「脱帽・白旗・けどちょっとだけ反論」に関して

田中[暗号兵]正人

  『月刊 甲州画報』(以下単に『画報』と略す)84、85号掲載の小林[闇商人]氏の所論であるが、博覧強記なことに関して素直に尊敬の意を表するにやぶさかではないものの、当方の持つわずかな資料と若干齟齬する点もあるように見受けられる。
 当方としては赤面に耐えぬが、以下にそのわずかな資料を所引して、小林氏に当方の蒙を開いていただくべく、若干の発言を行なうことにしたい。

(1)『画報』八四号「湘南屋大福帳〜倫敦条約第八絛ノ事〜」に関して

 具体的には小林氏の「〈大日本帝国〉は植民地に依存する所が少なかった(貿易は外貨稼ぎの為に行っていたのであって、今日の如く生存の為に不可欠だった訳では無い。食料はほぼ国内で自給していたし、石油など一部の鉱物資源を除けば工業原料も大方自給していた)関係で…」とある部分である。
 第一に、戦前の日本は食糧を自給できたのか?
 第二に、「一部の鉱物資源を除けば工業原料も大方自給していた」のか?
 第三に、第一・第二の理由の上で日本は「植民地に依存する所が少なかった」といえるのか?
 以上三点に関し、次のような統計資料があるので小林氏の、こちらの蒙を開く明快な説明を期待したい。

 日本の主要食料が米であることは論を待たないと考えるが、その米について、戦前の自給率は一九三〇年以降、九〇%を上回ったことがない。米に次ぐ主要食料(必ずしも人間が消費するという意味でではない。飼料としても重要であることはいうまでもないだろう)であった豆類に至っては、日本経済が戦時体制に移行した一九三九年の時点で八〇%をわずかに上回る程度でしかない。米に対する代替主食として奨励されたイモ類はかろうじて一〇〇%を維持しているが、この数値では米の不足分を補うのには充分ではなかったと考えられる。
 ようするに、戦前の日本農業は、小麦を除く主要穀物および豆、イモ類などの農産物では、国内需要量を満たすのは一九二〇年代以降に限っても不可能であったと結論づけられるのではないだろうか。
 戦前の日本は(これは高校程度の歴史の授業でもふれられることではあると思うが)米の輸入国であった。もっとも、米は食料のみに供せられるものではないが(清酒生産および成菓等に使われる)、問題は租食量として計上されている数値と国内生産との差である。戦前の日本は、国内で生産される米穀量で、国内で必要とする租食量を満たしたことがないのである。

 戦前の日本工業の花形が繊維産業であったことはここで説明するまでもないが、輸入額のトップがそれゆえ綿花であるのは当然として(したがって日本産業の主力である繊維工業は輸入が跡絶えた場合それを維持することが不可能であったのはいうまでもない)、問題は石油、鉄鋼に次ぐ輸入品である砂糖および大豆である。ここでも、食料および畜産資源を輸入に依存するという、戦前日本の体質の一端が示されていると思うのであるが、如何であろうか。
 いずれにせよ問題は、以上の引用したわずかの数値から見る限りで、戦前の日本はエネルギー、主要工業(繊維産業)原料、食料のすべてを輸入に依存していたと考えるのは、不当であろうかということである。
 この点に関するご示教を願いたいものである。

 一九八九年の通貨ベースで日本の貿易依存度は輸出約九%、輸入約七%である。これに対して、戦前の日本では一九三二年以降、戦争により通貨ベースでの通商統計の価値が著しく減じた一九四二年以降を除外すると、輸入・輸出ともに貿易依存度が一〇%を割ったことがないのである。特に、戦前日本の経済力が最大となった一九三〇年代前半において、貿易依存度が一〇%代の後半(二〇%を越えたこともある)を示したことを考えると、戦前日本の産業構造は現在以上に貿易に依存する所が多かったとも考えられる。
 これに関しても、一国の経済が貿易に依存するとはどういうことか、という経済の初歩の問題も含めて、明快なご示教を期待したい。

