CONTACTとは、全米にわたる学術的な会議であり、私が1983年に創設したもので、その結果、毎年国中から幾人もの主要な科学者、SF作家、芸術家たちが集まって人類の将来について、意見を交わしあい、可能性を探求し、そして新しい展望を刺激しあうこととなった。私達の目標は、我々が宇宙時代に入っていくにつれて、私達の前に存在するものについて、真剣かつ創造的な学際的展開を促進して行くことだった。
すべては、私が教鞭をとっていたカリフォルニア州アプトスにあるカブリロ・カレッジで、1979年に始めた講座から始まった。その学科は「未来への人類学」といって、人類学を教えるため科学とSFの両方を使うようにデザインされたものだった。私は人類学の単位を取る前に文学の学士号を取得していた。そのおかげで、私は科学と人文科学を全く快適に併有していたものだ。実際には既に1966年ごろ幾つかのSF小説は私の文化人類学の講義で必要なテキストに入っていたが、なぜなら、私の学科において色々な問題点と可能性を明確にするのに適していたからだ。
なぜSF文学なのか。そのわけは、SF作家と人類学者たちが、多くの共通の興味を持っていることを知ったからだ。簡単に言えば、人類学者は異星人の文化を学び、SF作家はそれらを作り出す。また、SFは、私の知る限りにおいて、文化人類学者を英雄にでき得る唯一の文学ジャンルでなのである。
1979年の夏期講座の準備をしている最中に、私は休暇をとり、ワシントン州のポートタウンゼントにいる友人を訪ねた。私が自分の提案した講義に熱弁をふるい終えるまで待っていた後、友人は、はにかみながら微笑んでいった。「あなたはFrank
Herbertに会いたい?」私がだって?「デューン」は授業で使おうと計画していた小説で、信頼に足る創造された文化をもつ最適な例のひとつだった。しかし、私は、彼の住む町に行くということは全く考えになかったのだ。私が、なんとSF作家たちのことをほとんど知らなかったのがおわかりになるだろう。1時間半後、私はFrankの家の居間に座っていた。彼の妻Bevはバタークッキーを出してくれたけれど、私達が人類学とSFのつながりに興奮するにつれて、その午後は、彼の家中の食品を完全に平らげてしまったにちがいない。あのときは講義よりもすごいものだった。まったくひとつの大会だった。
私は1980年に2度この講座を教えた。(作家であり、Herbertの協力者であるBill
Ransomが客員講演にやって来てくれた。)そして、1980年秋、私はSF作家を「収集する」ことを期待して、『FanCon』の巡回を始めた。サンタローザで開かれたOctoconで私は幸運にもCarol
Bowman-Porterと会えた。彼女はこの企画に感激し、その後委員会のメンバーになった。彼女は、私に、私がかつて会った中ではNASAの一級の科学者を紹介してくれた。彼はその時ミントグリーンのボディスーツを着ていた。このことは宇宙計画についても私に希望を与えた。彼は参加に同意してくれたのだ。
次に私は、作家のMichael
Bishopを引っ掛けた。フロリダの母を訪ねていたときジョージア州のパインマウンテンの彼の住所を突き止めたのだ(電話帳に載っていた)。私は彼の小説の「アサディ族における死と指名」(樹海伝説第1部)が、民族誌学を創造する上で模範的であるので使わせてもらっていたのだ。私は、彼が本当に話し合いたがっているとは思っていなかった。しかし私が一人でピグミーチンパンジーを見るために訪れる予定のローズヒル・プリメイトセンターに彼を招待すると、(人類学者は幾つかの特権を持っているものなのだ)彼は同意を示した。新年までには、マイクの約束を取り付けた。
次にサクラメントで開かれたWesterConで、キャロルがヒューゴ賞受賞作家のLarry NivenやC.J.Cherryh、John
Brunnerを紹介してくれ、そこで私はCONTACTのアイデアを提示した。それは、1981年の夏のホテルのバーでテーブルを囲んでのことだったが、CONTACTは初めて現実味を持ち始めたようだった。
HerbertとUrsula LaGuinの援助と、このように高名な作家の中心グループからの約束、私は、今こそ、他の人達を何よりも引きつける傑出した名簿を得たのだった。私は最高の状態でスタートをきろうとしていた。それは私が望んでいたよりもずっと素晴らしいものだった。
もう一つ幸先のよい出来事は1981年のハロウィンに起こった。バークレーで開かれた世界ファンタジー大会で、尊敬する友人のPeter Bagleと一緒に参加した際、偶然、芸術家のJoel
Hagenと出会うことができた。この一年会うひと毎に「彼には会わないといけない。」といわれていたからだ。彼らは正しかった。(ところで
Joelは、文化人類学の博士号を持っている。)私が文化創造とコンタクトシミュレーションの話をした時、JoelはThraxispの世界設計と異星人のデザイン計画について話した。その計画は、彼とNiven、Paul
Preuss、William K.Hartmannとその他の人々が、この前の春のロスアンジェルスでのEquiconで創ったものだった。私達は平行線上で実に集中した形で動いていた。そこで私は大会を軌道にのせるのにJoelに会議に参加してくれるよう頼んだ。彼は賛成してくれた。私達は、CONTACTの創始者として実行委員になったことになる。世界の創造からCONTACTまで、創造的な過程を披露するようにすべての「組み合わせ」のシミュレーションを特色にすることにした。私はBateson
Projectと呼ぶことにした。
