脱帽・白旗・けどちょっとだけ反論

小林[闇商人]康宏

 「ワシもまだまだ修行が足らんのォ…」
 っーのが、84号の感想であります。

 [初代]隊長さま。
 要するに「海外展開を狙っている」という事なのですね。そうですか。それでようやく納得出来ました。外国で出版する事が出来たら本当に素晴らしいことですね。
 それから『フィネガンス・ウェイク』を引き合いに出しましたが、「アレを目指せ」というのは「見果てぬ理想」という奴でありまして、現実の努力目標なぞではありません。アレは大体、プロの翻訳家が千人居たとして、出来る人がそのうち1人いるかどうかというレペルの代物ですからね。ただ、理想を高く掲げませんと、到達点も高くなりませんので、とびきり高い奴を引っ張りだして来た迄でして…(「ムルキラを目指さなきゃ、ニワトリほどにも飛べはしない。アホウドリを目指したらダチョウに成るだけ」…こいつは私の人生訓なんですけど、私の日常に当てはめますなら「福井静夫を越えるゾォ!!(無理無理…)」と気合いを入れなきゃ、たかだか百部の同人誌も売れ残る…てトコでしょうか)。

 などと、エラそうな事をホザいておる割りには私もまだまだ修行が足りんようでして。
 大分ミスったようで…。いやはや、なんとも面目次第もございません。
 田中[暗号兵]様。御指摘有り難うございます。
 「主計」に関しては貴方の訳の方が適切だと思います(白旗掲揚)。ただ少々誤解をなさってる様なんですが、私、「将校が炊事をする」なんて書いておりませんですよ(「炊事専従の下士官・兵」て、ちゃんと書いてあるでしょ?)。
 蛇足ながら、この辺りを少し掘り下げますると−− 外国の事例は余り良く知らんのですが、日本陸軍では経理業務を兵(それも初年兵)にも担当させていました。しかも専従で(『よもやま』本を読むと良く出て来ます)。無論、能力のある者(「地方」で銀行員をしていたとか、企業を経営していたとか…)を当てていたようですし、勿論、主計士官の指導・監督下ででのハナシですが(但し、これが一部部隊だけの特殊事例なのか、制度として行なわれていた事なのかは不明)。
 それから、「機動隊と陸自の関係」についてですが、指摘のあった「事実誤認」は9割方、おっしゃる通りであります(脱帽…しかし良く調べ上げなされましたね)。ただし、イトコは事実誤認(<警察予備隊>は総理直属であって、<国家地方警察>の一部では無い)としても「親戚関係にある」というのは、そう言えるんじゃないでしょうか?
 つまり陸自は、発足当初は<国警><自治警>と並立する第3の警察機構だっと…と言って宜しいんじゃないでしょうか?。
 米国(と、いうよりマッカーサー個人)の真意が「新・日本陸軍」創設であった事は疑う余地がありません。ただ、当時の内外の政治状況や<平和憲法>の手前、「明らかに軍隊」であるものを造る事は到底不可能だった為、「警察機構の一部」という擬態を取って発足したという事は、これは歴史的事実だからです。吉田政権もGHQも、折りあるごとに「これは警察である」と言明していましたからネ(いまでも政府は「自衛隊は軍隊ではない」て主張してますでしょ?。あれほどの武装集団でありながら軍隊じゃないとしたら…やっぱ、警察の特殊な公安組織か、<警察軍>てことになるんじゃないんですか?)。実際、日本側の高級官僚やGHQの幹部でさえ、当初はこれを「予備警官隊かFBIか州兵の類で、共産党の武装蜂起に備える特殊警察」だと認識していたそうですから。
 それに、警察予備隊の幹部は旧内務省出身者で占められていまして(当初は職業軍人の入隊は禁止。後に元大佐以下は入隊し得る事になった)、その影響は長く続き、80年代まで陸自首脳の多くは警察出身者だったという事実もあるのです*1
 幾ら「方便」だったとはいえ、ここまで深い関係を持っていたのでは、「警察の分家」と言われても仕方が無いんじゃないでしょうか?*2
 ところで−−文章から拝察致しまするに、私が<警察予備隊>を非常勤警官隊だと誤解している…と、判断されて居られる様ですが、それは誤解ですよ。アレが正規警官による重装備部隊−−メットをかぶってピストルと警棒を携帯−−であり、食糧メーデーの際の皇居前広場大争乱事件の記録映像でデモ隊とドツキあってる警官隊が、<警視庁警備隊>時代の彼らである事ぐらいは知ってます。
 「<警備隊>を再建するに当たって、米国人のウケを狙って(非常勤警官隊では無いのにも関わらず)<予備隊>と名乗った」と記しただけです(海軍の予備員制度は…この場合関係無いと思うんですけど…)。因みに、私が陸自とき胴体を親戚視する根拠の1つが、この<警視庁予備隊(特別警備隊)>の性格なのです。この組織は戦前に発足した当初から拳銃を装備しており、警察機構で唯一の武将組織として知られていたからです(付いた仇名が「昭和新撰組」。ちなみに当時の警官は拳銃を所持しておらず、刃の付いていないサーベル−−つまり斬る事ができない−−を1本ぶら下げているだけだった)。つまり「警備隊(予備隊)イコール武装警官隊」という既成概念が日本側にあった訳で、それがマ元帥が提案した組織名「ナショナル・ポリス・リザーヴ」と相乗して<国家警察予備隊>(当時の文献にはこの名で登場する事が多いんですがねぇ…)という名称を生んだと見られるのです。