 戦前日本の経済統計では、日本の植民地であった台湾・朝鮮との貿易は国内移出入扱いとなって、対外貿易とは別建てになって統計されている。それら植民地との取り引きについて、額のみ、それも一九三五年度一年に限って抽出したのが表5である。残念ながら主要取引産品ごとについての出来高の統計が手許に無いが、どちらとも主として日本に対する移出品は食料であった(台湾は砂糖、朝鮮は米および海産物)と考えられる。ただ問題はその額の大きさである。植民地との取引額と、他の外国との貿易額を比較すると、植民地との取引が対外貿易に比して無視できないほど大きなものであったことは容易にわかる(あくまでも額だけについての話であるが)のである。もし、台湾および朝鮮が外国として統計されていれば、その額のランキングは日本の主要取引国である中国(そのほとんどか関東州との貿易であった)およびアメリカ合衆国と比肩するものであっただろう。
 額のみについては、日本が植民地に依存するところは極めて大きかったといえる(それゆえに、石橋湛山の、冷静な計算に基づいた植民地放棄論が、彼と別の立場をとるプロのエコノミスト達からも、経済効率という点で強い反発を受けたのであ
った)。一国の経済が植民地に依存するとはどういうことか、その点についても明確なご示教を是非期待したい。

(2)『画報』八五号「脱帽・白旗・けどちょっとだけ反論」に関して

 具体的には「警察予備隊の幹部は旧内務省出身者で占められていまして(当初は職業軍人の入隊は禁止。後に元大佐以下は入隊し得る事になった)、その影響は長く続き、80年代まで陸自首脳の多くは警察出身者だったという事実もあるのです(注あり、省略)」および「旧陸軍出身者は内務官僚出身者に冷遇され、なかなか枢要な地位に就けずに定年を迎えていったのである(陸幕長は内務官僚と陸軍出身者が概ね交互だが、総監・師団長等実動部隊指揮官に補されたものが少なく、教育機関に回されがちな傾向があった(以下略))」という叙述である。
 この叙述から判断するに、「陸自首脳」を「総監・師団長等実動部隊指揮官」と考えると、
 「80年代まで陸自の総監・師団長等実動部隊指揮官は内務官僚出身者が多かった」
ということになる。
 これは事実だろうか。以下をご覧いただきたい。

 まず、歴代の陸幕長である。
 警察予備隊中央本部長(仮称)時代および保安隊第一幕僚長を含め、防衛大学出身者以前(防大出身者で最初に陸幕長となったのは一九八六年三月一七日付で第二〇代陸幕長に就任した石井政雄陸将である)の陸幕長は次の一九人である。その略歴を次に記す(なお以下のリストについては、旧軍出身者のうち「士××」とあるのは陸軍士官学校士官候補生の期別、「大××」とあるのは陸軍大学校の期別を示す。また敗戦時の階級、および判明する限り敗戦時の職務を併記した。職務上の序列を明らかにするためである。文官出身者については入隊直前の前職、または入隊前歴のうちの主要職務を記した)。

( 1) 1950.10.09 林敬三 (警察予備隊中央本部長・仮称)…陸軍中将林弥三郎の子。            県警察部長、鳥取県知事、宮内府次長を経て
  12.29   (総隊総監に改称)
  1952.08.01   (保安隊第一幕僚長と改称)
( 2) 1954.07.01 筒井竹雄 (陸上幕僚長と改称)朝鮮黄海道知事。
( 3) 1957.08.02 杉山茂 …士36・大S8、敗戦時大佐・一八軍参謀(東條英機大将の女婿)
( 4) 1960.03.11 杉田一次 …士37・大44。敗戦時大佐・軍務局付
( 5) 1962.03.12 大森寛 …千葉県警本部長
( 6) 1965.01.12 天野良英 …士43・大52。敗戦時中佐・教総課員
( 7) 1966.04.30 吉江誠一 …士43・大50。敗戦時中佐・人事局課員
( 8) 1968.03.14 山田正雄 …埼玉県警本部警察隊長
( 9) 1970.07.01 衣笠駿雄 …士48・大55、敗戦時少佐・航本総務部員兼航空総軍参謀
(10) 1971.07.01 中林龍平 …士49・大56、敗戦時少佐・大本営参謀
(11) 1973.02.01 曲寿郎 …士50・大57、敗戦時少佐・支那派遣軍参謀
(12) 1974.07.01 三好秀男 …士53・大59、敗戦時少佐
(13) 1976.10.15 栗栖弘臣 …(海軍法務将校出身)
(14) 1977.10.20 高品武彦 …士54、敗戦時大尉
(15) 1978.07.28 永野茂門 …士55、敗戦時大尉
(16) 1980.02.12 鈴木敏通 …士57、敗戦時中尉
(17) 1981.06.01 村井澄夫 …士58、敗戦時少尉
(18) 1983.03.16 渡部敬太郎 …士60、敗戦時士校在学中
(19) 1984.07.01 中村守雄 …士60、敗戦時士校在学中

