大阪例会の他に東京例会と名古屋例会の告示がなされているのを見ることができる。
 この支部独立の運動は各地に波及する様相をていし,名古屋を北上したまま東京を経てついには札幌にまで達した。これが北部方面支部設立前後の状況である。
 ちなみになぜゆえ名古屋支部が独立したのか,その背景と原因については名古屋支部正史を参照していただきたい。

【支部設立前】

 1989年中期の段階において,すでに北海道在住の人外協隊員は昨年度の同時期と比較し数倍の増加をみていた。このような時代背景のうちに,中部日本を中心とした独立運動は札幌在住の隊員になんだかの影響を与えずにはおかなかった。
 一部では名古屋支部独立のほぼ同じ時期に早くも独立の動きが芽生えていた。だが,支部長は女性と言う条件を満たすことができないまま独立は夏近くまでそのめどすら立っていないのが当時の状況であった。
 ちなみになぜ支部長が女性でなければならないかについては諸説があるが,当時から世界的風潮になりつつあったフェミニズムの流行をその理由としてあげる研究者はけっして少なくない。

【支部設立】

 人外協史を知る上でもっとも権威あるテキストとされる甲州画報によれば89年7月8日に第一回の例会が開かれたとなっている。例会の雰囲気はなどはあえて触れるまでもないが,特筆すべきはこの時代すでに航空宇宙軍史に関する疑問(外惑星動乱は起こるのだろうか?)がなされたことであろう。
 以後,例会は不定期になされていたが,この疑問が論議されない例会はなかったことは歴史として記されてしかるべきであろう。

【花見流会事件】

 90年4月のGWに花見が行われるかと思われた。だが,おりからの雨により中止。けっきょく居酒屋で十数人の大宴会になってしまった。これがきっかけで有為の士が多数隊員になるきっかけをつかむことができた。

【90年12月】

 この月はおめでたいことが二つあった。ひとつは支部長夫妻に女児誕生である。
 もっとも育児のため支部長の宴会参加はしばらくおあずけになってしまったが。
 もうひとつは人外協忘年会の席で札幌在住の名古屋支部員である茅原隊員の加入が公式にけっていしたことである。これにより茅原隊員が参加する例会は自動的に名古屋支部との合同例会となった。
 ちなみに茅原隊員は自分が人外協に入隊した事実をあとで知ったと言われているが,これは単純な事実誤認である。茅原隊員が名古屋支部員であるのを確認したのは名古屋であり,忘年会は奈良で開かれたのである。つまり観測者の座標系がそもそも異なるわけで,ここで入隊時期に関してなにが同時かを問うのは無意味であろう。

【91年3月】

 北部方面支部の例会について信頼できる文献はほとんど存在しない。これは北海道においては宴会のレポートを書くのは不浄なこととされる文化的な背景があるためであるらしい。そのため例会に関する話は伝承によるものが多く,ここでは割愛する。
 91年3月に中村隊員が学会のため札幌にいらしたのを機会に急遽,例会が開かれることとなった。この席には茅原隊員も参加していたため名古屋,北海道,大阪の支部の人間が集まると言う画期的なものになった。
 ちなみに茅原隊員が自分以外の人間を迎撃した最初のOFFがこの時の例会であったと多くの歴史家が指摘している。

 

大阪支部史

阪本[支部長の代り]雅哉

 大阪支部の開設は1989年の4月になる。人外協が発足一年程度で、まだ大阪と、東京で数度例会が行われていただけであり支部などという概念は多分誰の頭にもなかったと思われる。しかし4月の第1回の例会で名古屋支部が独立したためそのあおりをくって東京と大阪の支部独立が決定されたのであった。(このときに支部長は女性に限るという規定が定められた)
 だが大阪支部の立場は非常に微妙なものである。なぜならば大阪は人外協の発足の地でありそれまでもそしてそれからも大阪支部とは無関係に例会やその他の活動が行われていたためである(そしてその状況は現在も続いている)。
 しかし、しかしである。大阪支部は掟破りにも大阪支部例会をおこなってしまったのだ。1989年5月28日であった。さすがにこれは(月2回の大阪での例会)つらいので、いままで行われていた例会を大阪支部例会とすることで一本化された(当時、私は個人的に忙しく、それでも例会には参加していたのでとっても辛かった)が、イベント(アウトドア編と呼ばれている)企画は何度も実行されている。
 最近になって米田[ハル米田]美和子初代大阪支部長の結婚そして交代(神戸支部長との兼任)がおこなわれた。新支部長は段垣[すすむクン]直世隊員である。