*1…海自・空自はそうではない。陸自と防衛庁内局にだけ見られる現象である。この主たる原因は吉田をリーダーとする「保守本流」の政治家と、旧内務官僚が旧陸軍軍人を徹底して敵視した事にある(「理屈倒れの精神主義者」の見本といってよい服部卓四郎が芦田均やGHQのウィロービー将軍らと結託し、政府の預かり知らぬ所で陸軍復活を画策した事が、この傾向を徹底的にした)。旧陸軍出身者は内務官僚出身者に冷遇され、なかなか枢要な地位に就けずに定年を迎えていったのである(陸幕長は内務官僚と陸軍出身者が概ね交互だが、総監・師団長等実働部隊指揮官に補されたものが少なく、教育機関に回されがちな傾向があった。クーデターを警戒されたらしい。実際、<三無事件>の際には不審な行動を見せた連中が多かったと当時の報道にある)。その点、旧海軍軍人は吉田首相や進駐軍からも信頼されており、海自と空自は彼らに委ねられた(高度に専門的なので、内務官僚の手には負いかねたという面もあるのだろうが)。中には栗栖弘臣の様に、元・海軍法務大尉でありながら、陸自幹部として陸幕長・統幕議長を歴任したケースさえある。ちなみに、陸自及び防衛庁と警察の人事交流は現在でも続いている。流石に警察出身者が制服を着る事はないが、幹部自衛官が警察署に出向する事はままあるし、警察出身の内局組はかなり多い。

*2…それなら海自は運輸省の分家かと言うとそんな事はない。確かに運輸省外局の海上保安庁から分岐した組織だが、そのルーツとなっているのは旧帝國海軍の掃海部隊であるし、運輸省・旧内務省出身者も居た事は居たが、主流派は旧海軍軍人だったからだ。飽くまで一時的に運輸省に預けられていただけの事である