翌年中に、私は他の人たちの参加を得ることができた。何人かの素晴らしい賛同者たちをそそのかして「SF(空想科学)と文化人類学の連結の可能性を探求する」会議の告知レターを送り始めた。ピンカードの年次SF作家サロンでJerry
Pournelleが加入した。Joelは、Preussの才能をひきいれた。私の同士たちの中でまず、最初に呼び掛けに反応し宣伝してくれたのは北アリゾナ大学のReed
Rinerだった。彼は最初に企画委員会のメンバーになったが、Cultural Futures Research
journalの編集長だった。次は、サンディエゴの州立大学の教師で自然人類学の教科書の著者でもあるBob Tyzzerとチコの州立大学のCharlie
Urbanowizeで、彼は、私達の分野では、SFの長期チャンピオンであった。最後は、米国人類学協会の前会長であり、USCの科学協会の長であるPaul
Bohannanで、彼は彼のための場所がもしあればと手紙に書いて来た。ありますとも!私は双方の専門分野から収穫の粋を得て大会をスタートさせた。
第1回のCONTACTは1983年3月カリフォルニア州サンタクルズで行われた。
サンタクルズ市長が「CONTACT
Day」の宣言をした。作家と人類学者それぞれに、「ブゥードゥー教の科学とデータ」「私達が想像するより変ったもの」「生物学的要因によるコンタクトの種類」「現在の人類社会の虚像」というような題名の専門論文を発表した。C.J.Cherryhは「色あせた太陽」3部作からRegulの異星人創造をケーススタディとして最初に提供してくれた。
Bateson Projectは作家と人類学者と芸術家からなる二つのチームから成り立っていた。異星人側に Cherryh、Riner、Pamera
Lee、Hagenと私。人類側は、Bohanann、Mischa Adams、Tyzzer、Bishop、Preuss & Darrel
Andersonだった。このゲームの基本ルールからチーム間のコミュニケーションはなし。Nivenは(とにかく、彼は全て自分でやってのけることができる)スパイであり、Pournelleはトラブルシューターになった。つまり彼らは両チームの相談役を努めたのである。
異星人の世界は、宇宙飛行士で芸術家のHartmannによってホテルのレストランのテーブルで朝食をとりながら、大急ぎで地図化された。K1恒星型。惑星。1天文単位のところに存在。地球よりも寒い。たっぷりと水分が多く極端な複数の季節がある、極冠の永久氷も大きい。
異星人は海から進化した。新しい生物分類は、私達が地球上のクジラや甲殻類やイカやタコなどの軟体動物に見出す多くの特徴を結合させたものだ。それらはいくつかの明確な生命段階があり、それぞれ形態は大きくなり、そして移動性は小さくできる。若いネストの管理人たちは戦士であり歌い手である。コロニーでの仕事のほとんどを分担する。巨大で古くからの生き物で哲学的な空想家である。私達は、この種を錬金術師と名づけた。なぜなら、彼らの体は、化学工場だからだ。スペクトラムサウンドと同じようにヌクレオチド複合体を合成している。彼らは、彼らの海を歌とフェロモンで満たしていた。
人類は破壊された地球からの避難民だった。コロニーの人々は多くの世代をかけて宇宙を旅して新しい惑星を見つけようとしていた。その間彼らは比類のない自己抑制的文化を発展させただけでなく、生物学的にも進化していた。彼らの恒星船のテクノ・エコロジーは、0Gに至る様々な範囲の環境を包括していた。これらの状況は直線状の体、引き伸ばされた胴体と指、そして把握力のある尻尾を選択させた。(私達の宇宙飛行士たちは、これを便利なものだと思うかもしれなかった。)
彼らは宇宙で遭遇した。錬金術師たちの宇宙飛行技術の進歩は、彼らの海洋という環境によって遅れていた。−−特に推進力と宇宙船内部の環境をどうするか−−しかし彼らには拡大性の強い宗教的動機があった。人類の宇宙船が彼らの太陽系に入って来たちょうどその時、コンタクトには非常にあやうい瞬間だったが、ついに彼らの「水で満たされたブリキ缶」を軌道上に到着させたのである。
接触は、観客の前で2つのチームによって、ゲームのようなシナリオを利用してドラマのように脚色された。会話のやり方はそれぞれのチームが順番にやるか、「動く」ことで行われた。Cherryhは、専横なゲームマスターだと判明した。クライマックスは3人の人間が宇宙服を着て異星人の宇宙船に入り、偶然若い個体に遭遇したことだったが、そいつは廊下を曲がってきたところだったので、中央ネストへ直接逃げ込んでしまった。
人間たちはそのあとに続いた。この場合、それは悪い動き方だった。彼らは、動揺した大きな戦士たちによって厳重に守られた、コロニーの最も傷つきやすく大切な場所に何の前触れもなく突然現われてしまったのだ。その結果、異星人3人、地球人0人が死亡することになった。
ゲームのレベルとして、遭遇は失敗のように見えたが、この計画の全体のメタレベルとしてはそうではなかった。どのようなファースト・コンタクトの状況でも、間違った選択やミスコミュニケーションに起因する危険の可能性や犠牲は含まれるが、しかしこんな不確かな情況でそれが要求されたのは残念なことだった。異星人側に報復することをよしとしなかった反応は人類側の名誉である。その結果から、もう一度違った方法でやってみることを学んだのだ。もちろん、これはシミュレーションであり、誰も本当に殺されたりはしない。しかし、それは私達の大切な学会のゴール(いつでもどこでも起こりうる異文化交流でのコンタクトに倫理的アプローチを発展させること)の1つの方向に確かな動きを構築したのだ。