 ちなみに大阪支部誌は創刊が89年7月。90年1月に2号が発行されている。

 

山口支部史

和田[ゆかさまだけは・・・]由香

 山口支部は1989年、夏、に支部独立(?)しました。

 SFMの広告(?)では名古屋、大阪、東京、の後だったはずですから、まあ、早い方ですよねぇ。何にしても。
 で、今までにどーゆー事をやってたかとゆーと、広島支部との合同例会がお花見(岩国錦帯橋)と動物園(徳山)、宮島ですが、そもそもは広島の[お局様]からお誘いがあったからで、うちのは県立美術館に2回(ミュシャ展と大英博物館展)だけですからねー。
 で、なんでこーゆー弱小支部が独立なんぞをしたか、は・・・。
 そもそもは、陰山[空の要塞]隊員と、雲魂 IIIで出会ったことが原因なのではないかと思うのですが・・・。 それと、吉田律子隊員がいらしたことですよね。(支部独立した時は、吉田隊員と私だけでしたもんねェ)
 雲魂 III では、オプショナルで松江城に行きましたが、このとき、フツーならひっかかるはずのない車止めの鎖に足をひっかけてもろにこけるという情け無いことがあり、そのためかどーか、ファンクラブなんぞが出来てしまい(スタッフの陰謀かもしれないけど)その新衛隊長に陰山隊員になってもらった(石飛隊員にならされた?)訳で。
 グラサンかけてた陰山隊員を「ターミネーターみたい」とからかったりしてたんですが、そのほかにもいろいろあって(共通の知り合いがいたりとかね)、で「人外協っつーのがあるんですよー」と聞いたのがミグコンのとき。人外協で一番最初にはなしたのは、確か当麻隊員だったと思う。このとき、谷先生を初めて実物で見たんですよね。
 この後、SFクリスマスで、たいちょ、こーすけさん、前野ご夫妻、その他の隊員さんとお会いし、オプショナルのふぐちりを食べにいくため人外協からオカネを借り、返すために春期甲州祭にいって[でいぶ]、和泉隊員、磯崎隊員、天羽ご夫妻、etc の方とお会いし、シャルロット・ショコラを差し入れ持って行き、オプショナルで阿修羅王を見にいき、そーこーしてるうちに人外協に入隊し、支部独立となった訳で。
 吉田隊員とはヒロコン III で同室だったのが一番最初でしたが、その後もあちこちでお世話になってました。「白の乗り手」や「宇宙軍」にも係わってらしただけのことはあるお方です。(銀乞食外伝2参照のこと)で、支部独立させよーってなったんでしょーねー。
 しかし、これほどオオボケの支部も(支部長か?)他に無いと思うのだが。(自慢してどうする )大英博物館展は二回も変更にするし、(でも、11人も集った・多謝)宮島には直前で行けなくなるし。 広島や長崎の方がよっぽどすごいよねー(後でわかったことですが、ヒロコン IV で広島、長崎の方たちに会ってたんですねー。ある企画の部屋で・・・ほほほほほ・・・)
 まあ、うちは殆どが山大関係であんまり動きまわれなかったり、連絡が取りにくかったり県下に隊員がちらばってたりと、まあ、そんなとこです。
 でもスペース・キャンプはスペース・ワールドがつぶれる前に行きたい。(参加費が高いからひにちを決めて個人参加にしたほうがいいのかもしれない。行きたいって言ってくれたのは二人だけだったんだよー)

 というところでこれからも山口支部をよろしくお願いします。(どこが支部史だ?)

 

破目仙人の主観による「人外協信濃支部史」

信濃支部・無官の司令官
佐野[…忘れた・〈破目仙人〉にしとけ]高久

〇、混沌期(一九八八年)

 人外協信濃支部誕生のそもそもの発端は、一九八八年のダイナ☆コン7であっ
た。
 PXでいきなり、長田[防人]隊員に声をかけられた。「人外協に入らないかい?」と。人外協が谷甲州ファンクラブだと知らされた破目仙人は、即座に申込書に所定の事項を記入した。最新の「甲州画報五号」ももらった。そのまま、阪本隊長や従軍魔法使いらと酒を呑んだ。
 しかしだ、隊費の払い込みを忘れていた儂は、登録完了とはならなかった。春季甲州祭の案内ぐらいまでで、甲州画報の供給も止まった。後続部隊も、補給部隊も望めなかった。