 続いて旧軍制度に関してなんですが、ここにも誤解が存在する様です。田中さんが言われる事に間違いはありません。但し、それは私の言い分も同じ事でして…、どういう事かといいますと「観点と時点が食い違っている」のです。
 掌水雷長のハナシ。あれは昭和戦前期の「月月火水木金金」の頃の、重巡洋艦の場合の話です(『覇者の戦塵』て、その辺りの話でしょ?)。小艦艇の掌長は当然下士官ですし、戦時中はもっと若くてなれたのです(武蔵の沈没って…それ戦時中のコトですよ)。それに、戦時中にだって初老・中年の特務士官はいたのです。大正時代あたりからコツコツと階級を登り詰めて来た人たちが、ネ。*3
 およそ海軍軍人たる者でも普通科の術科教育を受けない者は居ません(兵に至るまで)。しかし、普通科教育などというものは(戦前であってさえ)大学の一般教養講座の様なもので、本当の専門教育と言えるのは高等科以上と艦隊勤務だったのです*4。「大尉時代に専門分野を決め…」と書いたのは、大尉で高等科や海大に学ぶ人が多く、そうでないヒトでも佐官に進んでから後は専門分野を鞍替えする事が殆ど無かったからです(全く場違いな部隊の指揮官に補される事はよくあったが)。山口多聞提督の様に、佐官級になっても色々やらされた人は本当に希なのです*5。逆に言いますと(これは小早川大尉の発言でもありますが)、海軍の兵科士官にとって少・中尉時代は見習い期間の様な者です。海軍当局は本人の憩うには殆どお構い無しに彼を色々な配置に付け、学校に入れ、何に向いてる男なのかをこの期間で判定していたのです(これは『謹言』にちゃんと書いた事ですが、航空士官は例外です。大戦期の場合だと、少尉任官から大体半年で飛行学生となり、中尉進級後に卒業して部隊配置となるのが通例でした。源田大佐は海軍航空黎明期の、制度がまだ確立していない時代に既に尉官になっていた人ですから、参考例としてはちょっと不適当である様に思われます)。
 もう一点。
 高等科術科教育を受けていない人物は、現場の専門家としてはやはり役に立たなかった模様です。海大に言った関係で履修しなかった人は、エリートですから科長職を拝命しはしますが、『謹言』で指摘した如く、その勤務実態は、掌長にオンブにダッコの御飾り科長…というケースが多かったそうですし(要するにエリートのどさ回りに過ぎなかった訳。現在でも「キャリア」が地方自治体に出向する事がよくあるでしょ?「腰掛」なんですよ。要するに)、「水雷屋の鏡」と謳われる木村提督には、何と水雷長の経験が無いという驚くべき事実*6があるのです(水雷屋としては極めて異例)。彼は現役答辞は「操艦の名人」として知られた人でして、経歴の大部分が艦長・艇長職で占められています。抜群の操艦術と式能力で異例の栄達をした人だったのですよ(ハンモックナンバーが107番。海大どころか水雷学校高等科まで落第…、こういうヒトは普通なら大佐で予備役である)。
 おしまいの方で田中さんも指摘されておられるとおり、軍事制度というものは国別差と変遷が著しいものですから、どこの国のいつの時代か明示しないと誤解のタネになりかねません。この点、注意を怠った事を深く反省しております(あの、中隊制度に関する開設は、主に『事典昭和戦前期の日本』と『日本陸海軍総合事典』から引いてきたものです。原典に年代が明示されていないので、厳密な年代は不明ですが、1930年代前半の制度でしょう)。ええと、それから…
 「プレス・ギャング」について。アレについてもこちらのミスがあります。
 「プレス」は「強制」ではなく「強制撤廃」あるいは「強制徴募」と訳すべきでした(この意味ではもはや完全な古語ですから)。因みに強制徴募の実態についてですが、対象は民間船員とは限りません。乞食や、パブで飲んだくれてる客など、連れて行っても周囲や本人に騒ぎたてられる恐れの少ないゴロツキで、若くてガタイが悪くない奴は片っ端から連行していたそうです(しかしまぁ、何ちゅうことを…)。ただ、港町で執行される事が殆どだった為、被害者の大半が船員だった事は事実です。
 <旧警察法>下での警察制度に関する詳細な解説、有り難うございました。あれは説明するのがうっとおしくなるくらい、複雑な話ですからねぇ(へたすると<内務省>という巨大官庁についてまで解説する羽目になるし)。私は「幾らなんでも蛇足に過ぎる」と思ってハショっちまったんですけど…(しかし、私が解説したとしても、田中さんほど詳細には出来なかったでしょう。感服致しました)。

 ところで、最後に1つだけ、私の方から教えて頂きたいことがあるんですが。
 <機動隊>ていうネーミングは、一体何処から出てきたんでしょうか?
 私が当時の年鑑類・新聞記事などを漁ってみた所によると、

  1. <警視庁予備隊>では<警察予備隊>と紛らわしく、且つ、「予備隊」という名称は評判が悪いので改名する事にした。
  2. かつての名称である「警備隊」は、その後海自が使用した経緯があり、「保安隊」も同様の理由でペケである上に、「防衛…」「治安…」も過去の経緯から極めてイメージが悪かった(ので使えなかった)。