 少尉任官の最後は士侯五八期であるが、敗戦時の在校生の最終は六一期生である(四五年四月入校。ただしこの期は士官候補生になっていないので陸士卒業生名簿には記載されていない。世に「まぼろしの陸士六一期生」というという)。渡部、中村両陸将を含めると一九名のうち陸軍の正規将校出身(生徒を含む)でないのは五名だけである。五名のうち一名は海軍法務将校出身の栗栖陸将なので、戦時中正規将校の経歴を持つ者は都合一五名となる。
 一九七〇年以降、「内務官僚」出身の幹部は陸幕長には就任していない。

 警察予備隊発足当初の、最初の四人の管区総監の氏名と前職は以下のようである(と、本稿では以下霧島那智風に人事を叙述するが、了とされたい。なお発令日は林総監と同じ一九五〇年一〇月九日である)。

第一管区総監 吉田忠一/埼玉県副知事
第二管区総監 中野敏夫/国警札幌管区本部長
第三管区総監 大森寛(前出)
第四管区総監 筒井竹雄(前出)

と、すべて内務官僚出身者である。

 一九五〇年八月末から一般隊員の入隊が始まった警察予備隊は、当初幹部を任用しないまま(信じられない話だが一般隊員を訓練する下士官・将校もいなかったのである)、米軍のキャンプで米軍教官によって基礎的な軍事訓練が始まった。この辺の事情は筆者より小林氏の方が詳しいであろうと思われるのでいずれ御説明願うとして、その後の予備隊の幹部任用について、事実関係のみを年表風に示すと以下のようである。

 一九五〇年一一月 陸士五八期・海兵七四期(敗戦時少尉)に関して「追放解除」の措置が取られ、うち二四五人を幹部として任用、五一年四月一日付で幹部候補生に任命(入隊は五一年六月一一日付)

 五一年八月 中・上級幹部要員として旧陸海軍佐官級約一七〇〇名に勧誘状を発送、九〇〇名が応募、四〇六名を合格とし一〇月一日付で入隊させる

 五二年 陸士・海兵卒正規現役将校のうち、大佐の階級にあったものまで採用枠を拡大(五二年一月二〇日付で一三人入隊、七月に旧大佐級一三人特別推薦)

 予備隊の定数からして、これらの人数はかなりの割合である。

 さて、これら旧軍人達の「栄達」の状況はどうであったか。
 本来なら主要職務を縦断的に分析しその結果をここに示すべきであるが、時間と資料の制約からそれが不可能なので、代りに自衛隊発足後五年後の一九五九年、翌年の六〇年、その一〇年後の七〇年、さらに一〇年後の八〇年の四年度について、方面総監および師団長(五九、六〇年については管区総監および混成団長)の出身について調査したものを以下に示す。粗忽裡に調査したものなので多々錯誤はあろうとは思うが、一つの判断材料としてみていただけると幸いである。