一、草創期(一九八九年)

 そうこうするうちに一九八九年・夏。ダイナ☆コンEXに突入した。すかさず、夏季甲州の会場に駆けつけた儂は、こんどこそ隊費を払い込み、晴れて隊員となったのである。それと同時に信濃支部は承認され、支部長未定のまま活動を開始することとなった。川久保[従軍保険屋・〈むらさき〉のほうが通りがいい]隊員も、わけがわからないうちに隊員となっていた。
 その場で起こった、「名古屋お茶事件」では、儂がティーパックを投げた。

 月日は移り九月。野辺山の天文台を見学にいった。アウトドアとして、すぐに提案されたのは、その直後である。一九九〇年の特別公開では、あの、大騒ぎとなったのはまだ覚えている人も多いでしょう。

 そして一〇月、ダイナ☆コン8で、いよいよ小林[OLこのOLは実在する・〈しぶちょ〉といったほうが通りがいい]支部長の入隊である。
 彼女が、「女の子のお茶会」の会費だと思って隊費を払い込んでしまったというのは機密事項である、誰でも知っているけど。

 さて、三人となった信濃支部であるが、これといった活動はしていない。隊員全員が、φの会のメンバーであり、例会といっても、φの会の例会に過半数の隊員が存在すれば、信濃支部例会成立というファジーな取り扱いであった。

二、農閑期(何なんだ、一体)

 冬の信州は寒い。雪に閉ざされ、外部との連絡が困難となる。したがって、儂らは冬ごもりにはいるのである。その隙を突いて、あの伝説の「むらさき」が発動するのである。あな恐ろしいや。

三、発展期(一九九〇年)

 ようやっと水が温むころ、三月。まだ信州の春は、兆しだけを見せている。栃木SFコンパが催された。信濃支部の隊員は連れだって、敢然と遊びにいってしまった。

 さすがに信濃路も春に彩られて、5月。破目仙人とむらさきは大阪経由で裏日本への冒険に出た。サンドワームを退治しがてら、バッ・コンに参加するためである。
 この旅がてら、いろいろな事態に出くわした。
 まず、丸山[このニョーボは実在する・〈羽山〉といわないとわからない]隊員、篠田[通称ヤン夫人(誰もそうは呼ばないぞ)・シノータ姫なら認識される]隊員が入隊したのもエポックである。超強力な逸材を得たのである。
 「ついたんやからええヤンケ」発言。「轢ッ殺したればよかった」事件。「空(から)の要塞」発言。みんなこのときに起こった。これを期に、信濃支部は、他の支部との交流を深めていくのである。
 「おばちゃん、サンドワームの佃煮ないんか?」
 「何やそれ? そんなもんより、梨サブレ買わんかいな!」
 「それも、砂丘で獲れたんか?」
 「出てけ!」
 という会話が、砂丘会館であったかどうかは謎である。

 バッ・コンの次の週であったと思う。むらさきは単独、大阪支部主催の「花博アウトドア」へと赴いた。ここでも、「何で地下街に噴水がなきゃいけないんだ!」事件が起こっている。

 梅雨も明け、地元のコンベンションが無事終了した次の週、しぶちょ(まだ当時はまだ支部長に就任していなかった)とむらさきは、会社の研修だかを利用して、名古屋支部例会に参加した。
 その席で、名古屋支部の提案で、ジャンケンにより支部長が決定したと伝え聞いている。また、破目仙人もその直後、名古屋支部例会にお邪魔している。

 「夏は人外協の季節だァ!」「キャンプでもするズラ」
 というわけで、初の信濃支部主催のアウトドア企画「野外演習・常念岳ワーニング」が開催される。一九九〇年七月・南安曇郡堀金村の「須砂度キャンプ場」であった。
 主に東京支部から多数の参加者があった。この時から信濃支部では、作戦行動の後に温泉に入るという伝統が生まれた。考えてみると、ちょっと全県地図を見ただけで温泉場が数えるのも嫌になるくらいあるのだもんなぁ。(ちなみに破目仙人宅のトイレにはってある「長野県全図」には「○○温泉」と名の付くポイントが一〇〇以上ある。)