 …という所までは判ったのですが、では、どうして「機動隊」としたのか、それが判らないのです(「機動捜査隊」なんてのもある位ですから、警察当局が「機動」っていう形容詞を好んでるらしい事は分かるんですけど)。

(この段:参考資料 『再軍備とナショナリズム』大嶽秀夫・著、中公新書834
『国史大事典』吉川弘文館
『事典 昭和戦前期の日本』百瀬孝・著、吉川弘文館
『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会 など

*3…戦時中、某特務中尉が<山城>に乗り組んでいた所へ、海兵出の息子が新任の中尉として配属されてきて、周囲も当人たちも困惑してしまった…たなんて逸話が残ってますが、「せめて下士官にならないと所帯は持てない」(営外に居住する事が許されないから。結婚自体は出来るが兵籍にある間は許可が要る)て事を念頭に置いてこのオヤジ中尉さんの年齢を推定してみて下さいな)。それから−−これはまぁ別格なんでしょうけれど、<大和>の砲塔長として著名な奥田特務少佐はその当時実に50代半ばでした(だってこの人、日本海海戦の参加者…)。

*4…例えば、<長門>の通信士から<天津風>へ転属になったある中尉が、操艦経験どころか航海教育さえ受けていないのに航海長にされ、その上、練習抜きで荒天下の統制魚雷戦演習で操艦したという無茶苦茶な事例さえある。これはけして特殊事例では無い。かの木村昌福もその類の経験をした形跡があるし(根拠については後述)他にも、塔整員が「現場」で操縦を覚えてしまっただのというデンジャラスな話は多い(「習うより慣れろ」という奴である)。しかし、そうは言っても、機械整備とか、事務管理とかいった、体系的な専門知識を要する分野は、やはり学校で勉強しなければダメだった様だ(操艦は操舵員・見張員・航海科・機関科等がサポートしてくれるから、極端な事を言えば、全く専門教育を受けていない人でも「勘」が良ければ出来る。適切な命令が適切なタイミングで下せれば良いからだ。だが「秘伝」をマスターしていないと酸素魚雷は爆発してしまう)。

*5…山口多聞は本来は水雷屋なのだが、潜水艦乗りに外交代表、果ては諜報活動に基地航空隊指揮官(これは将官になってから)までやらされ、最終的には艦隊航空の専門家になってしまった。尤もこの無茶苦茶な人事の背景には彼を将来の大器と見込んだ人々の意思が働いていたのだという。つまり「未来の聯合艦隊司令長官」の武者修業として、各方面の実務経験を積ませたのだ…というのである。

