ダブル・スタンダード

黒川[師団付撮影班]憲昭

「あなた、SFと私とではいったいどちらが大切なの?」
「そんなこと答えられるわけがないじゃないか」
「いいえ、いますぐどちらか答えてちょうだい。そうでなければ私たちはもうこれまでよ」
「そんなことを言われたって、君がいなければ生きていけないし、SFがなければ生きていてもしょうがない」
「解ったわ。私たちもう会わない事にしましょう」
「待ってくれ、たかが映画を見るだけでいったいどうしてこんな事になってしまうんだ?」
「こちらこそ、デートでスタートレックを見たいなんて言う人の気が知れないわ」
「なにをいっているんだ。君だってXファイルのファンじゃないか」「それとこれとは話が別よ」
「そんな殺生な」
 と、いうような興味深い会話をこの前難波の松竹で聞いた。
聞く限りではどっちもどっちだが、これと似たような会話は過去色々なシチュエーションで行われてきたし、現在も地球のどこかで飽きずに繰り返されているだろう。
 例えば次のようなものが。
「あなた、内政の不干渉の原則と人権の保護とではどちらが大切だとおもっているの?」
「そんなこと、答えられるわけがないじゃないか」
「いいえ、いますぐどちらか答えてちょうだい。返事しだいでは地上軍を投入するわよ」
「そんなこと言われたって、コソボは完全な内政問題でNATOからとやかく言われる筋合いじゃないし、人権はヨーロッパの一員として十分尊重してきたつもりだ」
「解ったわ、これからは限定的な核の使用を前提としたお話をしましょう」
「待ってくれ、たかが六十万人くらいの人間のことでいったいどうしてこんな事になるんだ」
「こちらこそ、今の国際社会で特定の民族を抑圧するなんていう人の気が知れないわ」
「なにを言っているんだ。君たちだってクルド人問題を抱えているし、他の国もチベットやチェチェンではもっとひどいことをしているじゃないか」
「それとこれとは話が別よ」
「そんな殺生な」
 これも、当事者同士はひどく真剣な会話であることは推測出きるのだが、遥か離れた極東の島国からすればやはりどっちもどっちという感がある。
 もっともこういうときに下手に茶々を入れるとかえって話がややこしくなりめぐり巡ってこちらにも、とばっちりが来かねないので温かい目で見守るのが無難だろう。
 ところで、これらの会話をしている人たちは理解しているかどうかはわからないが、一つのものに対して「二重の基準」を設けている。それは核ミサイルを持っているか、あるいはデイビッド・ドゥカブニーが主演しているかどうか、などだ。
 この「二重の基準」については法律学の世界の中で、特に憲法を論じるに当たって一番最初に議論される問題であるのだ。ここで大学の教養課程で法律学を専攻された方、あるいは法学を学ばれた方は「ああ、あれのことか」と思われるだろうがしばらくご辛抱願いたい。
 フランス革命以降、人間が生まれながらにして持つ権利のことを「人権」あるいは「基本的人権」と呼んできた。そして近代に入って、国民が国家に対して具体的な処置を要求する権利、つまり社会権も憲法で保証するようになり、今日ではこれらの権利も基本的人権に含まれると広く解釈されるようになった。
 その内容はここでは便宜上、精神的な自由(表現・思想・宗教の自由など)と経済的な自由(財産・勤労・結社の自由など)の二つに分けて考えてみたいと思う。
 仮に精神的な自由と経済的な自由のどちらをより優先的に保護すべきかという設問がなされた場合、現在もっともスタンダードな憲法学の教科書では精神的な自由が優先されるとされている。法解釈や判例もおおむねそうなっており世界的に見ても一般的な考え方だといえるだろう。
 その法理論はある意味単純なもので、経済的な自由が制限されたときにはマスメディアなどに広く訴える事でその回復が可能であるが、もし(精神的な自由の代表である)表現の自由が制限された場合はこれを回復する手段が事実上なくなってしまうからだ。
 確かに原則論から言えば、そもそも基本的人権に対して精神的か経済的かによって優劣を付けること自体がナンセンスであるという批判は当然起こってくるのだが、基本的人権を個々に取り上げてゆくと運用面で矛盾する内容が含まれている事が結構多く、このように順列をつけることがどうしても必要になってくる。
 ただしここで重要なのは基本的人権が制約されるのは、公共の福祉のためだけであるということで、それ以外のいかなる理由によっても制限されるべきではないということは理解しておいていただきたいと思う。
 そしてさらに興味深い問題として、精神的自由のなかで対立が起きたときにどうすればよいのかということが挙げられる。よくある例で言えば、表現の自由とプライバシーの権利が互いに主張された場合どちらを優先させるべきかという、なにかスキャンダル報道があるごとに良識的な態度をもって任じる新聞が好んで取り上げる論題がある。
 これはまさしくケースバイケースという言葉通り、各事例ごとに様々な判例が示されている。有名な例でゆくと、三島由紀夫の小説「宴のあと」が個人のプライバシーを侵害しているという判決を受け謝罪広告と損害賠償を命じられたというものがある。もっともこの場合モデルが公人=元政治家であったため、現在のような政治家・官僚に対してより厳しい目が注がれている状況では、自ずから判決が変わっていた可能性も無くはない(ちなみに「宴のあと」については完全な野次馬的な根性で、ある教授から借りて読んだことがあるが、あまり大した内容では無かったというのが当時の率直な感想だった)。
 このような法理論を学生時代に叩き込まれてきたことで、なにか対立が起こったとき、相手がケースごとに違う答え方をしたとしてもあまり気にするべきではないという、ある種妥協的な態度を身に付けるようになった。つまり原則というのは確かに大切なものだが、それも時と場合によると言うことだ。
 このような日和見的な態度は決定的な破局を迎えない代わりに、決して回りから好まれるものではないのはよく承知している。学生時代にもいたが、露骨な場当たり主義の教師は決して尊敬されることは無かったように思う。
 では、もしあなたがSFと恋人あるいは民族と人権などの選択に立たされた時に、いったいどういう態度で臨めばよいのか?妥協して惨めな思いでスクリーンを見るか、はたまた決裂してこれもまたむなしい思いでスクリーンを見るのか?。
 ちなみに先ほどの恋人同士の会話を続けてみると。
「君は好きだし、SFも好きだ。だから今日はもう映画を見るのはやめにして、ボーリングにでもいこう」
「そうね。映画ならビデオでも見られるし、こんな事で喧嘩するのもばからしいわ」
「じゃあ、とりあえずどこかにいこう」
 こうして、二人はどこかにいってしまった。劇的な結末でもなければ、大衆受けする結論でも無かった。しかし、二人は関係の維持というこの場合一番大事な価値を保つことができたわけだ。
 願わくば海の向こうでの価値論争も互いの二重の基準をあげつらうことなく妥協を探ってもらいたい。 基本的にはお互い人命が一番大事だという価値観を持っているのだからそれは可能だろう。



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