【1】一九五九年から一九六〇年にかけての陸自主要部隊指揮官
(一九五九年)
北部方面総監…松谷 誠 /士35・砲工校15・大43、敗戦時大佐・首相秘書官
西部方面総監…池野清躬 /経済調査庁神奈川局長
第一管区総監…中野敏夫 (前出)
第二管区総監…加納富夫 /福岡管区経済局警査部第二課長
第三管区総監…杉田一次 (前出)
第四管区総監…辻村義和 /特別調査庁官房長
第五管区総監…細田 熈 /士39・大51、敗戦時大佐・兵備局兵備課長
第六管区総監…栗山松一 /新潟経済調査庁長
第七混成団長…関口八太郎/中央経済調査庁警察部食糧課長
第八混成団長…宮崎舜市 /士40・大51、敗戦時中佐・支那派遣軍参謀(作戦主任)
第九混成団長…吉橋戒三 /士39・大50、敗戦時大佐・侍従武官
第十混成団長…長谷部清 /士40・大47、敗戦時中佐・スペイン大使館付武官補佐官

 以上、一二名中、旧軍出身者六名、文官出身者六名
 この時点ではまだ師団制は採用されておらず、管区隊および混成団の編制である(管区隊六個、混成団四個)。また、方面隊は北部と西部の二個だけであり、現在まで続く五個方面隊体制になるのは翌年の六〇年からである。
 階級は方面総監・管区総監は陸将、混成団長は陸将補である。

(一九六〇年)
北部方面総監…松谷 誠(前出)
東北方面総監…新宮陽太 /士38・大47、敗戦時大佐・人事局補任課長
東部方面総監…杉田一次(前出)
中部方面総監…池野清躬(前出)
西部方面総監…辻村義和(前出)
第一管区総監…高山信武 /士39・大47、敗戦時大佐・軍事課高級課員
第二管区総監…加納富夫(前出)
第三管区総監…長谷部清(前出)
第四管区総監…池上 巖 /海兵54・海大37、敗戦時中佐・第八艦隊首席参謀
第五管区総監…吉橋戒三(前出)
第六管区総監…山田正雄(前出)
第七混成団長…関口八太郎(前出)
第八混成団長…平井重文 /士40・大51、敗戦時中佐・陸士校附
第九混成団長…竹下正彦 /士42・大51、敗戦時中佐・軍務課内政班長
第十混成団長…熊谷卓次 /経理部乙種学生7期、敗戦時主計中佐

 以上、一五名中、旧軍出身者十名、文官出身者五名

 新たに補充された者すべてが旧軍出身者であることがわかる。

【2】一九七〇年当時の陸自主要部隊指揮官
北部方面総監…橋本正勝 /士45・大53、敗戦時中佐・第二総軍参謀
東北方面総監…田中光祐 /士46・大52、敗戦時少佐・第一四方面軍参謀
東部方面総監…益田兼利 /士46・大54、敗戦時少佐・参本作戦課
中部方面総監…渡部 博 /士46・大56、敗戦時少佐・第一四方面軍参謀
西部方面総監…荒武太刀夫/経理部丙種学生1期、陸軍省経理局員
第一師団長 …斉藤春義 /士48・大56、敗戦時少佐、参本動員班
第二師団長 …上妻正康 /士47・大55、敗戦時大尉・兵備局兵備課
第三師団長 …堀江正夫 /士50・大57、敗戦時少佐・一八軍参謀
第四師団長 …竹田津護作(経歴未詳)
第五師団長 …村田 稔 (経歴未詳)
第六師団長 …舞 敏方 /士50・大57、敗戦時少佐・五七軍参謀
第七師団長 …溝口昌弘 /士49・大57、敗戦時少佐近衛第一師団参謀
第八師団長 …大槻光武 (昭和13京大)
第九師団長 …斎藤 稔 (昭和14京大)
第十師団長 …長谷川茂 /士47・大57、敗戦時少佐・二二五師団参謀
第一一師団長…中林龍平 (前出)
第一二師団長…曲 寿郎 (前出)
第一三師団長…古河義通 /士48・大56、敗戦時少佐・参本編成動員課