*6…木村昌福の履歴は以下の通り
:明治24(1891)年12月6日、静岡県生まれ。弁護士・近藤壮吉の次男。幼少の内に木村家(戸籍は鳥取県にあるが、実際に居住していたのは山口県防府市)の養嗣子となり防府で育つ(その為、かなりキツい周防訛り−−長州弁とは違う。寧ろ広島弁に近い−−があった)。因みに実家に残った兄(近藤謙治)と弟(近藤一声)も海軍軍人に成っている(二人とも大佐まで進んでいる)。柔道五段で身長は170センチあった(当時の日本人としてはかなり大柄。余談だが、身長が確実に分かっている旧海軍将官で最も長身だったのは伊藤整一で、何と189センチもあった)。趣味は(意外に思われるだろうが)山水画を描く事と庭を造る事で、鎌倉の自宅にはアトリエと自作の日本庭園があった。
大正2年12月、海兵卒(41期)。卒業席次(ハンモックナンバー)は120名中107番(完全な落ちこぼれ)。大正3年12月、少尉任官。同5年12月、中尉。6年6月、水雷学校普通科卒。6年12月、砲術学校普通科卒・臨時南方防備隊付となりドイツ領南洋諸島へ出生。7年7月、<三笠>乗組。8年9月、臨時海軍派遣隊付(再度出征)。9年8月、第二水雷艇隊艇長(艇名不詳)。9年12月、大尉(同期のエリート・草鹿龍之介は丁度1年前に大尉になっている)。10年7月、特務艦<青島>分隊長。11年4月、特命。11年9月、第二水雷艇隊艇長(艇名不詳)。12年6月、水雷艇<鴎>艇長。12年12月、第三号掃海艇長。14年12月、掃海艇<夕暮>艇長。15(1926)年12月、少佐・駆逐艦<槙>艦長。昭和4(1929)年5月、駆逐艦<朝凪>艦長。4年9月、駆逐艦<萩>艦長。5年11月、駆逐艦<帆風>艦長。7年1月、砲艦<堅田>艦長。7年9月、第三艦隊司令部付。7年12月、中佐・砲艦<熱海>艦長。9年3月、駆逐艦<朝霧>艦長。10年11月、第十六駆逐隊司令。11年12月、第二十一駆逐隊司令。12年12月1日、大佐・第八駆逐隊司令。14年1月28日、特設工作艦(当時。後に特設水上機母艦)<香久丸>艦長。14年4月20日、特務艦<知床>艦長。14年12月5日、軽巡<神通>艦長。15年10月15日、重巡<鈴谷>艦長。17年11月1日、少将・横須賀鎮守府付。17年12月5日、舞鶴海兵団長(舞鶴警備隊司令官とする史料もある。或いは兼任か?)。18年2月14日、第三水雷戦隊司令官。18年3月3日、<八十一号作戦>指揮中、敵機機銃掃射により負傷(50口径弾3発を被弾、重傷)、輸送船団は壊滅し、旗艦<白雪>も沈没(いわゆる「ダンピールの悲劇」)。内地に還送され、入院加療。18年6月8日、現場復帰・第一水雷戦隊司令官。19年11月20日、第二水雷戦隊司令官。20年1月3日、出仕。20年2月、聯合艦隊司令部付。20年4月、海軍総隊司令部付。20年6月1日、海軍対潜学校長(20年1月〜7月の期間の事実上の職務は、草鹿GF参謀長の作戦顧問)。20年7月5日、海軍兵学校教頭兼海軍通信学校防府分校長。20年10月1日、出仕。20年11月1日、中将。同11月10日、予備役編入。
その後、郷里の防府へ帰り、製塩業を営む。昭和34年頃、構造不況から廃業を決意し、ブラジル移住を準備したが、昭和35(1960)年2月14日、大腸ガンの為死去。享年68歳。
 彼の閲歴で特異なのは、陸上勤務が殆ど無い事と、艦長配置が異常な程多い事、科長職を全く経ていない事(この場合、砲術長とか水雷長の事。水雷艇長や駆逐艦長も職階上は科長である事は重々承知)それと術科学校高等科を出ていない事(海大と水雷学校高等科を受験したが失敗したのだという)と、操艦技倆に長けていたにも関わらず、航海学校の履修歴が全く無い事であろう(どうやら、<天津風>の某中尉の如く現場で仕込まれたらしい)。
 「豪放磊落」というイメージが強い人だが、それは演技であり(「田舎っぺ丸出し」も部下掌握術の一つで、実は全く訛らずしゃべる事も出来た)、かなり「計算」の出来る人だった。
こういう秘話がある。MI作戦で僚艦の<最上>と<三隅>が衝突した際、艦隊司令官の「敵前逃亡常習犯」・栗田少将は例によって、2隻を見捨てて逃げだしにかかった。ところが木村は、旗艦<熊野>に一応続航するふりをしておいて、頃合を見て「ワレ機関故障」という偽りの信号を掲げて故意に落伍し、<熊野>が水平線下に去るや反転してフルスピードで引き返し、<三隅>の生存者を救出し、同艦を雷撃処分している。公式記録では同艦は米軍機の爆撃のみで沈没し、艦長・副長は艦と共に沈んだ事に成っているが、実は両名は<鈴谷>に収容されている(但し、艦長は既に死亡。副長も収容後死亡した)。公式記録が真実を語っていないのは、栗田司令官が偽りの戦闘詳報を提出した為である(彼はこの種の行為についても常習犯だった)。木村の造反行為や<三隅>の最期の真相を告発すれば、栗田の敵前逃亡行為や造反行為(近藤2F長官の命令に反し、予定時刻に予定進出地点に到達していなかった。そこへミッドウエー島砲撃命令を受けた為、遅れを取り戻すべくフルスピードで突進中に衝突事故が起きてしまったのだ)も明るみに出る。だから彼は、木村や崎山<三隅>艦長を非難する事は出来ないし、「機関故障」と偽っても<鈴谷>を救助しないだろう…。「艦長はそこまで読んで、平気で造反されたのです」と旧部下たちは証言している(無論、信頼と好意をこめて)。