 一九九〇年八月。
 信濃支部の面々は、日本SF大会には登録せず「SUM PACK ’90」に参加した。ここで、狂乱酒場では強力なメンバーである長保[WXP改めWX IIベンダー・CHOMBO]隊員を引きずりこむ。いつだかわからないが入隊した藤井[ガル…略]隊員に続いて七人目の隊員である。
 その後一週間、破目仙人は東京に居座った。会社の出張だったのである。そして、東京支部例会に出席してから信州へと戻った。既に仕様の決定していた秋のアウトドアの宣伝をするためだった。

 一九九〇年九月、
 秋の訪れとともに、信濃支部は体制を固めつつある。秋のアウトドア企画「野辺山電波観測所襲撃作戦」の準備に追われる中、破目仙人がニフティーサーブの正式IDを手にした。九月二一日のことである。
 このイベントの首尾については、甲州画報などでも報告されている。一九九一年はさらにパワーアップした作戦が立案されているのはいうまでもない。
 しかし、この時に松本時間というものの全貌をさらけ出してしまった。いまだに攻撃の材料にされているのだな。
 どうやら、「野外戦闘訓練」のキャンプと、「電子戦研修訓練」の野辺山電波天文台見学は恒例行事になるようである。

 信濃支部は、定例の集会を持たないという独自のスタイル、その地理的条件を存分に活用したアウトドア企画を武器に今後も健在であろう。
 これからは、青年人外協力隊が「谷甲州ファンクラブ」であるという自覚をもう一度掘り返しつつ、非常識のないドンチャン騒ぎ集団として活躍を期待したいものである。

 まだ存続しているものの歴史なのだから、未完である(「こうしゅうえいせい・死」に続く)

 

広島支部の歴史

岡田[中国統一]忠宏

(1)支部の結成

  それは、89年11月のHIROCON4に遡る。
  それに、谷先生をはじめ、隊長、空の要塞氏(他にもおられたかもしんないけどわすれた(すいません))が参加していた。(そういえばゆか様もおられたよーな)
  隊長とゆか様と空の要塞氏が甲州先生と一緒に客引きをしていた。
  そこで、つい釣られてしまったのが僕である。
  現支部長のお局様はといえば、良く僕は知らないのだけど、隊長が言葉巧みに勧誘していたらしいという風に聞いている。


 このようにして広島支部は作られたのであった。

(2)支部の拡大

 実は、広島支部の拡大は、お局様の人脈に頼っているところが大きいのである。
 現在の支部員のうちお局様の人脈で人外協に入った人がどのくらいいるのかというと ・・・・・(いくらいるんだろ?、よくわかんないアハハ)
 とにかく、現在の広島支部の盛況はお局様の力に頼っているところが大きいだろう。  実は、現在もメンバーが増え続けているのであった。
 (すべてお局様の人脈だよなぁ)

(3)支部のこれから

 実は、筆者にはこれからの広島支部を見守ることが出来ない・・・・。
 堅気(ホントカイナ)の会社員になってしまったために配属地はおそらく広島以外だろうから 広島支部にはいられなくなってしまうのだから。
 しかし、これだけはいえるっ!
 「人外協広島支部は永遠に不滅ですっ!」(どかばきぐしゃ)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イテテ

 

長崎支部の歴史

楠本[ツアコン]礼子

甲紀 十年十一月  :  原田姉妹、HIROCON にて阪本隊長に捕まる。
十一年 七月  :  長崎支部発足。かもねぎ原田(妹)を支部長として隊員は5名。(全部女性!)
十一年 八月  :  隊員5名中4名が TOKON 参加。大例会のおそろしさを知る。
十二年 四月  :  九州例会小浜温泉ツアーを実施、この後から島原普賢岳の活動が活発化。何らかの因果関係があるのではと不安に思う今日この頃である。
支部設立から支部報発行は計4回。
思えば私情に走った内容ばかりである・・・・・・反省。

 

その他、

阪本[隊長]雅哉

[岡山支部]

 岡山支部は存在する。たとえ、支部長しかいなくても存在する。
 サラ様はいったいどうしているのだろう。

[みちのく支部]

 こんど目出度く東北地方にも隊員が生まれた。とうぜん、みちのく支部長は征夷大将軍の有難い役職名を持つことになっている。

[北陸支部]

 北陸地方にだって隊員はいるんだ。だのになぜ北陸支部がないんだ。

[四国支部]

 四国には女性隊員がいないので支部ができない。

[海外にも]

 海を越えた遥か海外にも人外協はいる。もっともいまのところジャカルタに第一歩を示したにすぎないが、いずれ世界にはばたく多国籍ファンクラブを目指そう。




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