 以上一八名中、旧軍出身者一四名、文官出身者二名、経歴未詳二名(ただしこの二名は陸士卒業者名簿の中に氏名は見えない)
 なお東北方面総監の田中陸将は旧軍の田中静壱大将(士19・大28、敗戦時東部軍司令官――作戦軍としては第一二方面軍と同一のため両軍司令官を兼務―― 八・一五宮城クーデタ未遂の責任を取り自決 ただし、田中大将自身はクーデタ鎮圧に奔走し、それに対して昭和天皇から「ご嘉賞」の「賞詞」を受け、自決の際軍服のポケットにはその紙片が忍ばされていたという)の長男である。

【3】一九八〇年当時の陸自主要部隊指揮官
北部方面総監…近藤 靖 /士56
東北方面総監…渡辺 勉 /士57
東部方面総監…飯山 茂 /士57
中部方面総監…鈴木敏通 (前出)
西部方面総監…加藤誠一 /士56
第一師団長 …遠藤 健 /士57
第二師団長 …太田 穣 /士58
第三師団長 …佐藤久美 /士58
第四師団長 …荒木 一 /士58
第五師団長 …村井澄夫 (前出)
第六師団長 …小岩井千里/士58
第七師団長 …松永 力 /士60
第八師団長 …山之内種章/士57
第九師団長 …滝 武正 /士59
第十師団長 …渡部敬太郎(前出)
第一一師団長…富沢松司 /士57
第一二師団長…藤吉俊男 /士58
第一三師団長…上田友三郎/士60

 以上一八名中、すべて旧軍出身者(うち四名は士官学校在学中に敗戦)

 旧軍出身者については陸士卒業期は山崎正男『陸軍士官学校』、陸大卒業期は上法快男『陸軍大学校』、敗戦時の階級・職務については外山操『陸海軍将官人事総覧・陸軍編』『同・海軍編』、柴田隆一・中村賢治『陸軍経理部』、秦郁彦『日本陸海軍総合事典』および『人事興信録』各版に所収の名簿・略歴を参照した。
 なお各部隊の指揮官人事については大蔵省印刷局『職員録』、防衛出版会『防衛年鑑』各年度版を参照した。

 内局は別にして、実動部隊の最高幹部層に限るならば、以下の調査を信じる限り、すでに一九七〇年代の段階で文官出身者は圧倒的少数となっていたのであり、一九八〇年の時点では文官出身者は師団長級には一人も残っていない。八〇年当時の師団長級は陸士五七期から六〇期なので、一九五一年に旧軍人の追放解除後初めて入隊した、最初の旧軍出身幹部に属する世代である。この世代の同輩に一人も文官出身の師団長がいないということは、警察予備隊の文官出身幹部の登用が、そもそも発足時だけ、それも中級以上の高級幹部だけで、その後(二〇年後に師団長となるような)若手初級文官幹部を採用しなかったということを意味するものであろう。
 言い換えれば、予備隊発足時に入隊した文官出身幹部は七〇年代前半にほとんど定年で退いたということになる。「なかなか枢要な地位に就けずに定年を迎えていった」旧軍出身の幹部が多かったのは事実であろうが(例えば軍事史家として活躍している森松俊夫氏、軍制史・兵役制度の権威であった桜井徳太郎氏、「戦史室きっての史料通」といわれた稲葉正夫氏など。空自に転じたが、航空士官学校最後の候補生で日本におけるクラウセヴィッツ研究の最高の権威といわれる郷田実氏もそれに含まれるのかもしれない)、それは文官出身幹部に「押しのけられた」結果ではないだろう(旧軍出身の幹部が圧倒的多数であったのだから…)、というのが筆者の結論である。官僚機構の、ごく当然の人事の結果であったと考えるのであるが如何であろうか。
 これについても、明快なご示教を期待したい。

 以上二点についてのみ疎漏な私見を述べたが、このような謬見につき叱正を請うのみである。

 なお当方への旧海軍、機動隊に関する御意見については、別に機会を改めて私見を申し述べたいと思います。
 若干の反論もございますので。



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