 

再び[艦政本部開発部長]様

小林[闇商人]康宏

 度々御手数をかけます。
 「ミサイル」に関する御指摘は全く御説の通りだと思います。どうも「ガイデッド・ミサイル」とは、発射母艦(母機)から誘導司令、乃至は誘導支援(レーダー波照射)を受けるミサイルの事であって、ICBMや巡航ミサイル、ハープーンなどは、そうは呼ばない様ですね(ただ、スタンダードは「誘導ミサイル」だと思いますよ。何しろ発射母艦の艦種番号に「G」が付いていますから。終末誘導はセミ・アクティヴな訳ですし)
 「無誘導」という表現も不適切でした。
 私が想定した「投射ミサイル」とは(原文に「基本的に機動爆雷と構造は変わらない」とある所から)「かなり質量比が大きいミサイルで、誘導方式は発射前の事前プログラムと、自己の探査・照準装置による自己誘導(かなり高度なAIによる自動操縦)。外部からのコマンドは基本的には受けないが、コマンド誘導も一応可能(ラストで溝口大尉が、こいつをマニュアルで爆破している以上、可能な筈)」…と、いう代物です。
 『この距離では相手の情報は光速の限界から秒単位で過去の物(で)あり…』とおっしゃいますが、それでしたら、発射母艦から誘導するより、ミサイル自体に観測させ、判断させた方が効果的なんじゃないでしょうか?(そこまで自動的にやってのける程のミサイルだから「主計に嫌味を言われる」ほど高価なのでは?)
 P127の「横G」は盲点でした(指摘される迄、意味性に気づきませんでした)。
 でも、ですよ…。ちょっと妙な点があるんです。この時点では船団は反転してませんよね?(つまり艦首を進行方向に向けている)。ヴァルキリーの位置は進行方向から11度、ほぼ正面です。で、発射時に横Gがかかった…。横Gがミサイル「投射」の反動だとすると、この「投射」は初速を与える為のものじゃ無いって事になりませんか?だって敵が正面にいるっていうのに、横方向へ初速を与えて投射するなんて変ですから。
 投射ミサイルは相当に大きく重い筈です。あまりに大質量過ぎて警備艦に2発しか搭載できないっていうんですから。多分、小振りの弾道弾くらいのサイズがあるんじゃないでしょうか?。そんな代物を投射して「わずかに横Gがかかった」て言うんですから、投射した力は大したもんではありません(この横Gって要するに反動なんですから)。
 私が考えますに、この横Gは、投射ミサイルを警備艦の船体から遠ざける為に、横方向へ「突き放した」際の反動だと思います。何の為に?…。ミサイルのエンジンのプラズマ流が船体に当たらない様にする用心の為ですよ。機動爆雷の同類だとしたら、投射ミサイルのエンジンはおそらく核エンジンです。そんなものモロに喰らったらエラい事ですから、一度船体から突き放し(投射ミサイルの推定サイズからして、警備艦はこれを両脇に抱き抱えているものと私は推定致します)、充分離れた所でエンジンを起動しているのではないでしょうか?(そう言えば、現代のAAMでも、機体から数m落下した所で点火する奴がありますよネ)。
 ところで「充分な初速さえ与えられれば、惑星間のような長距離攻撃もできるが…」についてですが、私は、それはカタパルトによって与えられる初速では無いと考えます。では、それは何なのかといいますと、発射母艦の速度だと思います。宇宙戦用投射兵器は、自身の推進機構で加速し始めた時点に、既に無視し得ない程、大きなベクトルを母艦から与えられている訳ですから。
 考えてみて下さい。「惑星間攻撃に十分な初速」といったら、最低でも秒速数キロにはなるでしょう。恐らくは数トン(ひょっとしたら数十トン)もあるミサイルに、カタパルトでそれだけの初速を与えたとしたら、反動が一体どれほどの物になるかという事を…。ヘタすると警備艦が「宇宙」分解しちまいますよ。



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