列強の海軍軍備全般を規制した<ロンドン海軍条約>には、以下の如き奇怪な条文がある。
第八條
左ノ艦船ハ之ニ對シ制限ヲ附スルコトアルベキ特別ノ協定ヲ留保シ制限ヲ免除セラル
(イ)基準排水量六百トン(六百十メートル式トン)以下の海軍水上戦闘艦船
(ロ)基準排水量六百トン(六百 十メートル式トン)ヲ超ユルモ二千トン(二千三十二メートル式トン)ヲ越エザル海軍水上戦闘艦船但シ左ノ特性ノ何レヲモ有セザル場合ニ限ル
(一)口徑六・一インチ(百五十五ミリメートル)ヲ超ユル砲ヲ搭載スルコト
(二)口徑三インチ(七十六ミリメートル)ヲ超ユル砲四門ヲ搭載スルコト
(三)魚雷ヲ発射スル様設計セラレ又ハ装置セラレタルコト
(四)二十ノットヲ超ユル速力ヲ得ル様設計セラレタルコト
(ハ)特ニ戦闘艦船トシテ建造セラレタルニ非ザル海軍ノ水上艦船ニシテ艦隊要務ノ為ニ使用セラレ、軍隊輸送船トシテ使用セラレ又ハ戦闘艦船トシテノ用途以外ノ用途ニ使用セラルルモノ但シ左ノ特性ヲ何レモ有セザル場合ニ限ル
(一)口徑六・一インチ(百五十五ミリメートル)ヲ超ユル砲ヲ搭載スルコト
(二)口徑三インチ(七十六ミリメートル)ヲ超ユル砲四門ヲ搭載スルコト
(三)魚雷ヲ発射スル様設計セラレ又ハ装置セラレタルコト
(四)二十ノットヲ超ユル速力ヲ得ル様設計セラレタルコト
(五)装甲鈑ニ依リ防護セラレタルコト
(六)機雷ヲ敷設スル様設計セラレ又ハ装置セラレタルコト
(七)空中ヨリ航空機ノ着艦スル様装置セラレタルコト
(八)中央線上ニ航空機發進装置一基ヲ又ハ各舷側ニ一基ヅツ即チ二基ヲ超エ搭載スルコト
(九)航空機ヲ空中發進セシムル何等カノ手段ガ装置セラレタル場合ニ三基ヲ超ユル航空機ヲ海上ニ於テ行動セシムル様設計セラル又ハ改造セラレタルコト
ロンドン条約というのは全編がこんな調子の厳密な規定で埋め尽くされており、かなり難解なのだが、上の条項は、
「非戦闘艦艇と二千トン以下の戦闘艦艇は性能制限を遵守する限り、好きなだけ造って宜しい。六百トン以下の戦闘艦艇は無制限に造って宜しい」
…と、要約する事が出来る。
この第8条は米英の妥協の産物である。第一次ロンドン軍縮会議(1930)では意外な事に日米では無く米英が鋭く対立した。米国が日本封じ込め策として持ち出した巡洋艦規制案が、日本よりも寧ろ英国に悪影響を及ぼしかねなかった為だ。
海外に頼る所が少ない米国とは対象的に世界中に植民地を持つ英国は、シーレーン防衛用に多数の巡洋艦を必要としていたのだ(決裂した1927年のジュネーヴ軍縮会議では英国は重巡15隻・軽巡55隻・合計56万トンを要求した)。結局、米国はこの会議で「対英均等」の大原則の放棄(米国の保有枠を重巡18万トン・軽巡14万3500トン・合計32万3500トン…と重巡を多めに認めさせる事を代償に、英国に重巡14万6800トン・軽巡19万2200トン・合計33万9000トン…と、やや多めの保有枠を認めた)と、この「第8条」を打ち出して英国との妥協に漕ぎ着けた。巡洋艦保有枠を要求量の4割減とする代償として「シーレーン防衛や平時の海上保安活動には使えるが、艦隊決戦には使いモノにならない、性能が偏った特殊な小艦艇」を必要なだけ造れる事にしたのである。
英国は第一次大戦中から<スループ>と呼ばれる、商船護衛用の航洋砲艦を整備していたので、この「抜け道」を利用して新型の<スループ>を整備した(フランスも、それと同種の<アヴィゾ[=通報艦])という新艦種を開発し、主に植民地に配備した)。
<大日本帝國>は植民地に依存する所が少なかった(貿易は外貨稼ぎの為に行なっていたのであって、今日の如く生存の為に不可欠だった訳では無い。食料はほぼ国内で自給していたし、石油など一部の鉱物資源を除けば工業原料も大方自給していた)関係で、この特例措置の活用には不熱心だったが、それでも600トン以下枠で千鳥型&鴻型水雷艇を建造したり、2000トン以下枠で、<掃海艇><海防艦>といった名義の<スループ>を整備したり(前者は全くのスループだが、後者は大湊警備府の第一駆逐隊が担当してきた北洋漁業保護任務を肩代わりさせる為に整備された軍有の漁業監視船だった。第一駆逐隊を廃棄して浮いたトン数で新型駆逐艦を建造するのが主たる目的だったという)、廃棄駆逐艦のリサイクル枠として利用したりしている。
第二次大戦中に出現する事になる列国の商船護衛艦(英国のコルヴェット、米国のフリゲート、日本の乙・丙・丁型海防艦)は、まるで判で押した様にどれもこれも速力が20ノット弱だったが、それは、条約規定により「20ノット以上は出ない様に」設計されていたこれらの艦艇をプロトタイプとしたからなのである。
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『覇者の戦塵1935/オホーツク海戦』と『覇者の戦塵1936/第二次オホーツク海戦』に登場する艦艇は大なり小なり、このロンドン条約第8条に左右されている。一等駆逐艦<沼風>(峯風型)は、占守型海防艦に取って替わられる筈だった<大湊警備府第一駆逐隊>(千島防備部隊)の所属艦であるし(軍縮条約から脱退した為、結局廃棄されず)、同型艦の<島風>=<一号哨戒艦>は史実に於いても駆逐艦枠から外す為、作中と同様の改装を施されている(但し、艦名は史実では<第一号哨戒艇>。元が一等駆逐艦か二等駆逐艦かで種別名を区別する事は、現実には行なわれなかった)。
<島風>が作中の様な姿に改装されたのは条約規定を遵守した結果である。
雷装は残っていると第8条(ロ)の(三)に抵触するので発射管は全部下ろしたし、再設置が可能な状態だと「発射スル様設計セラレ…」と見倣されるので、前部発射甲板はそのものを無くしてしまったし、後部発射管の跡地にはデッキハウスや大発の投下軌条を設けている。
同様の理由から、速力低減のため閉鎖したボイラーをも撤去してしまっている。
なお、主砲撤去は条約遵守とは関係無い。十二サンチ砲は規定では4門迄積める事になっているが、峯風型は元々4門しか積んでいなかったから、撤去する必要は無かったからである。最後尾・四番砲を廃止した理由は投下軌条を設ける為だったし、煙突の間の二番砲は二十五ミリ対空機銃と換装する為に撤去されたのである。
日本は、実は世界に先駆けて上陸用舟艇(大発動艇:1929年開発)と揚陸艦(MT船<神州丸>:1934年12月竣工>を開発した国である(それを手掛けたのは陸軍だが)。駆逐艦を舟艇母艦に改造するという、かなり斬新なアイディアが具現化されたのも、それなりの素地が既にあった為だった(米国も廃棄駆逐艦を揚陸艦に改造しているが、これはボートをダビッドで吊下す、昔ながらの方式)。
尤も、舟艇母艦というのはどうも表向きの看板に過ぎなかった模様で、種別名・<哨戒艇>が暗示している通り、後方警備用艦艇−−準駆逐艦として整備したというのが本当の所らしい。と、言うのは、揚陸作戦や兵員輸送に使われた事が殆ど無かったからだ。名前の通り、対潜哨戒や船団護衛に主用されたのである(大発投下軌条は爆雷投下軌条としても使える設計になっていたし)。
<島風>が哨戒艇に改装されたのは、史実では1940年の事である。尽瞑さんの「干渉」の結果、出現が4年も早まった訳だが「素地は既にあった」訳だから、きっかけさえ有れば、1936年時点でも充分実現可能な事ではあった(因みに、佐久田少佐が提唱している量産型駆逐艦に相当する史実上の存在は「丁型駆逐艦」であるが、これなどは1942〜43年にかけて設計され、44年に登場したものだから、史実より6年も早く構想された勘定になる。但し、現実の丁型駆逐艦は佐久田案ほど簡略化・システム化を徹底したものでは無かった)。
ところで、1940年と言えば、日本は既に軍縮体制から脱退してしまっている(1936・12・31脱退)。守る必要が無い規定を何故こんなに律儀に守ったのだろうか?
全艦種について調べてみると、日本海軍は戦艦・空母以外については1940年頃まで、条約規定を結構良く守っている事が判る(「違反」している場合でも、その事実を巧妙に隠蔽している)。国際世論を気にしたのか、米国に実勢を知られる事を恐れたのか、その辺は不明だが(たぶん後者辺りだろうが)、結局の所、大戦前夜まで日本も軍縮条約に事実上拘束されていたのである。
おっしゃる通り、検討を要する問題であります。多分、訳者ごとに訳が違ったとしても仕様が無い、唯一の正解なぞ無い案件なのかも知れません(各人の感性次第…という事で)。
ただ、私が「torpedo」を引っ張り出してきた理由をもう少し述べますと、
…といった事柄をも考慮した上での事なのであります。
機能名の略語(頭文字という事でしょうか?)という方法も確かに有りますが、機動爆雷は(当たり前ですが)架空の兵器ですからその頭文字略語はつまり造語という事になり、読者が概念をスンナリ理解してくれるかどうか、少々危ぶまれます。
さりながら、<宙域制圧母艦>などを頭文字略語で表わすというのには賛成です。
外宇宙侵攻期の航空宇宙軍の艦種名は<主力戦闘艦>とか<高加速戦闘艦>といった様に、用途・性能に着目したカテゴライズになっており、第一次外惑星動乱時とは明らかにカテゴライズの方針が異なっています(何百年も経ってるんだから当たり前ですが)。
ですので、外惑星動乱期には地球の海から引き揚げてきた様な古色蒼然たる名詞を並べ、外宇宙侵攻期には頭文字略語の宇宙用語を主用する様にして、敢えて「言語の断絶」を演出した方が「時は流れた…」という雰囲気を出せるんじゃないかと思えるのです。
如何でありましょうか?…。